プロローグ
「こちらにおいで」
そう言われ、ベッドに横たわる母の元へ歩み寄った。
母は半身を起こし、わたしを優しく抱きしめる。
「私はもうすぐお父さんのところへ行ってしまうから――あなたにこれを託します。デイビッドソン家を、私たちが築きあげたものをせめて……」
「そんなこと言わないでお母様! きっと、きっとすぐ治るから! きっと、すぐに……」
涙で視界が滲んだ。
本当なら、おもいきり泣きたかった。声を上げて泣き喚きたかった。
でも、それは許されない。床に伏せた母を困らせたくなかったし、何より――デイビッドソン家の一人娘として、しっかりしなければならないと思っていた。
母の手をそっと振りほどき、わたしは笑顔を作って言う。
「安心してお母様。わたしがなんとかするから」
***
懐かしい夢を見た。
あれは、何年前のことだっただろう。
少し前まで、わたしは夢を見ることを忌々しく思っていた。
あのころの記憶など、思い出したくもなかった。
けれど今では、胸に湧くのは追慕の念だ。
過去は変えられないが、父と母の愛情は確かにあった。
ずっと忘れていたその温かさを、彼女が思い出させてくれた。
彼女のピアノの旋律は、夢すら見なくなっていたわたしに再び夢を与え、長く埋もれていた記憶を、そっと呼び起こしてくれた。
そんな彼女に、お礼をしたいと思っていた。
わたしにできる、せめてものお礼を。
『さて、今日も行きますか』
自分自身を奮い立たせるように呟き、歩き慣れた道をたどる。
敷地に入り、大きな建物の端にある扉をそっと押し開けた。
扉がギィ、と不気味な音を立て、思わず肩が跳ねる。
『おじゃましまーす』
誰に聞かせるわけでもないが、そう言って中に入った。
授業が終わってしばらく経つせいか、廊下はひどく静かで、音を忘れてしまったかのようだ。
誰もいないのはむしろ都合がいい。
入ってすぐ左手の階段を三階まで上り、ひたすら真っ直ぐ進む。
やがて、遠くからピアノの音が聞こえた。
(もうすぐだ)
そう思った瞬間――廊下の先に、丸く黒い塊が見えた。
(またあいつだ……)
スピードを落とし、音を立てないようゆっくり近づく。
その途端、黒い塊はむくりと起き上がり、白い目でこちらを見た。
四本の足で立ち上がると、臨戦態勢だ。
『もー! なんで毎回邪魔するの!』
目的地は、もう目と鼻の先。
これでは進みたいのに、進めない。
黒猫は尻尾をピンと立てて「フーッ!」と鋭く威嚇してくる。
いつも、そうだった。
あの子がいる場所へ行こうとするたびに、決まってこの黒猫が立ちはだかる。
『ただちょっと、お願いしに来ただけなんだってば! 別に取って食べようってわけじゃないんだから。ねっ、通して』
言葉が通じたら、どれだけ楽だろうか。
黒猫は「ウーッ」と唸り、さらに警戒を強めた。
『……もう、わかった、わかったってば。今日は帰るから、そんなに怒らないでよ』
そう言いながらジリジリと後退る。
十分な距離が取れたところで、くるりと踵を返した。
背中越しに聞こえるピアノの旋律。
その音は次第に遠のいていく。
これで何度目だろうか。
またしても、接触ならず。
(次こそは——次こそは絶対に直接会って、お願いするんだから!)
悔しさに拳をぎゅっと握り締め、心の中でそう強く誓う。
そして、夕暮れの光が差し込む廊下を歩きながら、彼女の姿はキラキラと霧のように淡く散り、やがてその場から消えていった。




