麺琴楼攻略作戦1
現時刻を以って、ホワイトブロス(白兄)作戦から麺琴楼攻略作戦に移行します!!
観測者諸君、準備はよろしいか───。
BENIは薄暗い搬入口裏の倉庫で、最後のひと袋の小麦粉を棚へ押し込むと、つま先で床をコツ、と鳴らした。
音の反響が──違う。沈んだ、妙な空洞音。
「……やっぱりね。味の下には、必ず“出汁”がある」
仮設照明を軽く動かし、影の出方を確かめる。
わずかに浮き上がる、四角い継ぎ目。倉庫全体が打ちっぱなしのコンクリートで構成されているなかで、そこだけ違和感があった。
BENIは手早く倉庫内の監視カメラ位置を確認。
棚の影で死角になっている場所を把握した上で、腰のツールポーチからマルチツールを取り出す。
「……ちょっとだけ。味見程度よ」
ロックボルトを外し、板をゆっくりと開くと、そこには──
人が一人、ぎりぎり通れる幅の階段が地下へと続いていた。
そこからかすかに立ちのぼるのは、湿り気と──わずかな、乾麺の香り。
BENIはため息のような息を吐き、作業着の上着のファスナーを少しだけ上げ直す。
胸元の布が、ほんの一瞬だけ張った。
「隠し味って、見つけるから楽しいのよね」
足音を立てず、階段を下りていく。
視界の端で腕に装着したセンサーが微かに反応。
「熱源:無し」──そう表示された次の瞬間。
背後。倉庫からの開口部に──何かの影が、差し込んだ。
「……っ──?」
振り返る間もなかった。
首筋に微かな衝撃。
意識が、すぅっと──沈んだ。
搬送階段の奥へと、彼女の体は音もなく崩れ落ちる。
そして──影は無言のまま、開口部の扉を閉じた。
────────────────────────────────
部屋は静まり返っていた。
灯りは一灯、天井から吊るされた紙行灯が微かな橙色を投げかける。
畳は深緑、壁は無垢の檜。音ひとつ漏れぬこの空間において、唯一動くものといえば、出汁茶の湯気だけだった。
その正面に座しているのは、男ふたり。
一人は、地元の名士を装いながら、四国を軸に政界へ強い影響力を持つ大物──重政典久。
環境保全を掲げ、メディアでは清廉な姿を演じるベテラン政治家である。
対するのは、麺琴楼の裏の管理者──黒鴨。
財閥幹部の一人にして、味覚を通じた“支配構造”の理論構築者。
二人は無言で湯呑を手に取り、それぞれの“味”に意識を馴染ませるように、口をつけた。
やがて、重政が低く口を開く。
「出汁の味が、ずいぶん変わったな。深くて、刺さる」
黒鴨は湯呑を軽く傾けながら、目を細める。
「抽出層をひとつ追加しました。“思考酵母”──味の奥行きが広がります。記憶に残りやすくなる、そういう成分です」
「なるほど。香りに心地よさが残る。舌より先に“思考”に届く味……だな」
黒鴨の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「出汁は、味覚ではなく“信号”です。受信するのは、脳。
五感は、情報の回路ですから」
「……なるほど。BROTH-NETがただの物流網ではない理由がよくわかる」
黒鴨は何も言わずに頷いた。
壁際に立つ若い従者が、二人の前に“追い出汁”を運ぶと、会話は一時中断する。
湯の代わりに、黄金色の液体が小ぶりな片口から注がれた。
「さて……問題は、“あの件”だな」
湯呑を置いた重政が、改まった口調で続ける。
「四国全体の“水利統制”──もう後戻りできない。
我々が抑えることで、国家の“胃袋”も、動かせると信じていいんだな?」
黒鴨は、淡々とした口調で答える。
「はい。農業、工業、生活用水……すべては麺と共に循環する。
水を“味覚”に変換できれば、それは国の“支配言語”になります」
「味覚で国家を統治する……。
正気とは思えんが、なぜか納得させられるな。君と話してると」
「ありがとうございます。ですが……」
黒鴨は、わずかに視線を落としたまま、声を低くした。
「一部、雑音が入りました」
「雑音?」
黒鴨は、立ち上がることなく、隣においていたカバンの中から、端末を取り出してタップする。
「搬入口側に、わずかな動きが確認されました。
ご安心を──処理は“静かに”進めております」
「ほう……また地元の野良猫か? それとも──」
重政の表情に、探るような笑みが浮かぶ。
黒鴨は、返すようにかすかに微笑む。
「いいえ。鼠です。
……いえ、正確には、“鼠の皮を被った諜報員”でしょうか」
「なるほど」
湯呑を手に取る重政の動作が、一拍遅れた。
それ以上、誰も深くは問わなかった。
そして誰も、あの鼠の“末路”を気にする者はいなかった──
──沈黙。
照明の音すらしない密室で、会話だけがひとときの影を落とす。
黒鴨「味の奥行きが広がります。記憶に残りやすくなる、そういう成分です」
……ちなみに、“記憶に残りやすくなる味”というのは、脳内の海馬を刺激する物質でもあるそうです。
ただ、それが本人の意思による記憶かどうか──それはまた、別の話ですが。