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コザはん  作者: 磯貝 空
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序章




  呼ばれた気がしたので振り返る。瞬きひとつせず、周囲の人間からは死んだ魚の目との評価を受けるその目を、声が聞こえたような気がする方へ向けた。


  ────いないな。


  彼はほっと息を吐くと、再び歩き始める。いない・・・それもそのはずだ。ここは、彼が一人で暮らしている家。人間は、彼以外に人っ子一人居ないのだから。もちろん、人を招いている訳でもない。この家には、今、彼以外の人間が存在するはずがなかった。


  それから9時間後。


  夕暮れの町、小さな喫茶店の中に彼の姿があった。彼にとっては馴染みの喫茶店だ。だが店内に入る時、いつもは決して感じない異質さを肌で感じた。そしてそれは、店に入ったあとも引き続く。なんとも、言葉に言い表せない不快感。気持ち悪さ。確かにそこは、ここは、いつもお世話になっている喫茶店なのだが、どうも普段と空気感が違って気味が悪い。結局その日は、何も注文しないまま店を後にした。


  それから1時間後。


  彼は近所のグラウンドで運動をしていた。小さな公園に併設された少年野球用のグラウンドだ。彼はいつも、ほぼほぼ毎日、そこで1時間ほど運動をしていた。今日は、そのグラウンドの右翼、ライト側で軽くバットを振っていた。何事もなく、いつも通りの1時間が過ぎた。


  家に帰り、シャワーを浴びる。シャワーヘッドから流れる水が、水からお湯へ変わるまでの僅かな間、作業的にスクワットをこなす。18歳の頃から続けて、これで2年目。一度に30回ほどだが、毎日欠かさず続けてきた小さな努力が、彼の逞しい大腿に宿っている。そんなこんなで、20分ほどの少々長いシャワー後。きれいさっぱりとした彼は、ジャージの半ズボンとトレーナー姿で自室に戻った。


  1時間後。


  彼は、自身が通う専門学校の課題を済ませ、次いで夕食の準備に取り掛かっていた。手を洗うとリビングの方から、水の音に反応したコザクラインコの声がいくつか聞こえてくる。リビングの机には、抹茶色をした大きめの鳥かごがひとつ置いてあった。上に被せられたタオルケットの隙間から顔を覗かせる、黄色いおでこに青い体の可愛らしいコザクラインコが、籠の側面に・・・セミのように張り付きながら、そのくりくりとした瞳を彼へ向けている。可愛い。と、気を取られているうちに、足元にはよぼよぼとした白いチワワがやってきていた。物憂さげに主人を見上げる老チワワ。彼は少々驚いた表情を見せたあと、にやりと笑い、その頭を少し撫でてやった。すると老チワワは満足したのか、ゆったりとした足取りでリビングに置いてある小屋へ帰って行った。顔を上げると、コザクラインコがこちらを見つめている。とても、寂しそうな様子で。少し撫でてやりたかったが、ここで相手をしに行ってはキリが無くなるので・・・と、彼は苦渋を飲んで自制すると、夕食作りへと気を取り直した。


  1時間後。


  彼は家の表で、丸椅子に腰かけ、水で薄めて飲むタイプのジュースを頂きつつ、星空を眺めていた。味は、彼好みのパイナップル。星空の様子は、そこそこ大きな道が近くに通っているだけあって、町灯りによって白んでいる。それでも、僅かに見える強い輝きを放つ星を、夏の生暖かな夜風に吹かれて眺めるのは気分の良いものだった。外飼いの白犬が、舌を垂らして、そんな彼を眺めている。とても、自分のことを見て欲しそうな様子をしていたが、そのまま主人・・・彼は、白犬へ目を向けることなく家の中へ帰ってしまった。その場には、飲みかけのジュースが置きっぱなしになっている。白犬は、首を傾げつつ、それをじっと見つめていた。


  1時間後。・・・2時間後。3時間。


  彼は、自身のパソコンに、件名なしのメールが届いているのに気付いた。普段なら無視してしまうのだが、その日はなんの気まぐれか、ぽちりと開いてしまった。だが、何も書かれていない。両眉を上げた彼は、椅子の背にもたれかかった後、パソコンを閉じ、布団を敷いて、ふと目に入った画材を整頓した後。


  布団を被った途端ぐっすりと、まるで産まれたてのひよこのごとく、瞬く間に眠りについた。・・・すっと、彼の視界は暗転した。


  ーーー5時間後。


  彼は目を覚ますと、真っ白な空間にいた。


  しばらくそのままの状態で、少し肌寒いと感じる中、仰向けに寝転び続ける。

  次いで、どこからか音が響いた。遅れて足音が聞こえ始め、それは淡々と、小刻みで規則正しい音色を立てながら、彼へと近づいてゆく。


  そして、彼の頭上で、ピタリと止んだ足音。


  「────おはようございます。最終点検が終了致しましたので、このまま本テストへと移らせて頂きます」


  女性にしては、低めの声。彼の視界に入った顔は、端正な顔立ちの女性だった。照明の手前に立っているため、顔には影が差している。それでも分かる、凛と整った顔から彼は目を逸らすと、小さく頷いた。


  「・・・そうだ、結局のところ、視力は上げられるんですか?」


  彼の問いに、女性は少し間を開けてから、目を細めて答える。


  「向こう側で目覚めてからのお楽しみ、ということではいけませんか?」


  「・・・・・・。じゃあ、期待しておきます」


  にやりと笑い、彼は続けた。


  「家族の面倒、お願いします」


  「はい。施設が・・・いえ、私が、責任をもってお世話させて頂きます」


  「ありがとう、ございます」


  「はい」


  女性の返答に安心した彼は、不思議と落ち着いている自分に驚きつつ、最後の深呼吸を行う。そして、瞼を下ろした。


  ・・・1分。


  瞼の裏、部屋が暗くなったのを感じる。その後、あの足音がすぐ近くで始まり、彼から遠ざかり、最後。


  「行ってらっしゃいませ、愛敬さま」


  並々ならぬ決意と、力の籠った声を最後に、視界は再び暗転した。

  代わって、見えない背後。開かずの扉が開いたかの如く凄まじい開放感の元、新たな世界、新たな人生、新たな自分の到来を告げる壮大で明瞭な夢が、彼の身を包み始めた。


  暫時、彼は踊る心に身を任せ、笑顔になる。


  この小さな魂の決断を後押ししてくれるような、心躍るBGMが頭に響いたからだ。


 


  振り返ると、背の高い少女の姿があった。


  そして彼は、首を傾げつつ口を開く。

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