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5. 禍の産声

 西暦2027年8月23日(月)午前6時1分、大阪府三島(みしま)郡。


 日本第二の大都市圏を構成するこの府の一角で、地平線を超えて続くふたつの鉄線は佇んでいた。何の言葉を発することもなく、動くこともなく、ひっそりと。

 今は日の出後まもなくだから外は暗いが、もし昼間であったなら、その鉄線の天辺が輝かしい銀色の光沢を現しているのがはっきりと見えただろう。平行する二本の鉄線――すなわち軌条――と、その上に方向を同じくして延びる三本の架線は、全くの静寂に包まれていた。

 さらに知見を持った者が見れば、軌条に隣接する別の軌条との間に意図して空けられた隙間があるのも分かったはずだ。気温の低い現在、その間隙はまだ存在していた。

 

 それから何分が経過しただろうか、微かな音が奥から聞こえてきた。猛烈な速度で運動する、アルミ合金の塊が音源である。

 その直方体状の合金は、やがて間隙を同様のスピードで通過していった。下部に付いている鉄輪が軌条の端とぶつかって鳴る軽快な音が周囲に響く。

 音は十六回も打ち鳴らされてようやく止んだ。落ち着いた茶色と潔い白色を組み合わせた八両編成の電車は、その後ろ姿を隙間に見せながら、颯爽と走り去っていった。

 





 六月中旬から八月中旬までの約二ヶ月にわたって日本全土を襲った超大規模の渇水は、8月18日から三日間にわたって降り注ぎ続けた台風並みの大雨によって、治水が整っていない一部地域では洪水が発生するなど副次的被害を出しながらも一定の収まりを見せた。

 四国など渇水が深刻であった地域はともかく、首都圏では給水制限は10%まで収まり、多くの地域では取水制限のみまで緩和された。さらに雨が降った期間は猛暑も比較的軽いものとなった。

 多くの人々は水害に巻き込まれた犠牲者のことを忘れ、水が帰ってきたことを喜んだ。


 静山(しずやま)一哉(かずや)も、その一人であった。

「うぁ~あぁーあ~」と情けない大あくびをして起きた彼は反射的にスマートフォンを手に取って電源をつけたが、そこでいつも通り落ち込む羽目になった。


 午前10時44分。

 

 白字で記された時刻は、予定の起床時間プラス44分である。大学生の夏休みゆえの怠惰さが生んだ寝坊だ。

 落胆と入れ替わり、心の奥から焦躁が湧き上がってくる。

 待ち合わせの時間と場所は? 

 記憶と現在時刻を照らし合わせる――11時45分、梅田駅改札前集合。


「やっば!」と言いながら薄い掛け布団を体から引き剝がす。

 彼は今日、友人と大阪で遊ぶ約束をしていたのである。彼の最寄り駅、京神桂(けいしんかつら)駅までは走って十分、そこから梅田まではどれだけ短く見積もっても30分はかかる。

 慌てて電車の時刻を調べる。アプリを開いて時刻表を見るまでに三十秒はかからない。

 45分までに梅田に着く最も遅い列車は、11時10分発梅田行の特急(11時42分着)であった。なら、いつ家を出ればいいだろう。

 発車時刻の3分前には駅に到着したいから、60分マイナス32分マイナス3分マイナス10分で……。


 ――15分もない。

 それに気づいた静山は苗字に見合わぬ音を立てながら急ぎで準備を始めた。トイレに行って、不快なねばつきと臭いに満ちた口をゆすぎ、顔を洗って髭を剃り、パジャマを着替えて鞄の中身をチェックする。ここで鞄に財布が入っていないことに気づき、探して見つけるまでに一分半かかった。

 スマホを点けるともう10時54分。家を出るまであと3分しかない。

 財布とICカード、水さえ入っていれば問題ないだろうと判断した彼は、もう家を出ることにした。この時間なら、走らなくても電車に間に合うはずだ。

「暑っ……」

 玄関まで出た彼はそうぼやいたが、勢いはそのままに金属の扉を開け放ち、早歩きで家を出た。


 見上げれば空は雲一つない晴天である。二十日までの豪雨は見る影もない。

 言うまでもなく太陽はぎらぎらと照り付け、地面を容赦なく熱していた。

「こんな暑かったかぁ?」

 そうつぶやく彼の感覚は実際正解であった。何しろ、この時点での気温は摂氏40.4度にも達していたのである。

「最高気温は36℃と、今日よりもやや低くなるでしょう」と言った昨日の天気予報は完全に外れ、この調子でいけば44℃にも至りそうな勢いである。もっとも、気象庁を擁護しておくと、午前十時までは気温は35℃未満に収まっていて、それから一時間で急に上昇し始めたのだが。

 家を出て一分としないうちに汗が肌から滲み出てきた。静山は最近流行りのハンディ扇風機を回し始めたが、吹き付けてくるのは体温よりも熱い風だけでむしろ不愉快だ。

 静山は「うえー……」と気だるげな声を発しながらも、変わらぬ早足で駅へと向かっていった。




 場所は移る。

 午前11時8分、京神電気鉄道(京神電鉄)京都本線、山崎(やまざき)駅。

 日中は一時間当たり12本の高密度運転を行うこの路線に座する当駅を、一本の列車が通過していく。上半分を茶色、下半分を白に塗られた八両編成は、時速100km以上のハイスピードで駅を過ぎ去る。

 これは7000形と呼ばれる種類の車輛であり、125kmの最高時速を誇る。京神電鉄の主力車輛だ。

 その先頭で独り座っているのは、野上(のがみ)沙利(さり)運転士である。乗務行路表に向けて指差しを行った彼女はすぐに前に向き直った。定刻運行を確認したことで内心安堵する。

 

 山崎駅を無事通過し終わった電車は110km/hという猛烈な速さで引き続き京都本線を奔走する。この辺りは線形が良いから飛ばしやすい。


(もうすぐ島本(しまもと)だな)


 彼女がそう思った瞬間、揺れが電車を襲った。

 これはレールとレールの間に開けられた隙間(遊間(ゆうかん))を通過するときの衝撃である。レールと車輪が協調し、軽い金属音を奏でる。普段と同じ場所で音は鳴っていった。

 だが彼女は違和感を覚えた。普段はこんなに揺れていただろうか? こんなに鋭いキンキン音だっただろうか……?

 運転室はエアコンがあまり効かないこともあって、少し蒸し暑い。その気温が彼女の判断をわずかに鈍らせた。


 指令に報告しようかな、と一瞬思ったが、野上は止めておくことにした。

 安全を第一とすべき鉄道会社の理念から考えれば、明らかに彼女の判断は誤りである。しかしこれには理由があった。


「なるべく遅らさんように。もちろん、安全第一やけどね」という上司の言葉が野上の頭に浮かぶ。

 そう、京神電鉄は競合他社との競争に注力するあまり、安全面への考慮や投資がやや疎かになる面があったのである。サービスを強化することで他社から客を奪い取る、というのが現経営陣、とりわけ大廣池(おおひろいけ)社長の方針であった。

 もちろん福知山線列車事故の件もあったからそれを大々的に打ち出すなどといった愚かなことはしなかったが、会社内部では定時運行・高速化が目標とされ、不用意に列車を遅らせた乗務員には、場合によっては「矯正教育」が施されるようになっていた。

 この目標はおおむね達成され、2000年時点では110kmであった京都本線の最高時速は10年後には15km引き上げられたほか、始点である京都駅から終点の梅田駅までの所要時間は、余裕時分の削減(・・・・・・・)もあって44分から39分まで短縮された。「大廣池体制になってからの京神はもう別物や」と口コミは騒いだ。

 速達性ではJR西日本の新快速(大阪-京都間29分)に敵わないが、京神は運賃の安さと地域密着性、及び京神電鉄京都駅の利便性などで対抗できた。


 しかし、これらの施策が安全軽視の土壌を生み出し、事故の種をそこら中にばら撒いているのも、また事実であった。


 野上が報告をためらったのも、電車の遅れによる矯正教育(社内ではツーキョーと呼ばれていた)を恐れたからである。もし異常が見つからなければ、不用意に遅延を発生させたと糾弾される可能性は十分考えられた。

 さらに、これくらいなら大丈夫だろう、という正常性バイアスも彼女の判断に加わっていた。



 だが実際は、状態は事故一歩手前まで来ていた。


 先ほどこの7000形が通った部分は、あまりの暑さでレールが激しい熱膨張を起こした結果遊間が消滅、レール同士がぶつかって捻じれていたのである。保安検査の不備もあり、この部分だけは遊間が異常に短くなっていた。

 電車が鳴らした音は、レールの切れ目に車輪が当たることではなく、捻じ曲がったレールが車輪の内側と接触することで発生したものだったのである。

 不運にも急激な気温の上昇は、計画的な検査・運休を行うことを妨げてしまっていた。


 そんなことは露知らず、野上は電車を運転する。

 まあいいか、と彼女が結論を出したときには、列車はとうに大山崎駅を通り過ぎていた。


 

 

 時は少し遡り、午前11時8分。

 静山は京神桂駅に着いた。あと三分もあるから大丈夫だろう。構内に入れたことでほっと一息つく。

 電子発車標は「11:10 特急 梅田」と表示している。間に合わないかもしれない、という焦りが彼を掻き立てる。

 息を切らしながら彼はホームへ急いだ。既に彼の全身は汗でじっとりと濡れている。走った衝撃でその一滴がタイル張りの床に垂れた。

 エスカレーターを下り、一両目の停車位置まで走っていく。もう発車していてもおかしくなかったが、幸運にも来ていない。走る途中で自動放送がかかった。


「皆様、まもなく、梅田方面に向かう電車が到着いたします。当列車は――」

 目を凝らすと奥から電車が迫ってきているのが何とか分かる。このまま歩いていけば、確実に先頭車輛に乗れるくらいの距離だ。彼は走るのを止めて歩きに変えた。

 茶と白の間に細いオレンジを挟み込んだ電車がホームに滑り込んでいく。モーターの駆動音が美しく響いて列車は速度を落としていき、やがて所定の位置に停車した。


「京神桂、京神桂です」

 静山は車内に入った。空調が効いていてとても心地よい。外からすれば天国のようである。

 最前車輛に乗ったのは梅田で降りるときそうしたほうが便利からだったが、せっかくだから景色も見ていこうと思った彼は、乗務員室と客室を隔てるガラスに寄り掛かった。金属の手すりに腕を任せ、力を抜く。

 スマホで友人に「電車間に合ったわ」と連絡した瞬間の時刻は11時12分だった。発車後まもなくに送ったにしてはやけに遅い時刻であるが、これはダイヤが乱れていたためであった。

 

 静山がのんびりと前面展望を楽しんでいる一方で、その左前に座る運転士は焦りに駆られていた。

 鉄道時計と見合わせて、現在の遅延は2分10秒であることを確認する。

 やばいな、という思いが運転士――名を木中(きのなか)といった――の心中に湧き上がる。回復運転で取り返せない遅れではないが、やや大きい。

 彼は桂で駆け込み乗車をした客のことを恨んだ。名前も顔も知らないが、その奴のせいで発車が15秒()延びたのだ。

 その尻拭いをさせられるのは自分である。罰を受けるかもしれないのも自分である。

 マスコンを操作して速度を上げていく。幸い彼の運転する列車H1100Lは特急であり、通過駅は多い。速度を上げたり停車時間を切り詰めたりして遅れを取り戻す回復運転は実行しやすい環境にあった。

 

 平常のスピードを超えて、時速120kmで電車は疾走する。静山も普段より速度が速いことに気づいたが特に留意することはなく、「今日ちょっと速いなあ」と能天気に考えるのみであった。

 何にせよ回復運転のおかげで、次の長岡駅(長岡市天神)に停車するまでに遅れは20秒縮んだ。停車中の電車にて乗務行路表を指差ししながら見る。まだあと1分50秒もの遅れを回復しなければならないことに木中は心中消沈した。

 遅延については車掌も連帯責任なので、車掌は乗り降りが済んだらすぐさまドアスイッチを押した。そのため長岡市駅でのドア開放時間はわずか12秒であった。

 

 ドア閉鎖とほぼ同時にブレーキ緩解。今のJR西が閉扉後5~7秒程度は待つのと比べれば随分慌ただしい。発車後の加速も最大レベルである。

 遅れの最先鋒はこのH1100Lであった。だから飛ばすのに遠慮はいらない。しかもこの辺りは線形が大変良好である。

 出せる限りの最大速度で列車は疾駆していく。ひゅんひゅんと周囲の景観が過ぎ去っていくのをぼんやり眺めていた静山が左前の運転士の焦躁に気づくことはなかった。

 おもろい景色や、とだけ彼は思った。


 H1100Lは時速110kmで長岡市の隣にある西天王山駅を定時プラス1分45秒で通過した。列車はますます速度を上げ、次の停車駅である高槻(たかつき)駅を目指す。

 西天王山を抜けると周囲にはしばらく住宅地が見え、それを超えると右手に田園地帯、左手には引き続き住宅地が並び、さらに進むと名神高速と立体交叉してJR京都線との並走区間に入るようになっている。この直線エリアが、回復運転の絶好のチャンスである。

 自動列車停車装置(A T S)に引っかからないよう注意しながら、木中は時速125km弱を保って電車を走らせる。


 午前11時18分40秒、H1100Lは名神高速との立体交叉を通過。速度125km/hと変わりなくほぼフルスピードで直線区間を疾走する。


 午前11時19分15秒、H1100Lは山崎駅を定刻プラス1分39秒で通過。ここからは高架となる。

 山崎はカーブ上にある駅なので通過時のスピードを時速100kmまで落とさなければならない。必須の減速だがこれは木中を焦らせてしまった。

 そして島本駅前に佇む歪んだ(・・・)レールは、ほとんど直上にある太陽の光を受けて69℃にまで熱せられていた。10分前とは1.2℃の差があった。

 この僅かな温度の差が、先行車輛が正常運行できていた理由の一つであった。

 容赦ない陽光を浴びせかけられてきたレールは今一度、ぐにゃりともう一ミリ捻じ曲がった。


 H1100Lは再びスピードを上げ、125km/hの最大速度を回復した。


 午前11時20分8秒コンマ5秒。

 H1100Lの最前にある右側車輪のフランジ()が時速125kmでレールの彎曲(わんきょく)部分に衝突、その勢いで車体を左へ跳ね飛ばすようにして持ち上げた。フランジが凹方向に歪む。

 もしこの電車が時速110km程度で通過していたなら、被害は奇妙な縦揺れだけで済んだろうが、現実は不幸にも15キロ速かった。

 後続の車輪も同じく歪みにぶつかったことで左側の車輪がレールからずれ、凄まじい摩擦音を響かせながら脱線し始めた。レールに車輪が乗っかった安定状態は直ちに崩れ、先頭車両が軌条と斜めになってあるべき位置を外れていく。

 

 静山はただならぬ揺れから事態を察し、手すりから身を離して後ろへ逃げようとする。

 木中運転士が最大ブレーキをかけるが、もう遅かった。

「逃げて!!」

 静山がそう叫ぼうとした正にその瞬間――

 

 午前11時20分13秒コンマ7秒、先頭車が架線柱に激突した。


 その猛烈な衝撃で一両目の左側前方は完全に原形を失い、木中と左に座っていた乗客も同様の運命を辿った。

 計器類と制御盤が滅茶苦茶に破壊され、そのままの勢いで木中の全身を圧し潰す。結果、僅か後には、血液に肉片が混じった凄惨な液体が柱や車内にへばりつくこととなった。

 さらに衝突で速度が落ちたことにより先頭車輛は驀進しつつも右側へ大きく傾き、それに釣られた二両目以降が折り畳まれるような形で脱線、一両目に続いてレールを大きく外れていく。架線の一本が倒れゆく架線柱に引きちぎられ、バチバチと火花を立てながら線路へ垂れた。


 架線柱を薙ぎ倒した先頭車は、前面を抉られながらも勢い猛に軌条と斜め34度で突進。地面との衝突で何度も上下に揺れながら左前へ進撃しつつも勢いは止まることがない。

 列車は今だ110kmに迫る超高速で突貫する。その先に佇むは水無瀬駅の頑丈なプラットフォームであった。

 まばたきも許さぬ間にH1100Lの先端がプラットフォームに激突する。瞬間、アルミの車体はあまりの衝撃に飴細工のごとく拉げていく。

 圧壊しゆく列車構造が兇器となり、脳震盪で意識朦朧の静山へ容赦なく襲い掛かった。

 右手首が逆九十度にへし折られ、肋骨がバラバラに折れて肺に突き刺さる。圧倒的な運動エネルギーが彼の骨盤を叩き折り、内臓を破裂させて大量出血を引き起こし、鉄の塊が頭蓋骨を著しく陥没させ脳を潰した。

 静山一哉、享年21歳。


 同時に、衝突が不完全であったことで左へ跳ね飛ばされた二両目は勢い余って高架を離脱。乗客19人の命を奪って落ちていく列車は、道路を走る自動車への直撃コースをとった。


「電車!?」

 ドライバーが目を見開くと同時に列車の死骸がボンネットを圧壊させる。自動車との相対時速が130kmにも達していた車輪は頑丈なフロントガラスをも突き破り、ドライバーの身体を真っ赤な血で染め上げた。

 運転手が血塗れとなってからしばらく経って、ぐちゃぐちゃに潰れた一両目がバランスを崩し地面へ転げ落ちていった。


 一両目、二両目に放り投げられる形となった三両目以降は六両目までが脱線し、対向線路を塞ぐ格好となった。

 三両目はジャックナイフ現象で激しく傾き、複線を占領しホームを横転しながら滑っていったが、やがてホームの構造にぶつかって止まった。四両目は三両目から切り離された結果、向かって右側のホーム構造に衝突し、前部を大きく損傷させて停止。

 五両目より後ろは車輛そのものには大した損害はなかったが、脱線時の揺れにより合計十数人が軽いけがを負った。


 一両目から三両目には打撲や骨折、脳挫傷などにより倒れこみ、動けなくなった乗客が散乱した。そして先頭車では、そうした人の周りに、もはや人間とは認めがたい血と肉の塊が転がっていた。

 原形を留めていない車内では吊り革の列が波のようにうねり、座席が外れて壁にもたれかかり、ある手すりは天井にのみ接続されて下は破断され、その粗い先端を乗客の脇腹に突き刺していた。

 

 事故に加えて懸念されたのは、塞がれたレールと道路に車輛が来ることで起きる二次災害であった。

 しかしこれは、H1100Lの車掌が速やかに指令へ連絡を行ったことと、列車により塞がれた道路に偶然さしかかった別のドライバーの通報により、幸いにも起こらずに済んだ。

 


 もちろん、8月23日の夕方のニュースを大々的に飾ったのは、この大事故であった。

「京神電鉄京都本線で事故発生」

「本日11時10分ごろ、京神電鉄京都本線、島本駅周辺にて脱線事故が発生し、少なくとも25人が死亡した模様です」

「京神電鉄京都線で脱線事故 28人死亡か」


 結果、京神電鉄の経営陣は会見を開くこととなり、記者からの容赦ない質問と不特定多数からの罵声を浴びる羽目になった。

 


 しかし、この日大きく報じられるべきニュースは、もう一つあった。

 この脱線事故の原因が、異常なまでの高気温にあったこと。

 もう一つが、今日、日本の最高気温が更新されたことである。


 静岡県浜松市の観測所で最高気温46.8℃を記録し、今までの最高記録41.3℃を5℃以上上回って最高記録に躍り出たのだ。

 インパクトは列車事故にかなり劣るが、気象的な意義は大きい。

 だがその意義に注目するのは一部の専門家や気象マニアだけであり、ほとんどの人々は十数名の死者を出した壮絶な列車事故にだけ震えた。

 無理もないことである。最高気温が5℃上がるだけでは誰も死なないが、この日発生した大事故では実際に両手で数えきれないほどの死人が出ているのだ。「死」という不可逆的な事象を強く意識する人間が、後者に引かれるのは当然のことである。


 だが、知識があれば、最高気温の更新にこそ、列車事故を遥かに凌ぐ凄まじい「死」の群れをもたらすヒントが隠れていることを、見抜けたかもしれない。



 ――そう、自然災害だ。


 自然災害はときに十万単位、地学的に見れば生物を絶滅の危機に追いやるほどの被害を出すのである。

 例えば1989年にバングラデシュのダッカを襲ったダウラトプル・サトゥリア竜巻では、世界気象機関の公式発表によると1300人が死亡、一万人以上が負傷した。2011年に発生した東北地方太平洋沖地震では、震災関連死も含めて2万2000人以上もの死者が出ている。


 大きな例としては、約七万四千年前に起こったトバ火山(インドネシア、スマトラ島)の超大規模噴火が挙げられよう。この噴火では、巻き上げられた大量の粉塵が太陽光を遮った影響により地球の平均気温が5℃も低下、当時の人類の大半が死滅した。

 一説によれば、人類はこの災害により、一万人に満たない数にまで減少したといわれる。これが現在のヒトの遺伝的多様性の低さに関連しているという仮説(トバ・カタストロフ理論)も立てられている。


 地球の活動の極端な例は、シベリア・トラップというウラル山脈(ロシア連邦)以東に広がる総面積約700万平方kmの玄武岩の岩体という形で遺されている。700万平方kmといえば、オーストラリア大陸の面積に匹敵するとんでもない大きさである。

 シベリア・トラップを形成した事象は、なんとマントルプルームそのものの大噴出であった。約2億5000万年前、上昇したマントルが超大陸パンゲアの北東部、現在でいうシベリアの地殻を貫徹したのである。

 この超々巨大規模火山活動は200万年にわたって続き、当時生息していた生物の九割以上を絶滅へと追いやった。ペルム紀と三畳紀を分ける、五大絶滅(ビッグファイブ)で最大であるこの大量絶滅の主要な原因は、この大噴火であると考えられている。


 自然は生物に恵みを与えるとともに、時には容赦ない打撃をも与えるのである。

 そして、今度の大虐殺を担当するのは、雨と風(・・・)であった。





 ――2027年9月5日、北マリアナ諸島から120km東の地点。


 水平線が霞むほどに青々としたこの非常に温暖な海原に、一つの大雲が現れた。そう、熱帯低気圧の誕生である。

 雲が積み重なり、渦を巻いて廻り始める。毎年起こるありふれた現象。


 そのはずだった。


 平年よりも4℃以上も暖かい海。

 そこから蒸発する(おびただ)しい量の水により、雲はどんどん発達し、積層していき、僅かに十時間で凶暴な台風へと変貌した。


 暴風が海洋を荒れ狂わせ、そこに豪雨が降り注ぐ。周囲一帯に凄まじい轟音が鳴り響く。空を覆う黒雲の中で、天を割るような音と共に雷光が何度も輝いた。

 その様子はまるで、自然の気分一つで文明などどうとでもできるということを忘れかかった、夜郎自大な人類に罰を与えんとするが如き台風を、海が、大地が讃えているかのようであった。


 猛り、育つ台風の中で、何もいないはずの天空に、時折生き物の鳴き声のような甲高い音が響き渡る。これが何かの意思の表れなのかは、まったく定かではない。

 しかし、この台風が極めて異常であることをはっきりと示しているのは確かであった。


 気流に乗り、台風は大海原の上を進み出す。


(われ)が目指すは、遙か北なる島弧なり」

 台風に意思があったなら、こう言っただろうか。それが合っているのかどうかは、誰にもわからない。知る由もない。

 ただひとつ、確かなのは、これから想像もできないような恐ろしい災禍が襲い掛かってくるということ。



 ――そして、その災いに日本という一つの国家が滅ぼされることになるのは、もう少しだけ、後の話である。

 本作を最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。

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