麺琴楼攻略作戦3
──香りの奥にある、何か。
それが、記憶でも思考でもない、“意志”そのもののように感じられた。
BENIは、金属製の椅子に拘束されたまま、視界の端を揺らしながら必死に抗っていた。
が──呼吸の浅さに反比例するように、脳内の輪郭が溶けていく。
「……さすがですね。並の者なら、もう笑って過去を懐かしんでる頃ですよ」
黒鴨の声は、すでに“音”として届いていなかった。
香りの響きとして、ただ脳に染み込んでくる。
──ただ、最後に聞き取れた言葉だけは、意味を持っていた。
「まぁ、よいでしょう。直に、あなたは堕ちる。
……その時が来れば、全てを自ら口にするようになりますよ」
BENIは微かに眉を動かした。だが、体はもう反応しなかった。
黒鴨は小さく器を置き、立ち上がりながら、背後の扉に手をかける。
「残り香でも、楽しんでいてください。お時間は、たっぷりありますから」
その声が、やけに遠く感じられた。
扉が静かに開く。
淡く光が漏れ、その先には部下が一人、姿勢よく待機していた。
「黒鴨様、重政 典久が来ております。」
「──あぁ、今行く」
黒鴨は顔をわずかに傾けたまま、薄く笑う。
そのまま扉の外へと歩き出すと、扉が音もなく閉じられた。
仄暗い部屋には、再び“静かな香り”だけが残った。
BENIの胸元に縛られたチェーンが、かすかに音を立てて揺れた。
──そして、場面は切り替わる。
同じように、音もなく開く自動ドア。
その先に広がっていたのは──
UISFゼロ本部、28階。
情報分析室の空気は、香りのない静謐で満たされていた。
照明が一段階落とされ、モニターに地図と解析ログが表示される。
卓の先に立つ男──杵場 玄局長が、低く重い声で言い放った。
「……数時間前、諜報員BENIのGPS反応が消失した。最後に確認されたのは香川県内、財閥傘下の飲食施設《麺琴楼》付近だ」
画面が切り替わり、麺琴楼の外観と座標、過去の配送記録が表示される。
「表向きはうどん屋──だが実態は、出汁搬送ネットワーク《Broth Net》の中継施設。そして、財閥の試験運用拠点でもある可能性がある」
部屋の空気が変わる。 FLOWAとSAJIROが無言で互いを一瞥した。
「情報封鎖も早い。警察も報道も一切触れていない。つまり……財閥内部で何かが起きた。その結果としてBENIが行方を絶った」
杵場は手元の端末を操作し、作戦概要図をモニターに送る。
「よって、本作戦を二段構えで行う。
SAJIRO、君には武装可能な諜報員を率いて、麺琴楼への急襲部隊を指揮してもらう。
FLOWA、君には潜入による救出任務を託す」
FLOWAが表情を引き締めるが──次の一言で、空気が硬直した。
「同行者は技術分析班・月森イオだ」
「……局長、それは不適当です」
即座に声を上げたのはSAJIROだった。
「イオは戦闘訓練課程を修了していない。あくまで分析班です。彼女を前線に出す判断には……正直、反対です」
「私も同意見です」
FLOWAも続いた。
「彼女は出汁圧縮構造のデータ解析においては優秀ですが、救出任務は……」
杵場はゆっくりと息を吸い、二人の反応を静かに受け止めたあと、重々しく告げた。
「──今回の任務は、“救出”だけではない」
「麺琴楼は財閥の重要施設。内部構造、出汁搬送ルート、《文書》関連の痕跡──探れるチャンスは一度きりだ」
イオの名が再度表示される。
「月森イオには現地で得たデータの即時解析および出汁構成プロトコルの判定を担ってもらう」
「要するに、本命と陽動。
SAJIROたちの急襲が“表”。
FLOWAとイオの行動が“裏”だ──まあ、どちらも本命と言えるがな」
沈黙が数秒。
イオは一歩だけ前に出ると、小さく一礼した。
「私にできる限りのことをします。……BENI先輩を、助けたいんです」
FLOWAは、視線をそっと彼女に向け──何か言いかけて、やめた。
その顔に刻まれたのは、任務と個人の感情が交差する諜報員としての迷い。
SAJIROが低く唸るように言った。
「……任務に出すなら、責任はあんたが取れよ、局長」
「もちろんだ」
杵場は、わずかに笑った。だが目は笑っていない。
「それが指揮官というものだ」
──こうして、BENI救出作戦は静かに動き出した。