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「本当にあったかもしれない」部分

「本当にあったかもしれない」部分投稿。後半「ある意味怖い話」部分は、来週投稿予定。

 その物件に決めたのは、なんといっても家賃の安さだった。

 駅から歩いて12分だから、一応歩ける範囲であり、狭いけれどもバス・トイレ付き、台所の他に六畳と四畳半の和室がついて、3万5千円。

 同じ地域で似たような広さのコーポやマンションを借りると、ほぼ倍の家賃を払わなければならないことを考えると、まさに格安物件といっていい。

「といっても、築50年近い建物で、壁に大きなひびが走ってたり、階段がさびだらけだったりで、外見はボロボロ。設備だって、風呂は給湯器じゃなくてガス釜でシャワーもなし、トイレはさすがに洋式だけど、紐で引っ張って水を流すっていう「昭和」そのものでしたね。安いのにはそれなりの理由があるんだなあって感じでした」

 さらにもう一つ、安田さんには気になることがあった。

 部屋の匂いである。

 ほんのかすかに、ではあるが、四畳半の和室が匂うのだ。

 それほどいやな匂いではない。ややねっとりと甘く、嗅いでいると、気持ちが安らぐようにさえ感じる。

 だが、異臭は異臭である。

 内見の案内をしてくれた不動産屋さんに、その匂いについて尋ねてみると、

「あ~、この匂いね。一応業者入れて掃除はしてもらったんだけど、ずっと前から染みついちゃってるらしくって、取りきれなかったんよ。以前の住人が、よほど匂いのきついものをこぼしでもしたんか、床板にしみこんじゃったみたいで」

 それもあって、他の部屋より家賃を勉強させてもらっているんですがね。安ければ安いほど、っていうから紹介させてもらったんですが、さすがに、若いお嬢さんにはちょっとキツい物件でしたか、とへらへら笑う。

 確かに、安田さんにとって、その安さは魅力的だった。

 大学こそなんとか卒業したものの、この先も演劇に関わっていきたいという思いが強すぎて、ろくに就職活動もせず、フリーの音響屋さんをやっている「師匠」の下、助手として生活していくことにした、という状況下では、機材を置くためのスペースを確保できるうえ、生活の中でかなりのウエイトを占める家賃を節約できるのは、この上なくありがたかったのである。

 仕事の関係上、帰るのが真夜中近くなることもザラ。肉体労働で汗まみれになるから、お風呂があるのは本当にありがたい。匂うのは四畳半だけで、六畳の方は大丈夫。そっちで生活することにして、四畳半は基本機材置き場にすれば……。

 結局、安田さんはその部屋を借りることにした。

 以前住んでいたワンルームから荷物を運び入れ、なんとか生活できるように整理し終わった頃、本格的に仕事も始動。それまでの学生生活とは比べものにならない忙しい生活が始まった。

 朝早くから劇場に行き、師匠と二人で機材のセッティング。それが終わると、休む間もなくマイクテスト。そのまま舞台稽古につきあい、演出家の意向を聞きつつBGMや効果音を入れるタイミングを見定めて――聞き定めていく。

 午後からは本番準備。観客が劇場内に満ち、ひしひしと緊張感が漂う中、まずは昼公演。終わったらすぐに観客を追い出し、大慌てで手直しと準備を済ませると、夜の部の観客を劇場に入れ、本番2回目。

 二日公演なら、そこで終了。家に帰ってゆっくり休むことになる。けれども、公演が1日だけなら、本番が終わった直後から組み上げた機材を解体し、トラックに積んで運び出し、機材置き場まで運んで下ろして……という作業を、夜中まで続けなければならない。

 公演のない日も、のんびりなどしていられない。国内外さまざまな音楽を片っ端から聞いて使えそうなものを頭にどんどんインプットしていったり、あらかじめ渡されている台本に目を通して、BGMや効果音を入れるべきところをピックアップしたり、演出家と打ち合わせしたり、テープを編集したりしていると、気がつけばあっという間に深夜になっている。

 覚悟の上で飛び込んだプロの世界だったが、予想していた以上の忙しさ。体が悲鳴を上げ、精神がすり切れていくのを感じながらも、好きで選んだ仕事だ、今頑張らないでどうする、と自分に言い聞かせ、毎日泥のように疲れ果てて眠る。

 ろくにメイクもおしゃれもせず、丈夫なワークシャツとジーンズ、スニーカーという出で立ちで、劇場の闇の中を先輩に怒鳴られながら右往左往する生活を、数ヶ月ほど続けた頃。不意に、夜中に目が覚めるようになった。

 はじめは、打ち上げ等で散々飲まされるせいで、おしっこが我慢できなくなり、それで目が覚めてしまうのだと思っていた。が、学生時代もよく飲みすぎていたのに、朝まで目は覚めなかったし(おかげで何度、切羽詰まった欲求に身もだえしながらトイレに駆け込んだことだろう)、珍しく飲まなかった日でも目が覚めてしまうことが続くようになり、はじめて「なにかおかしいのかも」と思うようになった。

 疲れすぎているせいかな、と考え、毎晩風呂の後、入念なストレッチをしてから寝るようにしてみたところ、はじめの一週間ほどはよかったのだが、すぐにまた目が覚めるようになった。

 それも、はじまった頃は週に1日か2日の頻度だったものが、徐々に週に二、三日、週に三、四日と起きてしまう日が増えてくる。

 目が覚めたところで、すぐにまた寝直すことができればいい。が、たいがいの場合、まだ3~4時間しか眠っていないにもかかわらず、一瞬前まで眠っていたのが信じられないほどにしゃっきりと目が覚めてしまう。おかげでその後、眠り直すことがなかなかできず、そうかといって仕事したり読書したりするには気力が足りず、布団の中でただただゴロゴロとしているうちに、いつの間にかカーテンのすき間から明るい光が差し込む時刻となっている。

 その頃になってようやく眠気が差してくるのだが……遅刻のリスクを考えると、当然二度寝することはできず、眠くてだるいまま布団から這い出し、仕事へといく羽目になる。

 編集にしろ劇場でのセッティングにしろ、音響は、過敏なほどの注意力が必要とされる作業が多い、繊細な仕事だ。それらを、寝不足の霞がかかった頭でしなければならないのだから、当然ミスが増える。気が立っている舞台監督には怒鳴られ、演出家にはイヤミを言われ、温厚で寛大な師匠にさえ、しかめっ面を向けられることが増える。作業スケジュールもどんどん遅れ、その分帰るのが遅くなり、深夜にようやく寝床にもぐり込むものの、3時間も眠らないうちに、また目が覚めてしまう。

 なんで?一体どうして朝まで眠れないの!

 その晩も、午前2時過ぎに目が覚めてしまった安田さんは、腹立ち紛れに布団を蹴飛ばすようにして跳ね起き、ふと、ベランダに目をやって……凍りついた。

 カーテンに黒々とした影が映り、こっちへ来い、こっちへ来いというように、手招きしていたのだ。

 あんなところに、一体誰が……。

 緊張した数瞬が過ぎた後、安田さんは、不意にその陰の正体に気がついた。

 そのベランダ――というより「物干し台」といった方がしっくりくる狭い足場――には、数日前に洗った洗濯物が干しっぱなしになっていた。そのうち、針金でできた安いハンガーにかけてつるしておいた長袖のワークシャツが、ゆらゆらと揺れていたのである。

 なんだ、ただの洗濯物じゃん。びっくりさせんなよ。

 ほっとして、くすくす笑い出しそうになったところで、不意に濃厚な匂いが鼻につく。

 機材置き場にしている隣の四畳半に染みついた、甘い臭い。

 いつもは全く気にならないその臭いが、どういうわけか昼間に比べて濃厚に、まるで自分をそっと捕らえようとしているかのように甘く、へばりついてくるのである。

 同時に、安田さんは、びくりと身を縮こまらせた。

 あれだけシャツが揺れるのなら、相当風が吹いているはず。なのに、窓はガタガタいってないし、他の洗濯物の影も揺れていない……。

 それに、ここ数日夜中に目が覚めるのが続いているけど、それってひょっとして、あのシャツを干してからじゃ?いやそれだけじゃなくて、今まで眠れなかった日も、あのシャツが干してあった時じゃ?え、なに、怖い……。

 不意に、物干しの方から、がたり、と物音が響き……臭いが、むせかえるほど濃厚になった。

 もはやそちらに二度と目を向けることもできず、安田さんは、そのまま布団をひっかぶり、夜明けの光が訪れるまでの長い間、まんじりともせずに震えていたのだった。


 「安田さん……大丈夫ですか?」

 不意に尋ねてきたのは、新人劇団員の三上くんだった。

 三上くんは、イケイケのバカが多い若い役者陣の中では、珍しく物静かで、いつも穏やかな笑顔を絶やさない。

 その彼が、珍しく真顔で、意外なほど至近距離から、心配そうに顔をのぞき込んでいるのである。

「え、なにが?全然大丈夫、元気だよ!」

 この人、いつも笑ってて、しかも笑うと目がなくなるから、全然そんなふうに見えなかったけど、こういう顔するとかなりイケメンなんだ……。

 普段と全く違う印象にどぎまぎしながら、それでもなんとか平静なふりを保ち、安田さんは少々こわばった笑顔を作った。

「そうですか?それならいいんですけど……なんか、あまりよく眠れていないように見えたんで」

 正解だ。あの日、手招きするベランダのシャツを見てからかれこれ二週間ほど、安田さんはほとんど眠ることができないでいた。

 眠ろうと布団に入りはするのだが、夜中にまた不意に目が覚めるのではないか、あのいやな匂いが鼻腔に侵入してくるのではないか、今度はこの世ならぬものの影がカーテンに映るのではないか、などと思うと、自然と目が冴える。静まったアパートに時折響くありとあらゆる物音が、なにかの前兆であるかのように思えて、少しばかりうとうとしたとしても、ぴし、と家鳴りがしたり、台所の蛇口から水がしたたり落ちたりするたび、ビクッと一気に覚醒してしまう。

 明日もまた厳しい肉体労働が待っている、早く寝なくちゃ、早く寝なくちゃと思うものの、そう思えば思うほどに余計に眠気は訪れず、不安と焦りばかりが強まって……気がつくと、うっすら部屋が明るくなっているのである。

 おかげでますます疲労は蓄積し、意識は途切れがちで、仕事中、怒鳴られる回数も徐々に増えつつある。なんとかしなくちゃ、とは思うものの、一人ではなにをどうしていいか分からないし、誰かに相談したところで、せいぜい「気のせいだよ」と笑われるのが関の山だ。

 誰か、そういうことに詳しい人がいたら。ううん、詳しくなくてもいい、笑い飛ばしたり馬鹿にしたりすることなく、真面目に相談に乗ってくれる人がいたら……。

 そう切望していたところへの、三上くんだった。

「まあ、もしなにかあるんだったら、相談してください。力になれるかどうかは分からないけど、話聞くだけは聞くんで」

 練習の休憩時間が終わりかけ、そろそろ役者の待機する辺りへ戻ろうとしかけた彼の背中に、安田さんは、思い切って声をかけていた。

「三上くん。この後、時間あるかな?」


 「……つまり、今住んでいる部屋で心霊現象らしきことが起きる、ということですね?」

 どちらかというと無表情寄りの冷静さを保ち、時折相づちを入れたり先を促したりしながら、安田さんの話を一通り聞き終わったところで、三上くんはそう確認した。

「まあ、そういうことになる……かな」

 改めて他人(ひと)から言われると、自分の訴えがいかに荒唐無稽で子どもっぽい、馬鹿馬鹿しいものであるかがひしひしと実感され、急に恥ずかしくなる。慌ててぬるくなったビールをがぶりとあおると、

「ねえ、どう思う?」

 安田さんは、やや早口で尋ねた。

「うーん、まあ、心霊現象であるかどうかはまだ分かりませんが、それで安田さんに不調が出ていることは間違いないですから。一応その線も考えて、解決できるかどうか考えてみないと」

 あごに手を当て、小首をややかしげて考え考え、最後まで笑うことなくそういってくれた彼に対し、安田さんは、ほっと安心し、そして今まで以上に信頼をいだいた。

 この人なら、真面目に話を聞いて、一緒に考えてくれる。

「……その心霊現象がはじまったのは、アパートに引っ越してしばらくしてからなんですね?」

「うん、そう。まずは夜、急に目が覚めるようになって……」

「風もないのにシャツが揺れているのを見て、なにかおかしなことが起こっていると思った」

「だって、おかしいでしょ?他の洗濯物は揺れてないし、風の音だって……」

「それ以前から、甘い臭いが染みついていることが気になっていた」

「あ、うん。はじめは気にならなかったんだけど、この間、打ち上げで聞いちゃって」

「なにを、ですか?」

「うん……あの、老舗の劇団の公演の打ち上げで、その日はたまたまベテランの女優さんの隣に座ったんだけどね。その人、普段は看護師さんしてて。だいぶできあがってたからか、昔の、総合病院に勤めてた時の話をしはじめてね。で、言ってたんだ。回復の見込みのない患者さんが亡くなる時って、大体分かるって」

「そうなんですか?」

「うん、直感とかそういうんで分かるのかなって、はじめは思ったんだけど、そうじゃなくてね、臭いが変わるんだって。それまでは病人特有の湿った、重い、まあぶっちゃけ、おしっことかウンコとか、そういう臭いなんだけど、ある時ふっと、そういう臭いに混じって、違う臭いがするようになるんだって。重くて湿った、それでいてねっとり甘い臭いが」

「それが、安田さんの部屋の臭いと同じじゃないか、と思ったんですね」

「うん。甘い臭い、って聞いて、思わずいろいろ聞いちゃったんだけど、『決していやな感じの臭いじゃないんだけど、長いこと嗅いでいても慣れないし、だんだん不安になってくる』とか『それまでに嗅いだことはないけど、一度嗅いだら二度と忘れない』とか『いつまでも鼻の中にこびりついて離れない感じ』とか、うちの部屋の臭いにぴったり当てはまるんだもの』

「なるほど」

「しかもね、どうしても気になったんで、その匂いって、ずっと後まで、例えば何年後とかにまで残ったりするかどうか聞いたの。そしたら、ちょっと変な顔されたけど、その後でね。『ああ、うん。そういえば、聞いたことあるわ。孤独死された方で、その後しばらくそのままだったりすると、どんなに後できれいに掃除しても、臭いが部屋にこびりついて取れなくなるって』そう教えてくれたんだ」

「ああ~そういうことですか」

「うん。だから……多分だけど、あの部屋、誰かが亡くなってて、しばらくそのまま放置されてたんだと思う。それで、臭いがこびりついて、臭いと一緒になんか、怨念みたいのもこびりついてて、それで私に……」

「大家さんとか、不動産屋さんとかには聞いてみたんですか?」

「一応ね。でも、なにも教えてくれない。事故物件とかって、事故があった直後に住む人にはいろいろ教えなきゃいけないけど、その後に住む人にはなにも言わなくていいんでしょ?だから、教えてくれないんだと思う。素振りからして、なにか隠してるっぽいんだけどね」

「だとすると、なにかあったのは間違いないんでしょうね」

「だよね。……このままじゃ、困るんだ。眠れない日が続いて、師匠にも怒られっぱなしで、このままじゃ、やめなきゃならなくなる。せっかく頼み込んで弟子にしてもらったのに、迷惑ばっかりかけて、申し訳なくて……」

 そんなつもりなどなかったのに、気がつけば両目からぽたぽたと涙がしたたり落ちており、安田さんは、慌てて頬をぬぐった。

 そんな彼女の方に、三上くんはそっと手を伸ばし、優しくなでる。

「わかりました。ちょっと、僕の方でも一度、調べてみますね。それと、よければ一度、部屋に泊まらせて、確かめさせてください。実際にどういうことが起こっているのか分からないと、確かめようがないですから……」

 肩に乗せられた手の感触があまりに確かで暖かくて、安田さんは、つい涙が止まらなくなった。

 そんな彼女に少し困ったような、でもあくまで優しいまなざしを注ぎながら、三上くんはずっと、その肩をさすり続けていたのだった。


 三日後の、午前三時過ぎ。

 真夜中過ぎには寝付いたはずなのに、やはりこの日も安田さんは、はっと目を覚ました。

 数秒前まで寝ていたとは思えないほどの明晰な意識で窓のカーテンに目をやり……そこで慌てて、かたわらに横になっている三上くんに手を伸ばした。

「三上くん、起きて!見て!、起きて!あれ見て!」

 ささやき声で叫びつつ、ゆさゆさとその背中を揺さぶると、ようやく寝返りを打つ気配がし、安田さんの肩に優しく手が添えられる。

「なるほど。確かに、洗濯物が揺れてますね」

 肩の手にぐっと力が入ったと感じた次の瞬間、三上くんがすっと立ち上がる。

「ちょっと見てきます」

「やめて!近づいたりしたら、なにが起こるか……!」

 引き留める声が届いているはずなのに彼は歩みを止めずにベランダに近づくと、無造作にカーテンを引き開け、窓をカラカラと開ける。思わずぎゅっと目をつぶり、体を縮こまらせたのだが……特段、なにも起こらない。

 外からの柔らかい、涼しい風が顔をなで……安田さんは、そうっと目を開けた。

 街灯から漏れた光に照らされた、やせているのに妙に大きく見える背中が、くっきりと目に映る。

 どれだけの時間そうしていたのか……やがて、三上くんは再び窓を閉め、カーテンをとじると、電灯からつり下がった紐を引っ張った。

 いきなりの明るい光に目を射貫かれ、思わず顔をしかめる。そのしかめっ面とは対照的な微笑みを浮かべ、三上くんは彼女のすぐ目の前にしゃがみ込み、目を合わせてくる。

「わかりましたよ、原因が」

「え……なにかその、見えたの?ヤバいものとか……」

 おそるおそる尋ねると、三上くんの微笑がやや濃くなった。

「あ、いえ、そういうんじゃなくて……怒らないで聞いてほしいんですが、原因は、室外機でした」

「室外機?って……エアコンの?」

「はい。この部屋のベランダの真向かいに、お隣のお宅の室外機が設置されてあるんです。今確認したら、その室外機が回ってましてね。排気がちょうど、この部屋のベランダにピンポイントでくるんです。ほら、さっき窓開けた時、ちょっと風を感じませんでした?」

 言われてみれば、確かに、感じた。

 安田さんが大きくうなずくと、三上くんは、薄桃色の唇を小さく開いて真っ白な歯を見せ、くっきり印象的な笑顔になった。

「ここ一週間ばかり、夜でもだいぶ暑くなってきたじゃないですか。梅雨入りしたせいか、湿気もすごくて、寝苦しいし。それで、お向かいさんがエアコンつけて寝るようになったんだと思います。それで……」

「たまたま、その室外機の風がストレートにあたる位置にあったシャツだけが、風もないのに揺れているように見えた、ってこと?」

「ええ、おそらく」

「でも、じゃあ、夜中に決まって目が覚めるのは……」

「それはきっと、疲れすぎているからですよ。学生だった頃と違って、忙しいし、生活は不規則だし、プレッシャーはすごいしで、ストレスたまりまくっているんじゃないですか?」

 言われてみれば、確かに。風呂に入ってマッサージしても肩こりは取れないし、食欲はなくなったし、これまできちんきちんときていた生理も、このところきたりこなかったり、めちゃくちゃだし。

 でも、オバケだ幽霊だ心霊現象だと大騒ぎしたあげく、原因がそんなつまらないことだった、と素直に認めてしまうのもなんだかしゃくにさわるというか、沽券に関わるような気がして、安田さんは最後の砦にすがりついた。

「でも、じゃあ、この死臭はなんなの!?今だってこんなにはっきりと感じるのに!」

 悲鳴のように響く声を耳にして、三上くんはつかの間驚いたような顔になったが、すぐにまた、あの穏やかな笑みを浮かべると、そっと安田さんの両肩に手を置いた。

「部屋に入ってすぐに分かりました。この臭いは、死臭じゃありません」

「え……!?……じゃあ……」

「ちょっと待っててください」

 彼女をそっと脇へのけると、三上くんは、臭いの元凶である四畳半へと足を踏み入れ、そこで、しきりに鼻を利かせる。しばらくそうして――文字通り――周囲を嗅ぎ回った後、一本の柱の前で立ち止まった。

「……ここっぽいな」

 ぼそりとつぶやくと、ポケットに手を入れてしばらくごそごそしていたかと思うと、どこかのメンバーズカードだろうか、薄いプラスチック製のカードを1枚、手品のように取り出すと、柱と土壁の間に空いたわずかなすき間に、そっとそのカードを差し込んだ。

 そのまま、すうっとカードを真下に向かって下ろしていくと……細かい木くずや埃と共に、なにかカードと同じくらいの大きさのものが、ぽとりと床に落ちる。

 はっと目をこらすと、どうやらそれは、廉価な小物を入れたり、お茶や香辛料を小分けしたり時に使う、口の閉じれる小さなビニール製の袋である。

 一体なんで、そんなものがこんなすき間に……。

 わけの分からないまま、そのビニール袋と、中に入った黒っぽい粉末とをじっと見つめる。と、三上くんは確信に満ちた様子でそれを拾い上げると、両手で優しく引っ張るようにして、口を開いた。

 その途端、四畳半に満ちていた臭いよりももっとかぐわしく、濃厚で、より不安をあおる臭いが、袋の中からねっとりと漂いだしてくる。

 ……!

 声にならない驚きの声を安田さんが上げたところで、三上くんは再び袋の口を閉じる。

「思った通りです。これ、大麻ですよ」

「大麻?大麻って、あの、麻薬の?」

「ええ。以前ここに住んでいた住人の誰かが、どこかから持ち込んで、隠していたんでしょうね」

「じゃあ、この臭いは……」

「これだけ濃厚な臭いですからね。本当ならもっと厳重にしまっておかなければいけないのに、こんなものに入れておくから、臭いが漏れて、染みついたんだと思います」

「じゃあ……ここは事故物件じゃなくて……」

「ええ。事故物件の分かるサイトで調べたんですけれど、ここは出てきませんでしたから」

「じゃあ、じゃあ、なんで不動産屋さんはあんな怪しい素振りを……」

「誰かが死んだりとか、そういうことはなかったんでしょうけど、何かしらの事件はあったんじゃないかと思います。多分、クスリがらみで。それを知られたくなかったんじゃないでしょうか」

 そうか。そう考えれば……確かに。

「じゃあ……ここには、怨念もなにもないんだ?」

「ええ。誰も死んでませんから、当然怨念なんかないでしょうね」

「なあんだ。そうなんだ」

 いつの間にか中腰になっていた尻を、ぺたんと床に下ろし、くにゃりと肩を落とすと、

「ふ、ふふふ、あは、あはははは……」

 安田さんは、はじめ力なく……そして徐々にいかにもおかしそうに笑い出した。

「よかったですね、これで安心して住み続けられますよ」

 おかしくておかしくて、三上くんのその言葉にもただうなずきだけを返し、安田さんは目から涙を流しつつ、笑い続ける。

 そんな彼女を、三上くんは優しく抱き寄せる。

 その胸にもたれかかり、両腕をその背中に回して、安田さんは笑っているのか泣いているのか自分でもよく分からないまま、ずっと声を上げ続けたのだった。


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良い話だなー…。うん。間違いなく安田さんは救われた。 ところで三上君、1つ、いいかな? 何故、大麻の匂いを知っている…?
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