3. パンを買いに来た彼に告白する話
しょうじきな話。
恋をする予定なんて、これから数年先までなかったのだ。
◇
私、長船加奈は小さいころからわりと愛されて育ってきた。
一人っ子ということもあったのだろう。両親や祖父母、親戚からじゅうぶんすぎるほどの愛を一身にうけて育った私は、ちょっとしたお姫様のような扱いだった。
両親ともに美形で、そのDNAを継いだことも大きかったらしい。近所のママさんたちや保育園の先生たち、友だちからもかわいいねと言われたりして、それは小学校、中学校に行ってからも続いた。
ちやほやされて育った子供は、たいていイヤなやつに育つか、その逆のとてもやさしくおだやかな子に育つ──というのが一般論というか経験則というか、知りえた情報による私の見解である。
ところがどっこい。私の場合は、それらとはすこしちがっていた。
『カナちゃんってさ、ほんとにかわいいよね』
『性格もいいし、おじょうさまっていうか、天使みたい』
『わかる。なんでもゆるしてくれそうっていうか、怒ったりしなさそうだよね』
『あんな子と付き合ってみたいよな~』
『え、おまえ声かける? ならおれも着いて行こっと』
いくら小学生といえど、ずっと見ていればさすがに気づく。
近づいてくるヒトたちの視線。嫉妬と欲望と、期待の目……とでも言うのだろうか。
彼ら彼女らが見ているのは、かわいくてやさしい天使様みたいな私。そうであることを疑いもせず、当然という顔で私に笑いかけるのだ。
とっても迷惑な話である。
いくらほめそやされて育ったにせよ、私だってひとりの人間だ。怒ることだってあるし、嫌なことだってあるし、人並みに落ち込むことだってある。
けれどもそれは、私以外には関係のない話なわけで。
少なくとも、彼らの目に映る私はそういう対象でしかなく。結局のところ、性格なんてどうでもいいのだ。
「バカらし……」
なんて思いつつ、大勢の期待に逆らうのも面倒なので適当に話を合わせてきた。
かけられた声にはやさしい笑顔を向け、おだやかでていねいな態度を心がける。
劇のお姫様役を演じる私のすがたは、まわりの目にはさぞかし清楚で可憐な優等生のようにでもうつっているのだろう。
くだらない。
ほんっとーに、くだらない。
「すいません」
だから、職員室前の廊下でその男に呼び止められたときも。
まっさきに浮かんだ感想は“ああ、またか”なんてものだった。
がっかりしたきもちを心の奥底へと押し込んで、にこやかな表情をセットする。
振り向きざまに相手のすがたを確認し、ネクタイの色を見て“上級生だ”と冷静に分析する。
「これ落としました」
その先輩はハンカチのすみっこを指で持って私に差し出した。
手渡されたそれを両手で受け取り、私はいつもの笑顔を向ける。
みんなが大好きな私。だれにでも親切でていねいな優等生の私だ。
そんな自分を演じながら、この人の期待を裏切らないよう感謝の言葉を述べようとして──、
「あ──」
その目を見て、少しだけおどろいた。
いつも向けられているあの目。
私をかわいい女の子として扱う、あの欲望の視線。
それらとは全くちがう、あなたの眼に。
「それじゃ」
手短に告げてその人は去っていった。
なんでもないような言い方と、言葉と、その素振り。
私の気を引こうとかっこうをつけたがる男子とは違う、本気でどうでもいいことをしたと思ってる人のそれだ。
出逢う男すべてを魅了する……なんて、さすがに私も思ってはいないけれど。
めったにないその人の反応に、私は純粋なおどろきと、めずらしいものに対する興味と、なぜか少しだけ反感みたいな気持ちがわいた。
まあつまり。
それが始まりだったということは、決してうそじゃないのである。