きみ、いまわたしを肉食獣にたとえようとしていなかった?
────呼吸音。
荒い息遣いは前を走る男のものだ。ぜえぜえ、ひゅーひゅー、と今にも死にそうな顔をしている。
そんなに苦しいならやめればいいのに、と思いかけて──やめた。特大のブーメランだと気づいたからである。よく『表情に出にくいタイプだ』などと言われたりするが、そう見えないだけで、いろいろとギリギリなことに変わりはない。
『ここで鐘がなりまして、先頭の集団がラスト400mを切りました!
この一周は72秒、先頭を走るのは三沢高校の橋本くん、その後ろぴったりくっつくようにして紀白南高校の中辻くん────』
景色がうしろに飛んでいく。灼熱のブルータータンに選手たちの足跡がつけられていく。
鉛みたいな脚、破裂寸前の肺、血液が沸騰しているのか筋肉が断裂しているのか、全身が怠くて熱くて痛い。
しょうじき、もうやめたい。ぜんぶ止めにしてラクになりたい。
そんな悲鳴を押し殺して顔をあげる。いまはとにかくまえへ。息を吸って、前方にあと何人いるか数えてみる。
同じ集団にひとり、ふたり、さんにん。少し前にひとり、そのさらに向こうに、
(───あれは、無理だな……)
距離にしてだいたい100m、およそ十数秒の差だ。
どれだけラストスパートをかけたって、ここからではもう間に合わないだろう。
(こっちも、わりとがんばってんだけど、なぁ)
なんだかなぁ、って気分だ。
それが視覚的に“離れている”ことを認識した途端、ずっと動きが鈍くなった。闘志の火が消えて、肺の痛みと心の弱さが重なって、鉛の脚がさらにおもくなる。
(まえを走ってるやつみんな、化け物みたいだ)
カランカランと真横で鐘が鳴らされ、周囲の圧がひとつ上がるのがわかった。集団からはまだ誰も飛びださない。ラストスパートに向けてじりじりとペースが上がっていく。
獲物をまえにしたハイエナみたいだ。牽制しあい、探りあい、一秒でも早くゴールをかっさらおうとする。いまはなんとか着いていけているが、ゴール前の競り合いまで保つかはわからない。
(一位争いじゃないってところが、またそれっぽい)
気力も体力も限界のなか、どうでもいいことを考えてしまう自分がなんだか可笑しい。
試合中にもかかわらず、おもわず苦笑しそうになって────、
『──!せ──、──いっ!!』
拙いながらも、必死に声を張りあげるだれかさんが見える。
背の高いジャージ姿に埋もれないよう、ぴょこぴょこと上下するあたま。他校の応援団の野太い声にかき消されそうになりながら、ぶんぶんとこぶしを振りあげている。
普段のイメージからすると少々不釣り合いだ。清楚な優等生からも、生意気なパン屋の店員さんからもかけ離れている。
(…………びっくりするくらい、似合ってないな)
体育会系の部活生に囲まれている姿とか、ガラにもなく大きな声をだして手すりから身を乗りだしている様子とか、いつもの余裕な態度はどこへやらの必死な表情とか。
……ほんとに似合わない。これも、返ってくる言葉だけど。
視線を前方に戻す。
もう一度息を吸って、内側の熱をあげた。
◇
さんざんに降りそそぐ陽光と、バケツの絵の具をぶちまけたような一面の水色。
うるさいくらいに響くセミの声に、負けじと張りあげられた歓声、声援。
バックスタンドの芝生とその向こうにそびえる雄大な緑。吹き降ろされた風が木々の匂いと湿気をまきこみ、ほんの少しだけ、会場にただよう蒸し暑さをまぎらわせている。
雲ひとつない、これ以上ないくらいの真夏の快晴である。
最寄りの駅から北へ約3km。街の喧騒と人ごみから離れたのどかな田園風景のなかにその競技場は立っている。
入り口のロータリーから階段をのぼって正面、ラ○ュタのロボット兵の親戚みたいな見た目をしたメインスタンドと、その内側、トラックのスタートから300m地点までをぐるりとかこむ芝生スタンド。
街の中心部を流れる河川を模したブルータータンのトラックはこの競技場の目玉だ。
メインスタンドからみて左側には巨大な電光掲示板が立っており、試合の結果や競技中の様子、スタンド席にすわる応援団や熱中症のお知らせなんかをせわしなくスクリーンに映しつづけている。
真夏の陽気に彩られた紀古川陸上競技場は、この日のために修練をかさねてきた高校生アスリートたちと、大会の応援につめかけた人々の熱気でさらに温度をあげているようだ。
夏の大会というのは誰しもを熱中させる不思議な魅力がある。
───とはいえ。
さきほどまでその暑さのなかを文字どおり走り周っていた俺にとっては、うんざりするものもあるわけだが。
「やあ、お疲れはじめ君」
「ん、おう」
ぐったりとした体をひきずり、競技場のとなりにあるサブ競技場にむかっていた俺は、頭上からかけられたねぎらいに足を止めた。
見上げると、スタンドの二階から高校の部活の女子が顔をだしている。
「さっきの試合、ベスト?」
「自己新記録だよ……いちおう」
「そうか、それは喜ばしいな」
小さく肩をすくめてみせると、そいつはこっちの心境を見透かしたようにくすりと笑って、ひょいと顔を引っこめた。
そのままスタンドに戻ったのかと思いきや、階段の手すりごしにこちらへ近づいてくるショートの黒髪が目にうつった。
……律儀なことに。ここまで下りてくるらしい。
彼女の名前は早乙女 早希。
我らが奥山北高校陸上部の短・中距離エースにして部長。ついでにいうと、四人しかいない二年生──同期のうちの一人だ。
見た目に関しては“かっこいい”の一言に尽きる。
“眉目秀麗”を絵にしたような端整な顔立ち。強くてしなやか、それでいてすらりとした手足。手入れは欠かさずとも健康的に焼けた肌は、彼女の陸上に対する努力と執念の証だろう。
あえて動物にたとえるならクロヒョウあたりか。美しい黒の毛並みと強靭な四肢、人々を惹きつけてやまないルックスが彼女にぴったりだとおもう。
「む。きみ、いまわたしを肉食獣にたとえようとしていなかった?」
「……良い意味なんで安心してくれ」
「それで安心できるほど私の乙女心は風化していないんだけどなぁ。まあはじめ君だし、ゆるしてあげるか」
早乙女はとくべつ気を悪くしたふうでもなく、むしろ上機嫌にそう言ってにこりと笑った。
見た目に反して性格は寛容。適度にユーモアがあり、おまけに身体能力もたかいとくれば……まあ、ご想像のとおり。男子より女子にモテるというのも、あながちウソではないらしい。
「で、なにしにきたんすか」
「もちろん労いに。ひとを見下しながら話す趣味はないし、気持ちを伝えるにはそれだけ近づく必要がある、というのが信条なんだ。ただでさえ言葉というものは意図したように伝わってくれないものだし」
なんてセリフとともに向けられる親愛のまなざし。うれしいような、こそばゆいような感覚になるのがふつうなんだろうが、いまは疲労がピークを突き破ってくれているおかげでしごくフラットにそれを受けとめられた。
「あらためてお疲れさま。こうしてみると……うん、ほんとにくたびれてるな。きみがそんな顔をみせるなんて、なんだかちょっと安心した。“疲れた”って機能、あったんだね」
「ねぎらってんのか冷やかしてんのか判断に困るセリフだな。この炎天下であの距離走らされたんだ、出場するヤツも開催する方も正気か疑いたくなるよな」
「えーと、自虐に見せかけた……自慢?」
「いや、本音。ほんとうに気をつけないと、ありゃいつかひとじにをだすとおもってるからな。まじで」
「なんだ、じゃあはじめ君は大丈夫じゃないか」
「……ねえ、いままで疑問だったんだけど、もしかして俺ロボットかなんかだとおもわれてる?」
入部当初からつづいていた彼女の雑な扱い───グラウンド清掃や荷物はこび等、主に肉体労働方面───に対する疑問に、ようやく回答が得られたかもしれない。
嫌われるようなことをした覚えもないのに、みょうに風当たりが強いのはなんでかなぁと常々おもっていたんだ。はは、こいつ。
「うーん、ロボットかゴリラかの二択なら、前者だろうな。はじめ君、スリムだし」
「なるほど、そもそもヒトって択が含まれてないのかぁ……」
「? どうしたんだい、そんなに悲しげに眉をくもらせて」
当の本人はこの不思議顔である。
とぼけているのか、素で言っているのか。どちらにせよタチが悪いことに変わりはないし、いまは甲乙をつける気力もない。
「…………ロボット、かっこいいもんな。誉め言葉として受けとっておく」
「む、あからさまに本音を押し殺されると、それはそれで気色が悪いんだけど」
「そんだけ疲れてるってこと」
ひょいひょい、とあしらうように手をふって、諦観と恭順をアピール……するにしてはあまりお行儀が良いとはいえないが、もう気にしない。
一方で、邪見にされても気に障るどころか、じっとこちらの顔をのぞきこみ、早乙女はなにかを考えているようす。
あらためておもうが、そうやって真剣な表情をしている彼女はドラマにでてくる女優さながらだ。出で立ちも、まとう雰囲気も、ただの女子高生と呼ぶには些か言葉が足りなすぎる。
それは彼女が県内でもトップの実力をもつアスリートであることや、魅力的なルックスをもつこととは、たぶん関係ない。早乙女早希という人間の人格、中身がなせるものなんだろう。達観した姿勢、そなえた礼節と人徳、陸上競技にかける努力と執念───そういったものを身近でまざまざと見せつけられ、“あぁ、こいつには敵わない”などと思い知らされたのもいまは昔。一年という歳月を経て、彼女という人となりに多少は慣れてきたとはいえ、こう間近で直視されるとやっぱり緊張してしまう。
「───うん」
思考に決着がついたらしい。
きもち、背筋を伸ばした俺に、早乙女は真剣な面持ちでこう告げた。
「つまり、倒すなら今しかないって、こと?」
「……労わってくれってことだな、どっちかというと」
「ひゅひゅっ、ひゅひゅっ、ついてこれるかな、私の速度に──っ」
「…………たのしそうでいいな、おまえ」
ぽすぽすぽすぽす、と胸のあたりに連続ジャブがささる。
冷たい目を向けると無邪気そうな笑みがかえってきた。……なんというか、いろいろ台無しである。ギブです、だれかこの子を引き取ってください。
「……部長、素がでてる。人前では“部の長として尊敬される姿、威厳ある姿をみせる”なんて言ってなかったか。ここ、たくさん人が出入りする正面入り口なんだけど」
「む。私はいま、はじめ君とはなしてるんだ。気の置けない友人とコミュニケーションをとるのにどうして飾ったり気を使ったりする必要があるだろうか? いや、ないな。微塵も」
「みじんはあれよ」
「そもそもだ、そんなだらしのない姿を見せているのだとしたら、それはだらしない姿にさせているきみの責任でもある。わぁるい男だなぁはじめ君は」
「どないせえゆうねん」
ちょっとイラっとした。おもわず口調が関西っぽくなった。人間、追いつめられると変な方向に目覚めるらしい。
反応が面白かったのかクスクスと笑いはじめる早乙女。普段は大人びていてクールな少女のくせに、気を許した相手のまえではぐっと精神年齢をさげてくる。それもだれかさんとはちがってこっちが素らしく、無意識とのこと。いったいどれだけ装甲を積んでるのか。……ほんと、心臓にわるい。
「勝手の知らない後輩じゃあるまいし、レース終わりに待ち伏せなんて殊勝にすぎるとおもってたんだ。うすうす勘づいちゃいたけど、弱った俺をみて楽しもうってのが本音だろ」
「ふふっ……ごめんごめん、きみのめずらしい姿にテンションがあがっていたというのは確かにあるかもね。けれど、いい走りだったというのも本当だよ?」
目尻をぬぐいながらこちらに向き直る。
「ラストの上がりでいえば過去一だったんじゃないか? 中盤にかけてのレース運びも落ち着いていてよく周りが見えていたし、ちゃんと結果もでている。私からすれば、どうしてそう暗い表情ばかりなのか不思議におもっているんだけど」
「……」
早乙女がだれか……とくに俺のことを手放しに褒めるなんて非常に稀だ。それだけの走りに映ったということか。絶賛しつつ、瞳に浮かんでいるのは純粋な疑問。小首をかしげた彼女からおもわず目を背けてしまう。
思い当たる節は……なんとなく、ある。というか明白。これ以上ないくらいに明瞭で簡潔なやつが、ひとつ。
ただそれを受け入れるとなるとこちらもプライドがあるというか普段あんな態度をとっておいてとか競技に対する姿勢として正しくないんじゃないかとかそもそもだれに話すことでもないかなとか───要約すると、認めたくないし、言いたくない。
「その反応は、なにかあるんだね?」
「…………」
まあ、それで済ましてくれるような相手ではないわけだが。
追ってくる視線を必死になって躱しつづけていると───彼女にしては意外なことに、あっさり退いてくれた。
「はぁ、しょうがない。またひとつ解くべき問題が積まれたみたいだ。取り調べにはさとみとユイにも立ち会ってもらうとして───よし、立ち話もあれだしそろそろ戻ろうか。もうみんなスタンドに集まっているから」
「ああいや、俺はこれからダウンに行ってくる」
そう告げると、階段へ向かいかけていた足がぴたりと止まる。
「……それは、逃げるための言い訳、とかではなく?」
「試合後のミーティングが長引いたんだよ。ちょうどトラックレースはこの時間空いてるし、いまなら行っても大丈夫かなって」
「ずいぶんのんびりさんだな。急げよ、フィールドで13時からユリ先輩の幅跳びだぞ」
「あの人なら決勝は確実だろ? それまでには間に合うとおもうけど」
「その口ぶりだと、予選は見ないというふうに聞こえるけど?」
まあ仕方ないかなって、とうなずくと、早乙女は非難するように目を細めた。
「この恩知らず」
「いや、できるだけ急ぐつもりだけど、クールダウンも大事だし。高瀬も加藤もいるってことはけっこう人数のこってるんだろ。ぶっちゃけ、一人いなくてもそんなに変わらないかな、と」
「あのねぇ。きみ、先輩たちからどういう風にみられてるか、気づいていないの?」
「……期待の長距離メンバーとか、まじめな部員とか?」
「───謙虚は美徳というけど、過ぎるとそれも罪だよね」
呆れがちな声音と冷たい視線がつき刺さる。
彼女のいう“他人前では見せないお茶目な一面”とやらの相手もなかなか疲れるが、こっちの冷ややかな態度もこれはこれで応える。
くわえてこちらは酷暑を走り切った身。疲労で弱っていたメンタルにぐさぐさと刃物が突き立つ音がした。
「わかった、とにかくさっさと行ってきたまえ。まあ遅れたらどうなるか──わかってるよね」
「……りょうかい。善処する」
「遅かったら迎えに行くからな」
「必ず間に合わせます」
直ちに回れ右。ぼろぼろの身体に喝をいれる。
そうして足早にその場を去る俺の耳に、早乙女のため息が聞こえたような気がした。
◇
競技場のとなりにあるサブ競技場は、一周300mの小ぶりなトラックだ。
こちらはノーマルの赤いタータン───土のグラウンドとは違い、水はけがよく濡れてもすべりにくいゴム製の舗装材が敷き詰められている。
専門的な用語でいうと“全天候型”とも呼ばれている。雪と雷には対応していないところが悔やまれる。
試合のある日は、主に大会に出場する選手たちが試合前のウォーミングアップや試合後のクールダウンに使用する。
土やコンクリートの床で走るのと、ゴム製のタータントラックでは、踏み込み具合や反発がまるっきり違う。トラックレースはコンマ1秒を争う世界。足を慣らすという意味でも、タータンをつかった準備は欠かせない。
いわば野球のピッチャーでいうところのブルペン、バッターでいうところのバッティングセンターみたいなものだ。ちがうか。
トラックのレースが再開されるのはお昼をはさんで午後から。今の時間帯、まだ午後のレースのアップに来ている者は少ない。
ゆったりとしたペースでトラックの内側を3周。芝生のうえにあおむけに寝ころび、ストレッチをしながら疲れて固まった筋肉をメンテナンスしていく。
「すぅー……いででで」
快晴、見わたすかぎりの青一色。
走っている最中は全身の血と筋肉と骨と関節その他もろもろが“ねえ、これもうやめません?”と、死に物狂いに訴えかけてくるくせに、走り終わった後の気持ちはくっきりはっきり晴れやかだ。
いまは全身の気怠さでさえ気持ちがいい。レース後の疲労感というのはある種とくべつな感覚に分類されるのだろう。こういう晴れきった日は、とくに。
「ほんっと、我ながら変態だよなぁ」
苦笑をひとつ。抱きかかえていた膝をはなし、体を起こす。
トラックの外にあるベンチに座って靴ひもを結び直していると、スタンドの方からトランペットの音色とともにざあっと歓声がとどいた。
跳躍や投擲といったフィールド種目はトラックレースより早くはじまる。たしか、走り幅跳びの少しまえに、やり投げが開始する予定のはずだ。
いそぐか、とひろげた荷物を袋に放りこんでいると、ふっと足元に影が差した。
小柄で、ジャージにしては少し飾りのあるシルエットである。影の主は俺の真横で停止したままうごく気配がない。気のせいでありますように、と念じながらおそるおそる顔をあげる。
予想したとおりというかそんな予感がしたというか、見慣れた顔がこちらをじっと見つめていた。