2. 丑三つ時の昏倒
6月12日に起きた横浜市鷹平小学校の悲劇はたちまち全国ニュースとなり世間をざわつかせたが、世の流れは速く、この事故そのものは、一週間程度でどんどん出てくる別の報道に流されてしまった。
その次に報道され始めたのは、今年、2027年の異様な猛暑であった。
四月中旬までこそ例年通りの春らしい気候が保たれていたが、4月28日に記録された最高気温27.1℃(静岡県浜松市)を皮切りに異常な高気温が始まった。5月2日には東京都羽田で最高気温30.9℃が観測され、1959年の記録(5月5日、31.0℃)を塗り替えて史上最も早い東京都心部での真夏日となった。
そこからもゴールデンウィークを数日過ぎたころまでは例年よりも3~4度ほど高い最高気温が観測され続け、暑さに不慣れゆえの熱中症が多発した。だが、そこから六月のはじめまでは概ね昨年までと同程度の気候に戻り、世間には「偶々ヘンに暑かったんだろう」などと吹聴されるに至った。
……その勘違いは、先述した運動会の惨事を招く遠因となったのであるが。
しかしその後は再び猛暑がぶり返した。結果、六月全体の猛暑日は九日、真夏日は12日もあり、月の半分以上が最高気温30℃以上を叩き出す前代未聞の水無月となった。
「マッッジで暑い。ホンマに六月か今?」
「それな。俺も汗止まらへん」
「連日、猛暑が続いています。外出するときは日焼け対策を万全にして、できる限り日陰や屋内を通りましょう」
「今日も九州から関東のほとんどの地域で、最高気温は30℃を超えています――」
毎日毎日ネットかテレビを見れば水分補給や塩分補給、エアコンや冷却グッズ、日傘の利用といった熱中症対策が宣伝され続け、徐々に国民の意識を変えつつあったが、それでも前時代的な考えに憑かれて大した方策をとらない人々も少なくない。
大阪府堺市に住む伊藤崇も、その一人であった。
「最近のテレビは気温が高いだの熱中症だの騒いどるけど、正直大したことやあらへん」
7月13日、昼のニュースを見ながら彼は近くに座っている妻、葉子にぼやいた。穏やかな顔をした老女は彼の心持ちを取り計らい、「まあ、ちょっと騒いどったほうがみんな対策するようになるからねえ」と返した。
現在、彼らが住む一軒家にはほぼ直上から太陽の光がギラギラと降り注ぎ、摂氏39度というとんでもない高気温を与えている。この外気温は当然家の中にも伝わっており、ちょうど彼が不平を漏らした瞬間のリビングの気温は34.7℃に達していた。
それにもかかわらず、この家ではエアコンがまともに動いていない。ついていないわけではないが、設定温度は28℃、風力も「弱」に設定されていた。天井近くに固定された白い機械は、申し訳程度のぬるい風を出すばかりである。
では、それはなぜか。理由はすぐに崇の口から語られた。
「エアコンエアコンってうるさいけど、つけたら電気代はかかるわ部屋は寒なるわで全然ええことがあらへん」
眉をひそめて彼はつぶやく。ただでさえシミとシワまみれの顔が一層しわくちゃになった。
そのときテレビからは、エアコンを適切な温度と風力でつけるようにという熱中症への警戒が、有識者の意見とともに流されていた。
しかし、彼の不満は大きな勘違いであった。
まず、「エアコンの電気代が高く付く」というのは昔の話である。現在のエアコンは省電力化が進んでおり、たとえ一日中つけっぱなしにしても300円/日にも満たない料金しか取られない。
さらに、「部屋が寒くなる」というのも客観的に見れば誤りだ。前述した通り現在の彼らがいる部屋の気温は摂氏35度に匹敵しており、到底「寒い」どころか「涼しい」とすらいえないほどの暑さである。
だが彼は老化により、暑さを感じる皮膚センサーが鈍っていた。それで、「エアコンをつければ寒くなる」などという間違った考えをしてしまっていたのである。汗が出ていないという事実が、彼の誤解に拍車をかけていた。
――屋内であろうと、熱中症対策を怠ればどのような結果が来るのかも知らずに。
御年79歳の崇は、その年齢に見合って時代遅れな考えを持っている人間であった。彼の思考を一言で表すなら、「最近の若者は弱い」といったところである。
「また若造が『暑いですね』とか喋っとる」
「でも、最近は昔に比べたら気温も上がっとるやんか」
「そうかもしれへんけどな」
彼の思料はこの日も喉を破って物理的に現れた。葉子は内心、若者をしばしば貶す彼の口ぶりを快く思っていなかったため、彼の気を悪くしない程度の軽い反論に出た。
「ほら、水でも飲みんさいね」
「喉も乾いとらんし、要らんわ」
「飲んどきって。ね?」
六十年近く共に過ごしてきた伴侶に水分を摂らせようとする葉子の試みを、崇は拒絶した。これは脱水症状と熱中症の発症に繫がる危険な道であったが、彼自身がそれに気付くわけもない。
高気圧の本州停滞や温室効果、ヒートアイランド現象等によって著しく過熱された近頃の天候は、彼ら老人がこれまで生きてきて経験したことのない事象であった。
これはすなわち、対策が遅れるということを示している。なぜならば、人間は経験に多くを頼って判断を行う傾向があるからだ。平時ならばそれは悪いことではない――しかし今のような異常気象の世では無益などころか、むしろ有害に作用する毒であった。
「気持ちはありがたいけどな、汗もかいてへんしな」
事実を提示して彼は二度拒絶した。発汗がないのは部屋が涼しいからではなく、彼の体温調節機能と高温認知能力が低下しているからなのだが。
暑さを感じないことは、人間に不要な自信を与えてしまう。周りの人々に体力の強さを誇示するだけで済めばよいが、自覚なきまま熱中症への道を走っていく者も決して少なくない。
そして崇は、後者になる運命であった。
暑さについての特集を見終わった彼らは別行動に移り、崇は有名な作家の長編小説を読み進め、葉子はスマートフォンで可愛らしい猫の動画を見ることにした。
各々の娯楽が終わると、午後三時ほどから崇は庭で植物の手入れ、葉子は夕食の買い出しに出ていき、家の中は一時もぬけの殻となった。気温は下がりつつあったが、陽は今でも燦々と照りつけており、未だに33℃もの高温が観測されていた。
さらに言えば、葉子は日焼け止めを塗り、日傘をさして外出したのに対して、崇はまともな紫外線対策もせず、濡れタオルを首に巻くのみであった。
災害レベルに達している近年の猛暑についての認識は、葉子のほうが彼よりも一段上にあったのである。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
夕刻、葉子の手作り料理を食べる二人。メニューは和食であり、白飯、納豆、焼き魚、サラダをメインとして小物が二つという品目である。老夫婦の夕食にしては量が多いものの、崇も葉子も臆することなく料理を口に運ぶ。減塩志向の葉子が作っているので料理の塩味は薄いが、彼らには十分であった。
「やっぱり旨いわ、葉子ちゃんの鮭はなあ。他の人が焼いたらなんかちゃうねん」
途中、崇は葉子を褒めた。これは機嫌がいいとき限定の彼のふるまいである。とはいえ葉子も、称えられて悪い気はしないのも事実だ。彼女は「そうかい、よかった」と笑顔で感謝を返した。
さらに崇はこれでも足らないのか、バナナ一本を追加でデザートとして食べた。
晩ご飯の終了後、片付けなどいくらかの作業や娯楽に勤しんでから崇は風呂に入った。特に高齢者にとって、入浴は危険を伴う行為である。脱衣所や風呂場での転倒、湯船での溺水、その他失神やのぼせ、脱水などのリスクもある。
「あー、ええ湯やった」
だが、彼は別段事故もなく洗面所(脱衣所を兼ねる)から出てきた。彼は体の頑丈さを自負しており、お風呂に入る時の危険など考えたこともなかった。実際、彼が65歳になってから入浴時に体調不良や事故を起こしたことは、両手で数えきれるくらいしかなかった。
しかし、今日の入浴は、本人も知覚せぬうちにこの老人の体力、水分と塩分をその熱によって奪っていた。温覚が鈍化していた彼は、なんと温度設定を夏にもかかわらず41.5℃に設定していたのである。
崇はいまや、熱中症の一歩手前であった。
彼の認知機能の衰えも、熱中症への道を助長した。彼は普段飲むはずである寝る前の水を飲み忘れた。それにより生じる喉の乾きこそ知覚できたが、「まあええやろ」と問題に考えず、十時半にもならないうちに床に就いてしまった。
寝室の空調機器はリビングと全く同じ設定であり、部屋を冷やすことなどできなかった。そのうえ、彼は「エアコンは寒い」などと言って掛け布団を被って寝てしまったのである。
一方、葉子は水分不足を感じて、コップ一杯分の水を飲んでから布団に入った。
この水分補給が後に大きな差を生むことになるのを、彼らはまだ知らない。
近日は最低気温も30℃を下回らない所謂「超熱帯夜」が観測されており、テレビやインターネットでもその危険性がしきりに周知されていた。事実、今日7月12日も堺市の最低気温は30.1℃であり、超熱帯夜であった。
昼に屋根が蓄えた熱は、次第に下って部屋へと流れ込んでいく。
そのような気候条件の中、ろくに水分も塩分も取らず、空調も整えずに、布団を被って寝れば、一体どんなことが起きるのか。
答えは間もなく明かされることとなった。
7月13日午前2時28分。
まさに丑三つ時が終わろうとしているその時に、葉子は不意に目覚めた。覚醒直後は自分の状態を把握できなかったが、時が経つにつれてなぜ起きたかが曖昧にも分かってきた。
気分が悪い。暑い。
頭を圧搾されるような強烈な不快感が、めまいとともに襲いかかってくるのを彼女ははっきりと感じ始めた。さらに体の力が思うように入らない嫌な感覚を覚える。
体が熱い。一刻も早く全身を冷やしたい衝動に駆られるが、激しい倦怠感で行動に移せない。
オーバーヒートした頭脳でなんとか考えて、彼女が辿り着いた結論はこうであった。
熱中症だ。
その推論は正解であった。
現在、彼女はⅡ度の熱中症を発症しており、身体の各所、特に頭脳に大きな影響が及んでいたのである。体温は38度近くに達し、脱水症状も併発していた。
葉子は隣で体を横たえている崇に助けを求めた。
「ねえ、起きて、タカちゃん起きて」
彼女が期待したのは彼が自分に手当てをしてくれることであったが、その予想は裏切られた。
「ねえ!」
彼を揺すっても起こせない彼女は焦りを感じ、夫の体を震える手で何度も揺さぶり始めた。
その努力は無事叶い、彼も意識を取り戻した。
――否、この言い方は正確ではない。
崇は妻を助けることができない状態にあった。それは思考力の落ちた彼女でさえ直ちに分かった。
彼は起きたかと思えば、手足をぶるぶると痙攣させ始めたのである。今まで見たこともないほどに目を活と見開き、虚空を睨んで、曖昧な母音を漏らしながら、何を摑むでもなく四肢を著しく震動させるおぞましい夫の姿を目にして、彼女に正気が少しだけ戻ってきた。
これはただ事ではない。そう理解した葉子が取った手段は「救急車を呼ぶ」ことであった。
時は金なり。一分の違いが命を左右することもある。どこかでこれを聞きかじっていた彼女は直ちに救急車を呼ぼうとするが、肝心の電話が見つからない。
不幸にも彼女のスマートフォンは隣のリビングのテーブル上に放られており、固定電話も部屋を出た先の廊下に設置されていた。電話にありつくまでにはどう見積もっても一分は下らない。
激しい倦怠感と頭痛、めまいを抱え、額に汗の滴を浮かばせながら、彼女は居間に向かって齧りつくように進んだ。早く救急車を呼ばねばという焦躁に追われ、視界が揺れる中リビングまで着いた彼女は、血の滴る肉を求める空腹の獣のごとくスマートフォンをむしり取ると、すぐさま電源を点けた。
パスワードを打つ時間すら惜しい。緊急電話はロック画面からでもかけられるが、思考機能に支障をきたしていた彼女にはそれが分からなかった。
1、1、9と三つの数字を打ち込み、電話をかける。一回目は指が外れて失敗した。
通話が始まるまでに彼女は夫のもとへ駆け戻った。崇は先程と同じく痙攣を続けており、上体を起こすこともできずにその場で暴れていた。
プルルルという機械音がかえって彼女の焦躁を増幅させる。はち切れんばかりに鼓動する心臓。彼女は愛する夫に何かできないかと彼を見た。
その時、機械音が途切れた。繫がったのだ。
「119番です。火事ですか? 救急ですか?」
やや低い男の声が聞こえる。
「救急です!」
間髪入れずに彼女は答えた。それはもはや絶叫であった。
「住所はどこですか?」
「えっと……」
記憶のもやを切り裂くのに五秒かかった。
「堺市南区の……」
働けない脳を叱りつけ、必死の思いで彼女は住所を言っていく。住所を最後まで覚えていたのは幸いであった。
「わかりました。誰がどうなったのでしょうか。意識はありますか? 呼吸はありますか?」
「私と夫の調子が悪いです。えー、私は頭が痛くて、熱があって、とにかくしんどくて……」
「はい。ご主人の容態はいかがでしょうか」
「体がすごく熱くて、手足がガタガタ震えてます! 話しかけてもまともに返してくれません。呼吸は、あると思います」
男性の声が救世主のようにさえ聞こえる。彼女はいわゆる火事場の馬鹿力で亭主の病状を報告することができた。
その時、隣でうずくまっていた崇が起き上がった。葉子は電話の声に向かって「いま夫が起きました!」と叫んだ。
しかし、それは病状の改善を示すものではなかった。
――直後、彼女は固体を含む粘液が大量に床へと落ちる音を聞いてしまった。
思わず振り返った彼女が目にしたのは、腹の中身を外に吐き出した夫の姿であった。茫然とする彼女を前に、崇はごぼごぼと喉を打ち鳴らして再び嘔吐した。胃袋に残っていた納豆や切り身、砕けたバナナの欠片が混ざり濁った胃液が、強烈な刺激臭を放つ。醜い体液が白いシーツと畳をどんどん穢していく。
こみ上げてくる吐き気を抑えながら、「夫が吐きました……!」と言う葉子。
「はい。了解しました。では、吐瀉物が喉に詰まっていないか確認してください。もし詰まっていれば、背中を叩いて、気道を確保してください」
あくまでも冷静に返す指令員。あまりの冷静さに葉子は、無意識のうちに軽い苛立ちを覚えてしまう。
とはいえ指令員に逆らうことはしない。「息できる!?」と崇に訊き、背中を出せる限りの力でバンバンと叩く。吐瀉物の一部は布団を超えて畳にまで染みていた。
腹が膨張と収縮を繰り返しているのを見て微かに安堵するが、同時に尋常ならざる体の熱さに驚愕する。このとき、崇の体温はなんと40.4℃に達していたのである。
「では、あなたとご主人の年齢を教えてもらえますか」
「私が76歳、夫が79歳です」
「わかりました。最後に電話番号をお伺いいたします」
「090-xxx-xxxxです」
「ありがとうございます。救急車が来るまでに、できる限り水分と塩分を補給しておいてください。可能ならご主人にも。また、玄関の鍵も開けておいてください」
「は、はい」
その返事から数秒して電話は切れた。
まず葉子が行ったのは、水分補給であった。Ⅲ度熱中症の夫を寝室に残し、よろめく足で台所まで歩く。シンクに到着すると蛇口をひねり、出てくる水をコップに溜めて飲む、飲む、飲む。
水を飲む最中も吐き気が襲ってくるが、ここで吐けば台無しだとぐっとこらえて何杯も口に入れる。それが終わると食卓塩の瓶を開け、塩を口に直接放出して水道水ごと胃へ流し込んだ。
次に彼女は玄関へ向かい、鍵を開けた。金属のノブをひねればよいだけだから時間は要さない。
最後に再度シンクへ向かうと、コップに半分ほど水を入れ、もう片手に食卓塩を持って寝室へ戻った。夫に水分と塩分を補給させるためである。
しかし彼女の試みはうまくいかなかった。
「ちょっと、水飲んでちょうだい!」
「ぅ……あぁ……」
意識障害と運動障害を併発している彼にとって、嚥下は容易な業ではない。水を口に含むのも一苦労、飲み込むに至ってはほとんど不可能であった。意思疎通が取れないことが、それに拍車をかけた。
仕方がないので彼女は思い切って彼の頭に水をぶちまけた。少しでも体温が下がればとの思いからであったが、彼の症状に改善の兆しはない。
そうしているうちに、遠くからけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。深夜に相応しくない猛烈な轟音は、彼女に一縷の望みを与えた。
まもなくサイレンは止まり、夫のそばでしばらく待っていると、救急隊員が破竹の勢いで部屋へ飛び込んできた。
「女性一人、男性一人確保しました!」
若めの隊員が大声を放つ。担架が運び込まれ、吐瀉物の臭いを漂わせる意識朦朧の崇を隊員二人がかりで持ち上げて乗せていく。
「すみません、隊員が戻ってくるまで、しばらくお待ちいただけますか」
「いえ、そんなことは……! 救急車までくらいなら自力で歩いて行けます」
「無理をなさらず。お待ちください」
「時間をかけたくないんです」
「……了解しました。では」
問答ののち、葉子は救急隊員の肩を借りて、自力で救急車まで歩いていった。白と赤に塗られた大型車。それに乗ることになろうとは、昨晩は思いもしなかった。
全員が車内に入ると、バックドアが閉められてまもなく救急車は発車した。
最初のうちは様々な応急処置を受ける夫を悲痛な気持ちで見つめていた彼女だったが、やがて疲れが一気に襲いかかってきて気絶してしまった。
場所と時は移る。
7月13日午前7時12分。神奈川県横浜市。
伊藤夫婦の子である高橋堅人は、スマートフォンから鳴らされるうるさい着信音で目を覚ました。何事かと思い電話に出ると、穏やかな女声が聞こえてくる。
「突然のお電話ですみません。高橋堅人様ですか?」
「ええ、そうですが。どうかしましたか」
「はい。こちら大阪府堺市の山内病院ですが、ご両親が熱中症により入院しています。お母様は軽症なのですが、お父様のほうが、少し……」
言いよどむ電話に、彼は不吉な予感を覚える。
「何なんですか?」
「現在も意識がない状態でして……」
「えっ!?」
思わずスマートフォンを落としそうになる堅人。
そこから彼は、父が重度の熱中症であることを告げられた。それが一段落すると「できるだけ早く行きます!」と言って、病院に行く手はずを急いで整えていく。
「いつごろご到着されますか?」
「遅くても正午には! 詳しくはまた連絡しますので」
「了解しました」
彼のただならぬ慌てぶりに起きた妻の由美は「親が倒れた、大阪まで行ってくるから、ゴメンだけど将司の世話をお願い」と一方的に言われ、返事もできないうちに夫に家を飛び出された。彼の子、将司は先月、運動会で骨折と熱中症とを併発し、先週に退院したばかりであった。
「きょうも、新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は――」
人もまばらな東海道新幹線の車輛の中で会社に有給申請をして、必死に病院への順路と熱中症についてできる限り調べる堅人。新大阪までの132分を、彼は戦々恐々の心で過ごした。
午前10時30分、新大阪駅到着。そこからJR京都線と阪和線とを経由し、すっかり空いた電車に揺られて病院の最寄り駅で下車。バスに乗り換えて最寄り停留所で降り、病院へ急ぐ。
「父さん!!」
受付で足止めを食らってさらに慌てた堅人は、スポーツ選手にも劣らぬ走りぶりで病床に伏す父親のもとへ駆けつけた。四十歳近いにもかかわらず人の子に戻った男の姿が、そこにはあった。
「来てくれたんやね、堅人」
返事をしたのは彼の母のほうであった。彼女は既に恢復しつつあり、意思疎通も容易であった。
しかしその真横のベッドに横たわる崇は、全く身じろぎしない。
「水を飲まんかったから……。あんまり大声出したらあかんで」
穏やかに諭す葉子だったが、慕ってきた父が意識不明である事実に、堅人は耐えられない。
「なあ、目ぇ覚ましてくれよ父さん! なあ、なあ!」
しかし、何度呼びかけても崇が目を開けることはなかった。
結局、葉子は当日中に退院できたが、崇は丸一日経っても起きなかった。翌日にようやく意識を取り戻した崇だったが、彼には高熱が長時間続いたために嚥下障害が残ってしまい、一ヶ月以上にわたってリハビリを行うこととなってしまった。
「父さん、なんでだよ……!」
堅人は15日には横浜に戻らざるを得ず、父の病状に悲嘆の声を上げることしかできなかった。
次回更新は3/19の予定です。