なんだかほかほかしているね
もう冬だっていうのに。
九月になれば秋になった、なんて感じがするが、フタを開ければしっかり残暑がつづいている。
秋晴れといえば聞こえはいいが、照りつける日射しは爽やかなんてものじゃなく刺すような激しさだ。蒸しっとした湿気も健在。北の山頂にかかる入道雲がみえる。これのどこが秋なんだと大声で叫んでやりたい。
だがまあ、考えてみれば四季が十二ヵ月を四等分するなんて決まりがあるわけじゃないし。季節がわるいんじゃないし、人間が季節に文句をいったってどうにもならない。が、こう暑いとついなにかに当たってしまいたくなるのが人間というやつだ。
校舎横を周りながら、そんなことをおもった。
じき、400mトラックのスタート地点。ラインの手前で、横合いから
「つぎ、ラストー」の声がかかる。脳内で撃鉄が落ちる。一瞬、ためらったものの───“いいや、いっちゃえ”とばかりにグラウンドの土を蹴って、へばりついた汗を不快感ごと飛ばすようにおもいっきりスピードをあげる。
とうぜん、ペース配分が狂ってぐだぐだなゴールになった。
「───はぁ……」
なにをやっているんだか。
膝に手をつき、肩で息をしながら左腕を確認。時刻は現在7:40過ぎ。
始業式をひかえた今朝も、たっぷり体から水気を抜いて朝練を終えた。
「おつかれさま」
「おう」
かるく流してから、体育館横の日陰のスペースにもどる。
うちの高校の朝練は基本的に自主練形式。パートごとにだいたい決まったメニューみたいなのはあるが、距離やペースは個人の裁量で決めることができる。
戻ったときにはすでに一年生は引きあげていたらしく、スペースには俺一人ぶんの荷物だけが寂しそうに置かれていた。
ただ、もう一人。給水用ポットのとなりに制服姿の女子がちょこんと座っている。
「うわあ……すごい、バケツの水をかぶったみたいだ。なんだかほかほかしてるね」
「汗くさいから近づかないで、って正直に言っていいんだぞ」
「むう、わたしをなんだとおもってるのさ」
できるだけ手をのばしてコップを受け取ろうとすると、ひっこめられた。
顔をあげてみれば、不機嫌そうに細まった瞳がこちらをにらんでいる。
「そんなことおもってないし、朝からたくさんがんばってる人にそんな辛辣なこと言いません。近江くん、マイナス10ポイント」
「猛省します。慈悲をください」
「うむ、素直でよろしい。プラス5ポイント」
宙へ消えていった5ポイントにおもいを馳せながら、コップに口をつける。
「それにしても、今日はなんだかヘンだったね。ラストなんか、がんばるを通りこして鬼気せまるかんじだったよ」
「ほんとはもっと押さえて入るべきだったんだろうけどな……なんかこう、暑くてむしゃくしゃした」
「わあ、男の子だね」
……その感想は、はたしてただしいんだろうか。
首をかしげると、あちらもつられて首をかしげ、ほわっとした笑顔をうかべた。
なんとなくシマエナガを連想する。同年代の女子になにを当てはめてるんだろうって気がしないでもないが、それだけ疲れてるってことで許してほしい。
加東由夏。二年生、女子。陸上部マネージャー。
小柄な背丈、ふわりとしたショートの黒髪。笑い方がおとなしくて可愛らしい、素朴で落ち着いた印象の女の子。けっして地味と言いたいわけではなく、“おしゃれとか流行にイマイチついていけないんだよね” という彼女の言葉を代弁したものである。
それはそれで彼女本来の魅力───というとなんだか野菜の食べ方みたいになるが、ようするにそっちの方が合っているというか、なくてもじゅうぶん素敵というか。
性格に関してはいたって善良、かつ真面目。はたらき屋さんでよく笑う。
いい人すぎて心配になるのが玉にキズ。重たいものとか運んでいるとつい声をかけちゃいたくなる。
じっさいに早乙女や三田なんかが手を貸している場面に遭遇したことがあるので、きっと庇護欲みたいなものに苛まれているのは、俺だけじゃないんだとおもう。
「ん? どうしたの、そんないつくしむような目をして」
「……ああ、いや」
そんな目をしてたのか。どんな目をしてたんだろう。
二年生間のそんな共通認識なんて知る由もなく、無垢な表情をして彼女はこちらをのぞきこんでくる。
「ねえねえ、それにしても朝からこん、詰めすぎじゃない? 放課後だってあるんだしさ。ほどほどにしないと干からびたミミズみたいになっちゃうよ」
「ミミズにはならないよ、おれ……や、言いたいことはなんとなくわかるけど。朝は時間も少ないし、トータルの練習量としては夏休みとあんま変わんないよ」
なんてことないつもりで言ったセリフが彼女の導火線に火をつけたらしい。
ぴこ、とショックをうけたように頭を上下させ、目をまんまるにして食いついてきた。
「変わりますとも! なんたって今日は九月二日、始業式! 授業だってはじまるんだからね。すこしは体力を温存しておこうとかおもわんのかね」
「んー……すわってるだけで、べつに体うごかさなきゃいけないってわけでもないし」
「はぁ。そんなでどうやって成績キープしてるのか、あたしゃ知りたいですよ」
やれやれ、とばかりに首をふられた。ちょっと傷つく。
けれど、時間を消費するという点では彼女だって同じこと。朝練にはマネージャーは不参加でいいはずなのに、こうしてわざわざボランティアで来てくれている。それも今日にかぎった話でなく、去年からずっとこの調子だ。
サポートされる身としてはたいへんありがたいし助かってもいるが……もっと自分の時間を大切にしてくれていいのに、なんてお節介じみたきもちが湧いてしまう。
“こないでいいのに”だと来てほしくないように聞こえるし、
“ほかにやりたいことないの”はちょっと踏み込みすぎというか、余計なお世話だという気もする。
熟考の末、「そっちこそ、朝早くにきて眠くないのか」なんて無粋なセリフを口にするに至った。すると、
「ううん、わたしはだいじょう───あ。ふっふーん、こっちは見てるだけで、たくさん走んなきゃいけないわけじゃないからねっ! むしろ見てると元気もらえるし、早起きは三文の徳だし、つまりはうぃんうぃんってやつなんだぜ」
などと、勝ち誇ったように笑顔をみせた。
おまけに、右腕でちいさく力こぶもつくってみせてくる。
「ほんものの天使がいるわ」
「どうして泣きそうなの」
加東をみていると、たまに泣きそうな気もちになる。これは恋だろうか? いや、きっと尊いというやつだ。いままで身近にいなかったタイプの純粋性をもつ人間なため、いまだに接するときの感情の置き場が迷子になりかけたりする。幸せになってほしい。
仕返しのつもりだったのに、とあわあわしている加東。
溜まった疲れがきれいに消し飛んだような心地でそれを眺めていると、ふいに背後から声がした。
「あ。はじめくんが女子といちゃいちゃしている」
……ずいぶんと人聞きのわるいセリフだ。
ある人物に当たりをつけつつ、振りかえる。
予想したとおり、グラウンドを背景に早乙女早希、仁王立ち。
こちらは部活着、蛍光色の半袖シャツに半パン姿でのご登場だ。
運動する側というのもあって、マネージャーの加東に比べればさすがに日に焼けている。すらりと伸びた手足は小麦色。墨を磨ったような濃い黒髪は、夏前より少し伸びただろうか、輪郭にかかるくらいになっている。
涼やかな目元にすっと通った鼻筋。意識したことはなかったが、あらためて正面から見ると顔立ちは和風美人と呼ばれるそれに近いんだなあとおもう。王子さまだの何だのと、女子にさわがれているのも納得かもしれない。
「いまさら感はあるけど、ありがとう。5ポイントを進呈しよう」
「ああ、おまえがもってたんだ」
意外な流通経路が判明した。この際、読心にはもう触れないでおく。
一方、なにがご立腹なのか。エスパー少女は表情を険しくし、こちらにひとさし指をむけて言い放った。
「だが、それとこれとは話がべつだ。ユイはわたしのものだ、きみには渡さないぞ」
「ふざけやがって。加東はみんなの加東だろ。独占する気なんざねえよ」
「ねえ、わたしはわたしのものだよ? ふたりとも」
暴論をかざす早乙女、憤慨して言いかえす俺、やんわりとした口調で意見する加東、の三すくみができあがった。……ちょっと違うか。
ふたりぶんの反論も意に介さず、陸上部主将女子がのしのし近づいてくる。
彼女もちょうど練習を終えたところらしい。肩にかけた荷物をぶらぶらさせながら、うんざりといった様子で目を細めた。
「はぁ、暑い。暑いな。こう暑いと、おもわずはじめ君に蹴りを入れたくなる」
「女子高生。もう少し淑やかに生きろ……ん、てか三田は?」
「さとみか? 彼女なら先にもどったよ。フィールドはあんまり負荷かけられないからな、朝は」
短距離の連中もみんなもどったよ、とのこと。
つられて腕時計を確認する。たしかに、そろそろ戻らないと始業に間に合わなくなる頃あいだ。
「だって言うのに、あなたはなにをしているのですか?」
てくてくと脇をすり抜けていき、加東に近づくとその肩に無言で顔をうずめはじめた。背中に両うでをまわして。いわゆるハグである。
二人の身長差がいいかんじなせいか、なにかの模型みたいにぴったりフィットしている。急な接近に反応できず、捕獲された加東が「うぉー」と小声でうなっている。
「……断りづらいなら俺から言うぞ、汗くさいからやめろって」
「言いませんってば……うーん、ほかほかしてるな、とはおもうけども」
「ほれ、くさいって」
「はんっ、男の嫉妬は見苦しいぞ」
「気をつかってやれよ」
意思は固いらしい。がっちりホールドしたまま離れる気配が微塵もない。
女子ふたりの熱い抱擁。ともすれば、一定の層に需要がありそうな絵面のように聞こえるが、陸上部ではもうお決まりの光景だ。
なんの情もわかず、呆れ半分でツッコミを口にすると、「近江くんもだよ……」ともう半分の呆れを帯びて加東がつぶやいた。
「あんまり突っ込みたくなかったんだけど……おまえのその、疲れると手近な女子抱くの、なんなの」
「人聞きがわるいな。これでもひとは選んでいるつもりだよ」
なら良し、ってわけでもあるまい。
「うるさいうるさい。こうでもしないとやってられない瞬間ってのが人間にはあるんだ。それくらいきみだっ、て───すまない、いまのは差別的発言だったな、わすれてくれ」
「早乙女、俺も人間だよ?」
「さきちゃん、わたしは抱き枕じゃないよ」
「いやだ。疲れた。抱きしめさせろ」
「おまえ……今日すごいな」
ふたりがかりの説得にも応じず。経験上、こうなるともう彼女は手がつけられない。
そうして、場に男子の俺がいることなど歯牙にもかけず、諦めてストレッチなどしている傍らでしばらくの間もみくちゃとしていたが───ふいに、
「む……ユイ、もしかして育ったか?」
「ひょえっ!? な、なんのこと?」
「いや、だってまえより明らかにこう、サイズ感が───」
よし、帰ろう。
ついでに給水用のあれこれも持っていこう。人数も少ないのにいつも苦労ばかりかけてマネージャーさんには本当に頭があがらない。これくらいのことはして当然、というか義務の範疇だ。予鈴まで時間もないことだし、さっさと急ぐべし急ぐべし。
自分の荷物を肩にかけ、マネージャーさんの道具一式を両手にもって踵を返したところ、うしろで声がした。
「そこ、ハウス」
「聞き捨てならねえ」
おもわず足をとめてしまった。
振り向いたさき、合体しているTシャツ姿と夏服姿の女子高生。困り眉ながらもほんのりうれしそうな表情の加東と、その肩に乗っている早乙女ヘッドの図。
ふと、二頭犬なんて言葉がうかぶ。片割れと目があった。
「ユイは制服だ。部室に着替えにもどるのはわたしたちだけなんだから、その間の往復はだれがお供するんだ」
「……ほんと、だれがこの怪物を育んでしまったんだろうな」
引き取りたいという方がいればぜひ声をかけてほしい。
言い値で譲りわたすので、だれか面倒みてやってください。




