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3. 第二次東京大渇水

 場所は東京都港区。


「ああ全く、ツイてないなあ……」

 湿気を含む猛烈な暑さの空気に包まれて、斎藤(さいとう)拓弥(たくや)はひとり溜息をついた。彼は10.5kgもの重量を誇る水入りタンクを両手がかりで持ち、ひたすらエレベーターが降りてくるのを待っていた。



……。



 2027年の並外れた天候は、人間の体調にはもちろん、水の供給にも甚大な悪影響を及ぼしていた。

 二月に始まったジェット気流の蛇行は、主に西欧で豪雪をもって人間社会に打撃を与えたが、日本への影響も無視できるものではなかった。この年の日本の冬は短かったのだが、これはブロッキング高気圧が発生して長きにわたり関東以北に晴れを供給したためでもある。

 また、海水温の上昇が例年に比べてかなり早かったのも大きな要因である。


「おっ、もうコートやめたんだ」

「だいぶ寒さが引いてきたからねー」

「確かに、まだ二月二十日(はつか)なのに『涼しい』って感じだよなあ」

 普通ならまだ懐炉(カイロ)を使うべき二月中旬ですら平均気温は摂氏十度を超え、衣替えを前倒しする光景が日本各地で見られた。


「ゴールデンウイークは、概ね全国で晴れるでしょう。やや暑い気候が予想されますので、半袖の準備を――」


 三月こそ多少雨の降る日もあったが、四月からは長い好天シーズンに入った。ゴールデンウイークもずっと晴れ続きであった。すなわち融雪はすばやく、そして少ない。

 さらに悪いことに、2027年の初夏は偏西風が北へ蛇行していた。これは太平洋高気圧の北上が早まることを示す。

 実際、梅雨前線は停滞に停滞を重ねた。6月16日にやっと梅雨入りが報じられたかと思えば(これは近畿や北陸などの記録で、沖縄はもう少し早かったが)、しとしととした五月雨(さみだれ)らしい雨も降らぬうちに「梅雨明けしたとみられる」と気象庁が発表してしまった。関東や関西、四国など多くの地域での梅雨明けは6月27日で、各地方のほとんどで史上最も早いものとなった。


 そしてこれらの異常気象は連携して、日本の用水供給に深刻な支障を与えることとなる。

 

 

 6月25日の夜。


「取水制限とは、水道局などが川などから取る水の量を減らして、無駄な水量を減らすようにすることです」

 齋藤拓弥はリビングに据え置きの大テレビでニュースを見ていた。女性アナウンサーがスクリーンの前に立って解説している。一方隣では、幼子の(れん)がおもちゃに興じている。

 彼がニュースを見ているのは、別に水云々について関心があるからではない。ただテレビをスマートフォンとの二刀流でぼおっと見ていたら、偶然水不足の話になっていただけのことだった。


「なんか水不足らしいよ、ちょっと節水しなきゃな」

 従って彼のこの言葉も何ら危機感をもって発せられたものではなく、妻の鷹子(たかこ)との話題作りを目的にしていた。その狙いは果たして成就し、彼女は「(うち)が節水しても大して意味なくない?」と返事してきた。


「えー、でも塵も積もれば山となるって言うだろ」

「取水制限くらい何てことないでしょ」

「そんなもんかなあ」

 意図せぬ返事で戸惑う拓弥だったが、苛立ちを覚えるなどということはない。日常会話に真剣さを持ち込むのは野暮というもの。だから、彼は妻に合わせた言葉をかけておいた。


「さらに水不足が進むと、今度は『給水制限』という措置が行われ、家庭や工場、畑などに供給される水の量が減らされるようになります」

 解説を続けるアナウンサーの声は、もはや彼の耳には入ってこなかった。




 ――上述もしたとおり、渇水連絡協議会の決定によって、6月25日から当面の間、利根川・荒川水系からの10%の取水制限を実施する旨が発表された。この水系は東京都の約八割を占める重要な水系である。

 小河内(おごうち)ダムや矢木沢(やぎさわ)ダム、下久保(しもくぼ)ダム、八ッ場(やんば)ダムなど、貯水量の十分大きなダムを合計九つも利用している東京都であるが、近年は雨量の継続的な減少や、水の需要増加などの原因が絡まって慢性的に水不足気味だ。

 とりわけ八ッ場ダムは当初、「建設予定地に温泉街が複数含まれる」などとして大規模な反対運動が起こり、2009年には一度建設が中止されたという複雑な経緯をもっている。


 それを含めても未だ不足なのである。


 従って、この取水制限は市民にかなりインパクトを与えた。

 ……かと思いきや、市井の人々にはあまり意に介されることはなかった。


「取水制限かー、……シュスイセイゲンって何?」

「ま、()うて俺らには関係ないっしょ」


 当然のことである。取水制限とはあくまで水道局側にのみ影響(ダム貯水率の減少等)が及ぶことであり、一般家庭や工場などにはほとんど何も起こらない。せいぜい水の勢いがわずかに弱まるくらいである。

 テレビやインターネットでは「洗濯物はまとめて一気に」「残り湯を活用。シャワーは控えめに」「洗い物、水はこまめにストップ!」といったように節水が呼びかけられたが、それで大々的な節水を実行に移した家庭は少数に過ぎなかった。大半は25日のニュースから一週間くらい少しだけするか、そもそも何もしないような人々ばかりであった。



「今日は風呂なしかい?」

「佐藤さん、水不足でね、お風呂に入れる回数が少なくなってしまって。今日は、お風呂なしなんですよ」

「そうかい、残念だよ」

 組織レベルでは、学校・公営施設でのプールや、水を大量に使うイベントないしお祭りの中止、病院や老人ホームでは入浴間隔の延長などの節水策がとられたが、やはり前代未聞級の渇水を防ぐには力不足が過ぎた。



 結果、七月初頭には、東京都の水道水源の約17%を占める多摩川水系でも取水制限を行うこととなった。しかしそれでも民間に危機感は湧かず、ゆえに水道水の使用量は酷暑の激化に伴って増加の一途を辿った。

 次第に取水制限の度合いは15%、20%と強められていったが、日常生活に目で見える変化がない以上、人々が水道局の努力を省みることはない。先述した各ダムの水量は日に日に減っていき、やがて下久保ダムでは水没していた村の跡が久々に陽光の下へ曝されるようになった。

 ダムに関わる者なら、誰が見ても分かる異常事態であった。


 よって、事態は次のステップへ進む。



 

 7月25日午前10時30分。


「えっ、何これ!?」

 拓弥の妻である鷹子は、昼食の買い出しに出かけるために乗ったエレベーターで驚愕の声を出した。

 それもそのはず、エレベーターの壁には黄と赤の警告色で毒々しく彩られたポスターが二枚、デカデカと貼り付けられていたのである。驚異的にけばけばしいデザインからは、乗った者の目を絶対に(・・・)離すまいという意志さえ感じ取れる。

 製作者の趣味なのか、上部には黒の極太明朝体で「給水制限が始まります!!」と題されている。その下には給水制限が始まるので水が出にくくなること、制限は特に上層階に影響が大きいことなどが記され、真ん中下あたりには「給水制限の解除時期は未定です!」と今度は極太ゴシックで記されている。ポスターのあちこちに赤のひし形で囲まれた極太明朝の「警告」「警戒」の字が躍っていた。


 隣のポスターは「給水車スケジュール」とポップ体で題されており、その通り給水車がいつ、何時に来るかの予定表と、来る場所についての詳しい説明が書かれていた。

 両方のポスターにも、一番下には「今すぐ(・・・) "ポリタンク(・・・・・)" のご用意を!!!(・・・・・・・・)」とタイトル並みの大きさで極太明朝が躍る。エレガントさの欠片もない。


「えー、そんなのあるの?」

 12階から地上まではしばらく時間がかかる。彼女はエレベーターが着くまでの間、やることもないのでポスター二枚を順に見ていった。途中、何人かが乗ってきたが、彼らもポスターに目を向けた。

 

 それからポスターの言う通り、ポリタンクがあるか拓弥に確認の電話を入れた。非常用給水袋でもいいが、形が変わらないポリタンクのほうが便利だろう。


「あっ拓弥? ポリタンクあるー? 水入れるやつ」

「え、ポリタンク?」

「給水制限ってのが始まるみたいでさー。『ポリタンクを用意』って、エレベーターに書いてあったの。ちょっと、家の中探しといてくれない? どうしてもってなら、給水袋でもいいからー」

「わかった、探してみる」


 幸い夫は快諾してくれた。しかし嬉しく思っている場合ではない。

 ――激烈な暑さが彼女を襲撃する。近頃は猛暑日ばかりなのである。北海道でさえ似たようなものだ。札幌に住む両親は大丈夫だろうかと、一瞬不安がよぎる。



 結局、家にはポリタンクも給水袋もなかった。だがホームセンターへ急いで、即日ポリタンクを買えたのは不幸中の幸いであった。まともなタンクは、翌々日にはあらかた売り切れてしまったからだ。

 


 給水制限は取水制限と違い、日常生活にも影響を及ぼす措置であるから人々の意識も変化させた。

 蛇口をフルに開いても水の勢いが悪い。住む場所や階によっては水がほとんど出ないことさえあった。

「ドライシュタインの夏ライブ、中止だってよ」

「え、マジ?」

 多くのイベントが中止され、スーパーに並ぶ野菜の数も減り始めた。

 これにより節水に励む人々の数は増えたが、連日の猛暑は彼らの努力を打ち消し、ダムの、川の、湖の水位を、太陽光の熱により減らしていった。7月28日には小河内ダムの貯水率が30%まで低下。貯水率がほとんどゼロのダムさえ存在した。

 

 従って、給水制限は次第に強化されていき、香川など特に渇水が重篤な一部地域では時間指定断水も始まった。当初は深夜に限られたこの断水は、水不足が深刻になると午後にも実施されるようになり、熱中症患者を増やす原因ともなった。

 渇水は、もちろん首都圏でもますます大きな問題となっていく。



 7月30日。

 この日、東京都の給水制限が15%、一部地域では20%まで引き上げられた。


 港区の高層マンションの一室で、「えっ、なんで!?」と素っ頓狂な声を上げる鷹子。

 起きて洗面所に向かったら、蛇口から水が出なかったのだ。正確には情けないばかりの数滴が垂れ落ちて、あとは沈黙、といった格好であったがどちらにせよ彼女には関係ない。


 シンク、トイレ、風呂場と順に見ていったがどこも出なかった。そのうち、彼女の足音で起きた拓弥が「どうした? そんなにバタバタして」と聞いてきた。


「水出ない!」

「えっマジか。結構早かったな……」

「まあ紙皿とかは買っといたけど」


 そう言って鷹子は紙皿と紙コップを三つづつ取り出した。皿洗いも洗濯もできないので、当座は使い捨てで凌ぐしかない。服もどこかで洗濯だ。

 それよりも問題だったのが飲料水の確保である。冷蔵庫に入っている飲み物は長く見ても三日分ほど。従って給水車で生活用水を確保せねばならない。


 彼女は25日に撮っておいた件のポスターの写真を見た。次の給水車は午前9時、芝公園に来るらしい。スマートフォンが8時34分を示している。今から着替えれば十分間に合う時間だが、彼女は面倒を感じた。

 幸い今日は日曜日で、一日中夫がいる。ならばその人に運ばせればいい。

 彼女は画像を拓弥に見せて言った。


「もうすぐ給水車が来るから、水もらってきてくれる?」

「うーん……」

「お願い。朝ごはんとか作っとくから」

「じゃあいいよ。ポリタンどこ?」

 一瞬どうなるかと思ったが意向は通った。あとはしばらく待てば、夫が10L水を持ってきてくれるだろう。



 こうして拓弥は朝の猛暑を忍んで、給水スポットまで旅することとなった。

 持たされたポリタンクは白い。叩けばポンポンという軽い音がして、重量もその通りであった。だがこれは水を汲むまでの一時のことである。


 十分ほど歩けば公園に着いた。そこは既に黒山の人だかりが形成されており、彼は思わず顔をしかめた。


「どんだけ待ったらいいんだ……」

 ひとり溜息をつくが、ついたところでどうにかなるものではない。とりあえず最後尾に並ぶ。知人は数人しか見つからなかった。

 こんな状況でも礼儀正しく並ぶさまを見て、彼は内心「日本らしいな」と感心したが、すぐにそれどころではなくなった。


 暑すぎる。暑すぎてもはや痛い。


「天気明朗なれども」……って感じか、いや「天気明朗なれば」かな、と心の中で冗談を飛ばすが、身体は酷暑というのも生ぬるいほどの熾烈な天気で疲弊するばかりである。

 九時での港区の気温は36.7℃に達しており、既に人の平熱を超えていた。彼の前には最近人気のハンディ扇風機を使っている人もいたが、このような状況で使えば熱風が来て逆効果である。

 日傘でも防ぎきれない猛暑は、日光を遮る道具を何も持っていない拓弥にとっては拷問の一種とさえ感じられる。ポリタンクで腕をかばうが無駄な努力に終わる。首にあてた冷却リングが、唯一の癒やしであった。

 このうえ日本の夏は湿度がやたら高いのだ。最悪レベルの気候条件が彼を含む人々を容赦なく痛めつける。


 しかし止まない雨はないのと同じく、彼の苦難にも一旦終わりが来た。

 給水車まで着いたのだ。「次の人どうぞー」という職員の声で前に進み、タンクを管の下に置く。


「貴重な水です! こぼさないように、必ずタンクや給水袋の場所を確認してから、蛇口をひねってくださーい!」


 蛇口を回すとまもなく水が出てきた。こう暑い中で水を見るとやはり安心する。鋭い日光を反射する銀白色のステンレスタンクが輝かしい。

 ジャバジャバという爽快な音を聞きながら、彼は暇なので職員に聞いてみた。


「いつ水道は復活するんでしょう」

「それが、分からないんですよ……。何日か雨が降ればダムの水位は戻ってきますし、そうなれば給水制限も解除されるでしょうが……いかんせん雨が降る見込みがないんです」

 心底残念そうに答えた水道局の顔を見て、彼はあまり追及するのはやめようと思った。


「そうなんですか。でも、早く復旧してほしいです」

「私どももそう思っております」


 やがてポリタンクは九割がた満タンになった。ここで拓弥を襲ったのが「重さ」の問題だ。

 両手でタンクを持って、彼はその重量に驚いた。持てないほどではないが、これを家までとなるとかなり過酷な労働になる。


「うえぇー重っ……」と愚痴り、四回の休みを入れて、最後は近くを通りがかった台車持ちの知人に「これも乗せてもらえませんか」と懇願して、ほうぼうの体で彼は何とかマンションまで帰ってくることができた。


 ――それで、舞台は冒頭に移る、というわけである。高層マンションに住むことにしたのをこれほど恨んだのはこれが初めてであった。


 

 玄関の扉を開けた拓弥は開口一番「これ、重すぎる」と息切れしながら妻を見た。彼の半袖シャツの半分は汗で黒く染まり、頭髪は染み出た汗でじっとりと濡れていた。

 彼の苦労を鷹子はすぐに察知し「お疲れ様」とねぎらったが、そこからリビングまでポリタンクを任されるはめになった。

 ポリタンクを運んだ鷹子の感想は、「私には無理」というものだったが、翌日から拓弥は仕事である。水曜はリモートワークだがそれ以外は出社せねばならず、その場合は当然鷹子が水を持ってくる役目になる。


「はぁー…………」

 二人同時に溜め息をついた。しかしこれが現実である。

 水道再開の兆しも見えない以上、しばらくは給水車頼りの生活をしなければならない。どうせ店に置いてあるミネラルウォーターや天然水はすぐ売り切れるだろう。



 実際、東京都における全体的な給水制限は時が経つと緩和されるどころか、八月に入ると時間限定断水をも含むさらに大規模なものとなった。


 そして、東京と似た現象は、日本の大半の地域で同時多発的に起こっていたのである。 

次回の更新は3/21の予定です。

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