表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/25

プロローグ

「こちらにおいで」

 そう言われ、ベッドに横たわる母の元へ歩み寄った。

 母は半身を起こし、わたしを優しく抱きしめる。

「私はもうすぐお父さんのところへ行ってしまうから――あなたにこれを託します。デイビッドソン家を、私たちが築きあげたものをせめて……」

「そんなこと言わないでお母様! きっと、きっとすぐ治るから! きっと、すぐに……」

 涙で視界が滲んだ。

 本当なら、おもいきり泣きたかった。声を上げて泣き喚きたかった。

 でも、それは許されない。床に伏せた母を困らせたくなかったし、何より――デイビッドソン家の一人娘として、しっかりしなければならないと思っていた。

 母の手をそっと振りほどき、わたしは笑顔を作って言う。

「安心してお母様。わたしがなんとかするから」


***


 懐かしい夢を見た。

 あれは、何年前のことだっただろう。

 少し前まで、わたしは夢を見ることを忌々しく思っていた。

 あのころの記憶など、思い出したくもなかった。

 けれど今では、胸に湧くのは追慕の念だ。

 過去は変えられないが、父と母の愛情は確かにあった。

 ずっと忘れていたその温かさを、彼女が思い出させてくれた。

 彼女のピアノの旋律は、夢すら見なくなっていたわたしに再び夢を与え、長く埋もれていた記憶を、そっと呼び起こしてくれた。

 そんな彼女に、お礼をしたいと思っていた。

 わたしにできる、せめてものお礼を。


『さて、今日も行きますか』


 自分自身を奮い立たせるように呟き、歩き慣れた道をたどる。

 敷地に入り、大きな建物の端にある扉をそっと押し開けた。

 扉がギィ、と不気味な音を立て、思わず肩が跳ねる。


『おじゃましまーす』


 誰に聞かせるわけでもないが、そう言って中に入った。

 授業が終わってしばらく経つせいか、廊下はひどく静かで、音を忘れてしまったかのようだ。

 誰もいないのはむしろ都合がいい。

 入ってすぐ左手の階段を三階まで上り、ひたすら真っ直ぐ進む。

 やがて、遠くからピアノの音が聞こえた。


(もうすぐだ)


 そう思った瞬間――廊下の先に、丸く黒い塊が見えた。


(またあいつだ……)


 スピードを落とし、音を立てないようゆっくり近づく。

 その途端、黒い塊はむくりと起き上がり、白い目でこちらを見た。

 四本の足で立ち上がると、臨戦態勢だ。


『もー! なんで毎回邪魔するの!』


 目的地は、もう目と鼻の先。

 これでは進みたいのに、進めない。

 黒猫は尻尾をピンと立てて「フーッ!」と鋭く威嚇してくる。

 いつも、そうだった。

 あの子がいる場所へ行こうとするたびに、決まってこの黒猫が立ちはだかる。


『ただちょっと、お願いしに来ただけなんだってば! 別に取って食べようってわけじゃないんだから。ねっ、通して』


 言葉が通じたら、どれだけ楽だろうか。

 黒猫は「ウーッ」と唸り、さらに警戒を強めた。


『……もう、わかった、わかったってば。今日は帰るから、そんなに怒らないでよ』


 そう言いながらジリジリと後退る。

 十分な距離が取れたところで、くるりと踵を返した。

 背中越しに聞こえるピアノの旋律。

 その音は次第に遠のいていく。

 これで何度目だろうか。

 またしても、接触ならず。


(次こそは——次こそは絶対に直接会って、お願いするんだから!)


 悔しさに拳をぎゅっと握り締め、心の中でそう強く誓う。

 そして、夕暮れの光が差し込む廊下を歩きながら、彼女の姿はキラキラと霧のように淡く散り、やがてその場から消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ