ホワイトブロス作戦6
自室に帰った鷲宮は、静かに扉を閉めた。
壁面に備え付けられた通信端末は、最後の通話ログを消去し終え、無言のまま暗転している。
扉の外とこの部屋の中とでは、まるで“時間の流れ”が違って感じられた。
椅子へと身を沈める。
背もたれに体重を預け、眼鏡を指先で押し上げるその動作には、
あの幹部と対峙していた時にはなかった“呼吸”が戻っていた。
部屋には何の装飾もない。
書棚も時計もなく、置かれた冊子と水のグラス、ただそれだけ。
それでもここは、“考える者”にだけ許された場所だった。
「……あの出汁は、まだ“第一層”にすぎない、か」
鷲宮の唇から、誰にも聞かせるつもりのない独り言が漏れた。
出汁文書──財閥が手に入れ、そして模倣を試みている“禁忌のレシピ”。
だがそれがすでに抽出段階にまで進んでいるとなれば、
彼の立場からしても、もはや看過できるものではない。
ふと、机上に置かれた薄い文書に視線を落とす。
それは古文書というには新しすぎ、デジタル資料というには紙が多すぎた。
表紙の一部に、渦を巻くような文様。
それは、曼荼羅にも、あるいは──
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トラックは静かに麺琴楼裏手の搬入口に滑り込んだ。
白兄の輸送部門を模した車両は、外装から書類の通し番号に至るまで偽装が施され、外見上の不備は一切ない。積載されているのも、実際に契約業者が用いる銘柄と同じ小麦粉袋だった。
運転席を出たBENIは、ラフな動きでストレッチを挟みつつ倉庫の前に向かう。
袖がわずかに擦り切れた制服、使い古した作業靴。
手に持った伝票は、わざと角を濡らして風合いを古びさせてある。
倉庫入口には見張りが一人。
表向きには「店員」だが、その立ち姿や靴の磨き方、視線の動きから察するに、財閥配備の警備要員だ。
BENIは軽く顎を引きながら声をかけた。
「お疲れ様です」
相手が一瞬こちらを見つめ返し、口元だけ動く。
「お疲れ。……あれ? いつもの兄ちゃんは?」
BENIの方も、無言のまま観察を続けていた。
制服の腰に引っかかったIC端末の位置。靴の裏に付着した油。左の肩を下げて立つ癖。
「店長に呼ばれたとかで、何か話してるみたいなんです。で、近所なんで私が行けって」
若干の面倒臭さを混ぜるように声色を落とす。相手が笑い返した。
「あー……そういう感じか。あいつも口は立つけど、店長には弱いからな」
ふっと気を抜いたような表情になり、彼はふと呟いた。
「まあ……この前みたいなことが、また起きると困るしなあ……」
その言葉に、BENIの意識が静かに研ぎ澄まされる。
発言は曖昧で、固有名も無い。だが、明らかに“あの襲撃”に言及していた。
(情報統制、末端までは徹底されてない。セキュリティポリシーが抜けてる)
財閥の兵站管理における甘さが、現場の兵士の緩さとして現れていた。
BENIはそのほころびを、無言のまま見つめる。
「……あー、なんか言ってましたよ、“近くに怪しいのがいた”とか」
相手が「そうそう」と曖昧に頷いた。
BENIは会話を切り上げるタイミングを見て、軽く肩をすくめた。
「ちょっと遅れると怒られちゃうんで、さっさと荷下ろししますね」
「おう、あとは頼んだわ。こっちは休憩だ」
そう言い残し、見張りは建物の角を曲がって姿を消した。
BENIは一礼の仕草を見せ、すぐにトラックの荷台に回り込む。
小麦粉の袋を肩に担ぎ、倉庫内に一歩ずつ運び入れるたび、視線は床へ、壁面へ、天井へと滑っていく
。
さりげなく靴先でコンコンと床を叩き、音の違いを聞き分けながら。
──音が吸われた。
三袋目を運び込んだところで、BENIは一瞬だけ動きを止める。
今の足元。床板の材質が違う。下に空洞がある証拠。
“ここだな”
袋を下ろし、目を盗むように屈み込み、伝票に書き込みをするふりをしながら、床の継ぎ目を指でなぞった。
鍵の類は見当たらない。だが、床材が極端に新しい。ここが仕込みのハッチである可能性は極めて高い。
BENIの視線が、一瞬だけ倉庫外に向けられた。
──まだ、時間はある。
続く動作は迷いなく、そして静かに。