4. 枯れたる稲に降る雨よ
言うまでもないが、この度の全国的な渇水は何も一般市民の日常生活にのみ影響を及ぼしたのではない。彼らと同じくらいに、農業や工業などの産業も打撃を受けていた。
そもそも水利用のうち生活用水が占める割合は意外に少ない。例えば2019年の生活用水(家庭用水と都市生活用水を合わせたものをいう)、工業用水、農業用水の使用量はそれぞれ148L、108L、533Lであり、農業用水が67%強を占めている。いっぽう、生活用水が占有する割合は二割に満たない。
従って、渇水によって農業がもたらす市井への影響は非常に甚大なものとなるのである。
香川県高松市。
「稲、大丈夫かのう……」
日本有数のうどん地帯であるこの市の田園地域で、一人の老爺が嘆いた。
彼の名は野上剛といい、主に稲の栽培で生計を立てている農家であった。眼前に広がるは田んぼ。数え切れないほどのイネが上を向き、陽光を受けて青々と輝いている。
しかし、剛の顔はその輝きとは対照的に、暗く沈んでいる。
「干上がらんかったらええんやけどなあ」
彼が吐いた独り言が、その曇った表情の理由を辯じていた。顔に刻まれた数々のシワが、斜め上から当たった太陽光で強調されて浮かび上がった。
6月27日、高松市、阿波市、阿南市など香川県の多くの自治体で、10%の給水制限を行うことが発表されたのである。早明浦ダムの貯水率低下がその理由であった。
むろん、水田に用いる灌漑用水は河川などから取水してくるものであるから、ダムの水位が下がったことで直接の影響を受けるわけではない。だが、この発表は渇水が迫っていることを示す。
香川は日本でも水不足になりやすい県だ。大水源となる大きい川が存在しないほか、そもそも地形の影響で降水量が全国的に見ても少ないためである。
水は田んぼにとっての生命線と言っても過言ではない。その「生命線」が失われつつあるというのは、農業で生きている彼には危機的な宣告と受け止められた。もちろん、収入保険などの救済制度はあるが、入ってくるはずの収入を全て賄えるというわけではない。
彼が歎息したのは、このためである。
幸い、今は中干しに入っており、田に水は張っていない。しかし七月上旬には再び水を張らなければならなくなる。そもそも中干しまでも梅雨といえる梅雨がなかったから灌水は危ないところであった。
七月までに渇水が収まればいいが、そうならなければ非常に困ったことになる。
そして、七月に入っても渇水が終わる兆しは全く見えなかった。農家は節水に追われることとなった。
農業において、渇水に陥ったときの節水方法の一つとして挙げられるのが番水である。配水を管理して使用する水の量を減らすことだ。
この他にも事前に地域の人々で話し合いをして利水の調整を進める、昼間夜間を問わない見回りの強化といった方策も行われたが、詳細は略する。
剛の地区でも渇水による影響を鑑みて、7月8日から番水が行われることとなった(中干しの終了と同時である)。方法は、用水区域で地区を区分けして、間断的に順番で配水していくというものであった。
番水開始の前夜、「明日から大変な日々になるなあ」と家で彼は妻の恵子にぼやいた。番水には普段の引水と違って多大な手間と費用がかかる。それを知っている恵子は「お疲れ様。身体だけは壊したらあかんよ」と忠告じみた、しかし愛のある言葉を返した。
7月8日、午後5時58分。
部分的に薄く曇った空の下、剛は番水のため水田に出ていた。いつもと同じく稲は気持ちのいい緑色で生い茂っているが、彼にとっては大した慰めにもならない。それ以上に全身を苛む蒸し蒸しとした暑さが不快であった。
堰板を引き上げて、彼の田んぼに水を流す。木材でできている堰板はそれほど重いわけではないが、持ち上げる際にかがまなければならないので腰がつらい。転倒しないように体を制御する必要もあって、疲労に拍車がかかる。
威勢のいい音を立てて水は流れ込む。この水が目の前に広がる緑の命綱である。その風景を、剛は物憂げな顔つきで眺めていた。
これが終わると、彼は移動して近くの田んぼを営んでいる灰谷という老人に話しかけた。彼と灰谷はかれこれ三十年の仲である。
「番水なんて、久しぶりやなあ」という剛の言葉で会話が始まった。
「いつぶりやろね。番水だけで収まったらええですけど」
そう言った灰谷の顔は剛よりはやや前向きであったが、どちらかといえばネガティブさが滲み出ている。
「心ッからそう思いますわ、灰谷さん」
「番水は|たいぎ(面倒)やしねえ」
「まあたいぎや言うても、やらなあかんからしょうがないわ」
彼らには四時間後に戻ってきて、堰を再び封じる役目がまだ残っている。この作業は確かに面倒だが、剛の言う通りで、やらなければ稲が壊滅するので仕方ない。
彼の場合、引水時間は午後六時から午後十時までであり、比較的生活に合った時間に設定されていた。しかし、水田によっては午前二時から午前六時とかいった完全に生活リズムを無視した時間に堰を開けにいかねばならない人もおり、そういった人々は運の悪さを嘆くこととなった。
そして、渇水は番水だけでは解決しないほどに猛スピードで進行していくのである。
7月10日、香川市で25%の給水制限を行うことが発表された。同時に深夜断水も開始し、午後十一時から翌日午前五時までの水の供給が停止された。
「今週はこれまでと同じく、晴れ間が続くでしょう」
週間天気予報を見てもかわいらしい太陽のマークばかりが躍っていて、雲マークは少量、傘に至ってはほとんどない。太平洋高気圧が長らく日本に大々的に張り出して、雲を中々作らせないようにしているためである。
「どうなっとるんや」と食卓で恵子に愚痴る剛。その不平はもちろん晴れが終わらないことに向けられたものだ。「こんなに天気ばっか続いたら田んぼが枯れてまう」と彼は続けた。
「ほんまに。車運転するときも熱うてハンドル握れんわ。しかもシートまで熱いし」
「わしが田んぼで、恵子は車か。わしら両方大変な目に遭っとるなあ」
「去年まで毎朝散歩やってたんが嘘みたいやね」
「こんな暑かったら散歩なんかできんわ」
二人して暑さに不満をぶちまける。あまり健全な会話とはいえないが、こうでもしないと今年の異常気象は耐えしのげそうにない。
「太陽にはもうちょっと光弱めてほしいわ」
冗談めかした発言だが、これは剛の心からの願いであった。「走り水」という水位を低く抑える灌漑しかできないほど、状況は切羽詰まっていたためである。
もう野上夫婦が湯船にも満足に入れなくなってきたころ、新たな節水方法が実行されることとなった。
水の反復利用である。
反復利用とはその名の通り、上流から流れてくる排水をせき止めて、それをポンプなどを使って汲み上げ、農業用水として再利用することである。この作業によりさらなる水資源の活用が実現するが、面倒さは一段階アップする。
剛も反復利用に携わり、膝丈よりも小さなポンプ――だがパワーは十分である――を駆動させて水路から水を汲み取る作業を行った。彼はこの他にも日々行われる見回りや配水でかなりの疲弊を覚えていた。
自分の田んぼに入っていく、しかし本来そうなるべきではなかった水を思いながら、彼は自らの行く末を想像した。稲作は我が生業、これがなければ自分は食っていけない。
それよりも恐ろしくつらく思えたのは、自分が丹精込めて育ててきた稲の数々が、この猛暑災害で枯れ果ててしまうことであった。保険は金こそ入れてくれるが、農作にかかった時間や情熱までは補償してくれない。
ポンプによる引水を終えてから、彼は「反復までやることになるとはなあ」とまたも灰谷に心の内を明かした。
「はっはっは、今年の渇水は一筋縄ではいかなさそうやね」
「笑ってる場合とちゃうでしょう」
「でも、こういう時こそ笑っとったほうが精神にはええと思いますよ」と、白い歯を少し見せて剛に笑顔を見せる灰谷。丈夫な人やな、と剛は少しふらつく頭で思った。
「まあ、灰谷さんの言う通りですわ」
そう息を吐いた彼の目線は、山際に暮れゆく猛烈な夕日の方に向けられていた。
ちょうど彼らから見ると逆光になって、黒い山並みと輝かしい太陽とのコントラストが美しい。一見すれば田舎の風情ある光景だが、暑すぎて当事者からすれば全くそんなことはない。
七月の猛暑の数は六月と比べて非常に多かった。気象庁統計によれば、2027年の七月の31日間のうち、優に18が猛暑日、8つが真夏日で、最高気温が30℃未満になる日はわずか5つだけであった(姫路市の記録)。猛暑が騒がれた2018年でさえ、猛暑日は7つ、真夏日は17で、2027年の値とは大きく異なる。
香川市に毎時1mm以上の雨が降った日は、七月では6つのみ。そのほとんどで降水量は毎時10mmを割った。
このような異常気象が続くのだから、当然渇水は深刻化する。
給水制限は強化され、7月23日時点で35%に達した。香川県の大多数の地域で時間指定断水が強化され、一日に六時間しか水が出ないようになった。
農業用水のみならず、生活用水も極めて危機的な状況に置かれていたのである。市民の生命に直接関わるという理由から生活用水への融通が優先され、農業用水の供給はますます細っていた。
あまりの窮状から、世間では政府が気象庁と自衛隊を動かして「人工降雨」なるものをやろうとしているらしい、という噂まで立ち始めた。実際、政府は支持率回復のためこの風聞を真に転じさせ、航空機で雲を作る核となる物質を拡散、雨雲を発生させる試みを実行したものの、効果はいま一つであり渇水解決にはほとんど寄与しなかった。
「この渇水は、日本国の立って以来、前代未聞のものであります。政府はさまざまな対策を講じて、渇水に苦しむ国民のみなさまを支援いたします」
熱意のこもった声で話す中川総理大臣をテレビで見る野上夫婦。
「ほら剛、総理が言ってるよ」
「支援、か……」
だが彼らの声は暗い調子である。
「こんな自然現象に対策します言うても、やれることは限られとる」
剛の言葉が、その理由を物語っていた。
農家たちの稲は、確実に危機の淵へと追いやられていったのである。
さて、番水や反復利用といった方策を講じても未だ農業用水が不足する場合、さらなる対策が実施される――「用水補給」である。
通常は利用しないダムやため池の水を使わせてもらったり、他の農家が使う水を融通してもらったり、応急的な井戸を掘削したりすることで、用水を確保する方法だ。
「山田さんのため池も無理らしいです」
「まあ、この渇水やしな……。仕方ないですな」
だが、全国的な渇水を前にして、ため池などを他の人々に融通してくれる余裕を持った人々は稀であり、少なくとも剛は融通してもらうことは叶わなかった。
と、なれば手段は一つ。
井戸掘りだ。
こうして応急的な井戸が掘られ、地下水の利用が始まった。ここでさらに吉報が入る。土地改良区の主導によって、比較的余裕のある(ただし「比較的」というだけで、絶対的には切羽詰まっていたが)農家が彼らに水を融通してくれたのだ。昔から渇水が多発してきた香川ならではの取り組みといえよう。とりわけ、平成六年渇水を教訓にしたものであった。
「灰谷さん、これでもう大丈夫かのう」
「そうなったらいいですがねえ……」
……それにもかかわらず、農業用水は不足し続けた。日を追うごとに強大化する空前絶後の猛暑が、間違いなくその原因であった。ため池の水位はみな低く、ほぼ完全に涸れているものさえ少なくない。
このままでは致命的な事態が発生するだろう。剛を含めた農家はみなそう思った。
そして彼らの懸念はそのまま現実となった。
「底、みんな見えとる」
香川のとある農家が呟いたのがその予兆だった。
八月初頭までに、主要水源たるため池がほとんど枯渇したのである。フル稼働する井戸も水を補うには不足であった。ため池の底には青々とした草が生い茂っていたが、その一部は既に枯れ始めていた。
とうとう彼らは、最終手段に打って出た。
犠牲田の造成、すなわち灌漑をやめて見殺しにする田んぼを出すことである。
彼の地区では五分の二が犠牲田に指定され灌漑を停止された。さらに個人による灌漑は禁止され、すべて水利組合の長の指令のもと行われることが早々に決定される。違反者には配水を停止するという厳罰を付した強固なものであった。
剛は命綱を切られ茶色に染まっていく犠牲田を見て、どうにもやりきれない心痛を覚えた。
なお、七月中旬には「走り水」も制限され、「かけ流し」と呼ばれる極めて限定された灌漑のみが行われるようになっていた。これは田んぼが湿る程度で引水を止めてしまうという、まさに極限の灌漑であった。
……結論をいえば、彼らの努力は水の泡となって消えようとしていた。幾度となく行われた番水、見回り、反復利用、用水補給、犠牲田といった方策の数々を、夏の猛暑は嘲笑うかのように、その強烈な熱をもって次々と灌漑水を蒸発させ、稲を枯死させていった。
もはや彼らに希望は見えず、摑めるかも分からない細い蜘蛛の糸をたぐるために日々配水などに励む日々が続いた。
とはいえ、捨てる神あれば拾う神あり。八月中旬に突如、吉報が入った。
「十七日から三日間程度は、九州から本州全域で雨が続くとみられます」
九州南海で発達した大きな雨雲が、雨を数日にわたって降らせてくれるというのだ。もちろんこの雨雲は高温の海水を源としているため猛烈であり、豪雨による災害は予想されるが、このニュースは現場で苦難する農家たちにとって希望の光と映った。
実際、雨雲は天気予報の言う通りに北海道を除く日本全土を席巻し、三日間にもわたって、場所によっては毎時110mmにも達する凄まじい大雨を降らせ続けた。香川も雨の傘下へ入り、この地域では稀な豪雨が続いた。
結果として渇水は緩和され、8月23日には香川市での給水制限は15%まで戻された。マスコミは狂ったようにこの大雨を「恵みの雨」と称え、報道し続けた。
しかし、家にこもる剛の顔は暗かった。
「もっと、もっと早うに降ってくれたらよかったのに……」
この雨が降る前に彼の田んぼは半分が枯れてしまっていたのだ。何もかも後の祭りでしかなかった。
雨粒が彼の涙となって、もう死に絶えた茶色の稲を潤していた。
次回更新は3/23の予定です。