麺琴楼攻略作戦2
──空間が、静かだった。
窓のない地下室。壁はコンクリートと断熱材で二重に閉じられ、外気も振動も遮断されている。
灯りは天井の薄い光源ひとつだけ。
BENIは金属製の椅子に固定され、両腕は後ろ手。足元のチェーンが僅かに床を擦った。
正面には、ひとつの木製の小机。そして、その奥──
煙管をくゆらせる、黒いスーツの男。
黒鴨だった。
「……室温、やや高めですね。香りが立ちやすい」
男はそう言って微笑むと、煙管の灰を盆の上に落とす。
盆には香の粉末と、茶碗のような出汁器が置かれていた。
BENIは、その香りが室内に満ちていくのを感じていた。
これは──以前、ホワイトブロスで嗅いだ匂いに、わずかに似ている。
黒鴨が、言葉を投げかける。
「あなたが本部へ送った報告……まだ解析には届いていないようですね。
つまり、ここで止まってくれれば、何も失うものはない」
BENIは何も言わない。ただ視線だけを向ける。
睨むでもなく、逸らすでもない。訓練された「情報を与えない目」。
黒鴨は薄く笑い、指先で卓上の器を一度揺らした。
淡い琥珀色の出汁から、ふわりと香りが立つ。
「鼻は、正直です。視覚や言語と違って、抑制が利かない」
「これは“記憶に届く出汁”──ただ香るだけで、人の心は緩む」
BENIの眉が、僅かに動く。
だがその反応すら、黒鴨の目には“収穫”だった。
「言葉を引き出すつもりはありません。
……あなたの“反応”だけで、必要な情報は取れる」
BENIの喉が、ごくりと鳴る。
苦味に近い香りが、肺の奥へ染み渡る感覚──
意識が、輪郭を削られ始めていた。
(……やばい)
BENIは自分の中で、訓練された精神防壁を立てようとする。
だが、“香り”はすでにその外から、心の底を揺さぶっていた。
──記憶の片隅にある、「何か懐かしい匂い」。
誰かの着ていたシャツ。幼い頃に嗅いだ台所の湯気。
その一つ一つが脳内で再現され、気付かぬうちに、心を解いていく。
黒鴨の声が、静かに響く。
「……麺琴楼の“地下搬送路”。あなたは、何を見た?」
BENIは、答えない。
その代わり、うっすらと笑った。
「……香りで、記憶を掘り起こすって? あんた、趣味が悪いわね」
「こっちは……ラーメン派だったのよ」
黒鴨は、眉一つ動かさず煙を吸い込んだ。
「──それでも、貴女は“出汁”の深さを恐れたはずです」
空気がさらに重くなる。
室内に、香りがもう一段、深く沈んでいく。
BENIの瞳が、揺れた。
“香り”の奥にあるのは、記憶の再生ではなく──思考の誘導。
“鼻識層”。それは、人の判断を根底から、香りで上書きする。
──視界の輪郭が、わずかににじんでいた。
室内の空気は透明のまま。
だがBENIの瞳には“色”が混ざって見え始めていた。
淡く、過去の記憶の断片が──それも“心の奥にしまったまま”のものが、
まるで夢のように現れては消える。
たとえば、任務で失敗しかけたあの晩。
仲間が傷つき、ひとり作戦区域に取り残された──
吹き抜ける冷風と、血と油の匂い。
あるいは、子供の頃。
実家の台所。母親が作った、少ししょっぱい肉うどんの湯気。
その香りが──今、眼前の出汁と、あまりに似すぎていた。
(やば……、これ……)
BENIは、椅子の背に重心をかける。
冷静に見せようとしても、呼吸が乱れ始めていた。
嗅覚から侵入した香りが、脳の奥──記憶を司る領域に沈み、
“正しい判断”を削り取っていく。
黒鴨は、BENIのその表情の変化すら「情報」として受け取っていた。
「……見えてきましたね、扉の先が」
BENIはかすかに顔をしかめた。
まるで彼の声すら、“匂い”として脳に流れ込んでくるような──そんな錯覚。
「なぁ……にが……扉よ」
言葉が、やや濁る。
BENIは咄嗟に舌を噛み、自ら意識を痛みで引き戻そうとする。
黒鴨が器をさらに傾けた。
香りの密度が、またひとつ増す。
これは明らかに“濃度を操作されている”。
──そして、視界の中に“幻影”が映る。
作戦帰りの、あの香川の路地裏。
うどん屋の暖簾を背にして、三人──いや、四人。
自分、FLOWA、SAJIRO、そして月森イオ。
誰が決めたわけでもない。
けれど、全員が自然と同じ屋台に腰を下ろし、
湯気の向こうで何気ない言葉を交わし合っていた。
「つゆ、濃すぎですねぇ……」とこぼすFLOWAに、
「うまけりゃ濃くてもいいじゃねえか」と返すSAJIRO。
「ワサビ入れると、意外と中和されるっスよ」と、笑うイオ。
そんなやり取りが、脳内の奥底に“やけに鮮明に”再生されていく。
──香りの干渉が、記憶の断片を“抜き取って”繋げているのだ。
BENIはわずかに眉を寄せ、しかしそれでも“その情景”が、どこか心地よかった。
だからこそ危うい。
戻れない過去に“安心”を見せて意志を鈍らせる──これが鼻識層の罠だ。
──ふと、SAJIROの背後に、大柄な男の影が映る。
BENIが視線を向けた瞬間、
その男は、微かに笑ってこう言った。
「……おい、寝てねぇで食え」
言葉と同時に、その姿は霧のように溶けて消えた。
誰だったのか──明確な記憶はない。
けれど、“何かが見ている”という感覚だけが、残った。