雨の日に。
大地から溢れる霊気には流れがあって、強い力は良くも悪くも周囲に影響を与える。
場の浄化や動植物の繁栄など、良い影響を与えれば神域、霊気の滞りにより、穢れや病を招き寄せ、邪鬼や怨霊を産むようなところは魔境と呼ばれる。
神域の霊気は年中安定している反面、魔境は夏場に活性化する。
冬場は封印され、邪霊が発生することもないが、暖かくなるほどに湧き出す魑魅魍魎によって、何段階に分けて封印は壊され、放って置けば結界を侵食し、周囲に影響を及ぼす。
故に湧き出た魔物を討伐するのも、自分達神社に属する者の努めだ。
今年も夏の間は連日働き詰めで、本殿や境内の中が大分荒れてしまったが、幸いにして山場を乗り越えた。今は結界の補修、魔境の再封印に向けて、担当先の神社、三峰と不二などが動いてくれている。
まだ邪鬼は残っているので、古参の獅子、ニ前と陸奥、当社筆頭霊獣の五十嵐が現場に出かけているが、残りの獅子達は久方ぶりの安息を楽しんでいる。討伐について行けないのでずっと留守番していた子獅子たちも、ここぞとばかりに兄獅子に甘え、べったり張り付いていてご機嫌だ。
今日は朝から霧雨が振り始めたので、表で遊ぶこともせず本殿の中で転がったり、取っ組み合いをして怒られたり、各自ゴロゴロと寛ぐ中、子獅子の逸信が兄の護矢に頭を擦り付け、構ってくれとねだっている。
『兄ちゃん、本、読んで。ねえ、兄ちゃん、本読んでよ。』
『しょうがないなあ、逸信は。本なら自分で読めるだろ。』
『兄ちゃんに読んで貰うのが良いんだよ。ねえ、読んでよ。』
『仕方がないなあ。』
文句を言ってはいるが、強請られるのが満更でもないらしい。護矢はゆらゆら尻尾を揺らしながら立ち上がると、逸信と共に本棚に向かっていった。護矢は獅子達の中でも本を読むのが上手い。只の朗読ではなく、感情たっぷりに読み上げるので、子獅子達の人気者だ。
読んでくれそうと踏んで、他の子獅子たちも周りから集まってくる。
『それで、どれが良いんだ?』
『武将のがいい。武将の。』
『逸信は、戦記物が好きだなあ。』
『ミイチはそれ、好きくない。ちがうのがいい。』
『ムイも、図鑑がいい。』
共同本棚を覗きながら、みゃうみゃう騒ぐ彼等を眺め、湊が背中にへばりつく天祥を鼻で突付く。
『ほら、天祥も読んでもらってくれば。』
『やだー テンちゃん、ミナト兄ちゃんがいい。兄ちゃん、遊んで。遊んでよ。』
『さっきから遊んでやってるじゃん。
じゃあ、豊一だけでも行っておいでよ。』
『嫌だ。ボク、本嫌い。遊ぶのがいい。』
自分の尻尾にじゃれ付いて齧る弟をあやしながら、湊は床に頭を伏せた。天祥だけならまだしも、今日は豊一にもくっつかれて、閉口しているらしい。
ちっとも休憩にならないと、不貞腐れる湊を面白がって翔士が見ているが、助けてやるつもりはないようだ。
そうこうしている間に、八幡と陸晶が縺れ合いながら転がってきた。
組み合ったり、離れたりとバタバタ暴れるのに仁護が怒る。
『うるさいなあ。ニノ兄がいないと思って、本殿の中で暴れるなよ。』
『だって、外、雨振ってるんだもん! 退屈だよ!』
『じゃあ、ジン兄。何か、お話してよ。狩場の話。』
文句を言われた八幡はギャウと言い返し、また走り出したが、陸晶はそのまま仁護に近寄って頭をこすり付けた。
『お話なら、護矢が読んでくれるって。今、本を選んでいるから、一緒に行ってこい。』
『えー でも、神社に有る本、もう、飽きちゃった。』
『俺だって、特別珍しい話は出来ないぞ。ほら、行ってこい。』
ミャーウミャウと甘えて来る弟を追いやった青い獅子は、そのまま何かに気がついたように背筋を伸ばした。あわせて他の獅子たちにも緊張が走り、参道の方角を見る。
尋常ならない様子に自分も神域に流れる霊気をたどってみた。何かが参道に入ったようだ。
どうせ、誰も来ないと門番を立てず、揃って本殿へ引きこもってしまっていたが、不味かっただろうか。
しかし、訪問者から敵意は感じず、水に溶け込むようなこの感覚には覚えがあった。
直ぐに仁護はブルブルと鬣を振るって警戒を解き、他の獅子達も落ち着きを取り戻す。霊気の流れをまだ読み解けない子獅子たちだけが、不思議そうに首を傾げている。
分かっていない弟たちを眺め、八幡が偉そうに尻尾を振り回し、知った顔でびゃうと吠える。
『お客様だ! きっと、小日向の兄ちゃんだよ!』
小日向殿は此処より35km先の都、水都に務める龍族の一人。関東近郊を治める竜堂家の側仕である彼の訪問とあれば、のんびり待ち受けるわけにも行くまい。気がついたからには出迎えねばと拝殿を通って、外に出る。
逸信と護矢が付いてきた。小さい巳壱と燦馳も一緒に来ようとしたが、濡れて具合を悪くしてもつまらないので、待っているように言いつける。
靴を履いて傘を広げ、参道に向かえば、見知った人型を取った龍族の青年が石段を登ってくるのが目に映った。傘を差す代わりに魔法で撥ね退けているのか、ぼんやりと青白い光に包まれている。
目が合うと艶やかに微笑まれた。真っ直ぐに整えられた前髪が僅かに揺れる。
「態々お出迎え、ありがとうございます。」
「今日は、如何されました。」
何時も仕える龍族の王子の随伴として当社を訪れる彼が、今日は何故か単身であった。
何か悪いことでもと不安が顔に出たであろうか。小日向殿は安心させるように微笑んだ。
「本日は、竜堂家の使いとして参りました。
勇様は是非自分がと申し出られたのですが、一つの神社に肩入れしていると見られてはいけませんので、私が代理に立たせていただきました。」
水都を治める龍族、竜堂家の勇様は自ら各社へ巡回に赴き、現場を重視した統治を行うことで有名だ。当社にも時々、最近は別の目的ついでによく顔を出されるが、特に肩入れしている等と言われる事実はない。
要領を得ず首を傾げれば、小日向殿は背筋を伸ばし、誇らしげに来訪の意図を告げた。
「山口殿。御前試合の招待状をお持ち致しました。
当期討伐優秀者として、是非、御社にもご参戦いただきたく。」
一瞬、場違いにも気が抜けたようなものを感じ、ああ、ついにきたかと思った。
昨年まで、当社の討伐成績は悪くはないが、特別良いとも言い難かった。
勿論、守護範囲に邪鬼を踏み入れさせたことはないし、邪霊を打ち漏らして他所へ逃がすなど、事件事故も起こしていない。
だがしかし、神社として最低限の仕事をこなしているに過ぎないとも言えた。
魔境の瘴気は不思議なもので、どれだけ祓っても完全になくなることはなく、邪鬼も無限に思えるほど湧き出すが、一箇所で多く討伐に成功すると他の魔境の瘴気も薄くなる。つまり、祓えば祓うほど全体で楽になる。
故に只、神域を護るだけでなく、可能であれば魔境に攻め込み、より多くの邪鬼怨霊を討伐することが望ましいものの、当社はそこまで至ること無く、前線維持が手一杯であった。
しかし、今年は結構、いや相当頑張ったのだ。
何度か狩場となっている結界域を超えて魔境の奥まで攻め込み、大物を退治したりもした。
逆にやられて全速撤退も多々有ったが、そこは言うまい。今後の課題だ。
もうちょっと霊獣の数が多ければ。後、補佐の神職が他にもいれば。
いや、そこも言うまい、後だ後。
詳しいことはおいておくが、水都では瘴気の増減を全国的に把握していて、封印完了後、成績優秀であった神社を集め、御前試合と称して霊獣同士の模擬戦を行う。
各神社が所属する霊獣の特技を活かし、鎬を削る模擬戦は秋のメインイベントの一つと行って過言ではない。
御前試合に呼ばれるのは栄誉であり、もしかしたら今年はと期待していたのだが、望みが叶ったようだ。
「もう、集計結果が出たんですか?」
「ええ。過負盆地も後、数日で封印が完了するでしょうし、他に残っているのはごく僅かです。
これ以上は揺るがないと。」
東側で2位の成績だとにこやかに笑う小日向殿を前に、自然と浮かれて声も上ずってしまう。
落ち着かなければと両手を何度も握りしめるのを、護矢が興奮気味にチョンチョンとつついた。
『じいちゃん、何にしても、ここじゃなんだから!』
「ああ、そうだった。」
公式な神社への訪問となるので社務所ではなく、本殿へ案内せねば。浮足立ったまま、奥へと勧める。
「すみません。雨も振っておりますし、向こうで詳しいお話を。」
「いえ、私こそ無作法を致しました。
神使殿方が常に奮闘している姿を見ているものですから、つい。」
ここで話すことではなかったと小日向殿は苦笑し、そのまま嬉しそうに破顔した。
「でも、本当に良かったです。山口殿、おめでとうございます。」
どれだけ若くみえても小日向殿は龍で、人よりずっと長い時を生きている。
だが、20歳を少し超えた程度の外見に相応しい、少し子供っぽさを残した笑顔を浮かべ、素直に喜んでくれる姿に、頑張ってよかったと心から思う。
「生憎、陸奥や二前は留守にしてるんですが、聞いたら飛び上がって喜ぶでしょう。
さあ、本殿へどうぞ。」
「はい、お邪魔させていただきます。」
雨の憂鬱さを吹き飛ばす出来事に、小躍りしたい気分で本殿へ戻る。護矢と逸信は文字通り、境内を跳ね回り始めた。
『やった! やったぞ! 御前試合だ!』
『兄ちゃん、御前試合って凄いんだよね?!』
『そうだよ! 皆、喜ぶぞ!』
『よかったねえ!』
水たまりがないから良いものの、霧雨の中を跳ね回る獅子達に少し注意する。
「護矢、濡れるから。それより先に行って皆に準備するよう伝えてくれ。」
『分かった!』
「特に天祥に気をつけろよ。彼奴、無駄に騒ぐから。」
『了解、了解!』
ひゃっほうと本殿に駆け込んでいく護矢のあとを、逸信が負けずに追いかけていく。自分達が拝殿に付いた時も、まだガウグァウ、ギャオギャオと吠え声が聞こえる大騒ぎであったが、これは如何仕方なかろうか。
拝殿の中を通り、本殿の中に足を踏み入れれば、獅子達が行列して待っていた。流石に騒いではいけないと分かっているのか、無言なのが却って怪しい。
外陣で改めて招待状を受け取り、内容を確かめる。間違いのないことを確認し、大きな溜息が溢れてしまった。
代表として獅子たちを率いて戦った五十嵐。長年、全力を尽くしてくれた、陸奥と二前。毎年、手となり、足となって支えてくれる、村の人達。
其々の顔が浮かんでは消え、つい目頭が熱くなってしまったが、冷静さを取り戻すよう務める。
思えば年間成績2位は2位であって1位ではなく、試合で優勝したわけでもない。優勝するにはトーナメントを勝ち抜き、西側で勝ち抜いてきた相手にも勝たねばならない。
ここで浮かれて喜びすぎてはならん。
気合を入れ直すよう伝えれば、獅子達もびしっと真面目な顔になった。
反面、子獅子たちは試合についての知識がまちまちで、今ひとつ分かっていない顔をしている。
『じゃあ、じいちゃん、詳しい話は後でだね。』
「ああ、二前が戻ってきてからにしよう。」
仁護が代表してガウと場を纏めるのに頷く。
『ねえ、兄ちゃん、御前試合って何?』
『皆の前で、戦うんだよね?』
『無比刀も瑞宮も、後でな。ニノ兄が帰ってきてから、全員で話そう。』
『テンちゃんも、出たい! テンちゃん、午前も午後も試合、出たい!』
『天祥、後でって言ってるだろ。』
ミャウミャウ騒ぐ子獅子は咥え上げられ、来客の邪魔をせぬよう、其々の個室へ引き上げていった。
逸信もその後に続こうとしたが、何故か戻ってきてしまう。護矢が咎めるようにガウと吠えた。
『逸信、いくぞ。』
『待って、兄ちゃん。本、持ってくるから。』
言いながら本棚から一冊抜き出して咥えてくる。
『小日向の兄ちゃん、ゆっくりしていってね。』
通りがてら挨拶していく子獅子の頭を、小日向殿が撫でてくれる。
「ありがとう。逸信はお勉強ですか?」
『ボクはね、モリヤ兄ちゃんに本、読んでもらうの。』
「それは良かったですね。本は沢山読んだほうが良いです。
読めば読んだだけ、知識が得られますから。
逸信は本が好きで偉いですね。」
『えへへ。』
褒められて、嬉しそうに逸信は尻尾をくねらせ、ふと、思い出したようにみゃあと鳴いた。
『沢山って言えば、兄ちゃん、御前試合は沢山の人が見に来るんだよね?』
「ええ、今年の一番を決める試合ですから。
子獅子さんたちもお兄さんたちと一緒に来られるよう手配してありますよ。
逸信も楽しみにしてくださいね。」
『本当? やったあ!』
逸信はまだ、神社の近辺から外に出たことがない。まして、関東近郊で尤も大きな都と聞いている水都の様子が、今ひとつ想像できないのか、喜びながらも首を傾げた。
『沢山、ってどのくらいかなあ? 村の人、全員が集まるぐらい?』
「そうですね。もしかしたら、もっと多いかも知れません。
参加者は全国の神社から選ばれますし、東西其々のトップが争う決勝戦は大変盛り上がりますから。」
無邪気な子獅子の感覚に、龍族の青年は微笑ましげに頷き、逸信は不思議そうなままにミャウと鳴いた。
『それなら、ボクの大事も見に来るかな?
それで、ボクのこと、見つけてくれるかな?』
「え?」
おかしなことを言う子獅子に小日向殿が怪訝な顔をし、護矢ががうと吠える。
『逸信、じいちゃん達の邪魔になるぞ。早くおいでな。』
『うん、今行く。小日向の兄ちゃん、またね。』
兄獅子に呼ばれて、逸信はトコトコと去っていき、取り残された龍族の青年は困惑したようにその背を見つめた。
「山口殿、今のは……」
「お気になさらないでください。偶に有るんです。」
逸信は時々、誰にもわからない不思議なことを言う。
特別必死になったり、執着しているわけではなく、普段は忘れているようだが、無意識に何かを探しているようなのだ。
たった、これだけの会話で、小日向殿はすぐ理由に思い当たったようであった。
「もしかして、前世の記憶というものですか……?」
「よくは分からないのですが、そうかも知れません。」
真顔で問われても、答えは持ち合わせていない。
何せ、逸信がわかっていないのだ。「大事」であること以外はよく分からない探しもの。
何かはわからないが、いつか見つかるだろうか。
「付喪神系の霊獣は、ごく稀に前世の記憶を引き継ぐことがあるとは聞きますが。
ここの獅子にも、居たんですね。」
子獅子が消えた先を眺め、考え深そうに龍族の青年は頷いた。
「しかし、逸信に前世からの恋人がいるとは。意外ですね。」
「恋人?!」
意外すぎて、声が裏返ってしまった。
「え、違うんですか?」
「違うと言うか、そんな事考えたこともないと言うか、」
あの、のほほんとした逸信に恋人とか、早いのではなかろうか。
いや、早いとか遅いとかそういう問題でもないが。
「大事だからといって、恋人とは限らないでしょう?」
「まあ、確かに友人や兄弟かも知れませんが。」
一旦否定し、ひと呼吸おいて考える。逸信に、前世からの恋人。
のんびり、おっとり、ゆっくりで陸晶や瑞宮の後をちょこちょこ付いていく、逸信に。
子獅子特有の暗色斑が困り眉毛に見える、逸信に。
体は大きめだし、足も速いし、力も強い方だけど、気が弱めな逸信に。
そもそも、うちの獅子達は姿こそ雄獅子であるが、無機物に魂が宿った存在だけに性別は有ってないようなもの。御神体の分身型であるため、繁殖する必要もなく、番は作らない。
しかも、あの逸信に。
「……違うんじゃ、ないでしょうか?」
「確かに恋人と決めつけるのは、早計でしたね。」
言葉に出さない暗黙の了解を基に、龍族の青年も静かに頷く。
「八幡なら、まだしも……」
「璃宮くんでも、おかしくないでしょうけれど。」
逸信は良い子だ。優しいし、手伝いも進んでしてくれる良い子だ。
しかし、世の中には向き不向きが有る。
ビジュアルとか性格とか、色々と向き不向きが有る。
「すみません。私としたことが一方的な見方をしてしまいました。」
暫しの沈黙の後、丁寧に頭を下げる小日向殿に顔をあげてほしいと頼む。
「前世からと言えば、瑞宮と天祥の人間みたいな寝言がシンクロしたこともあったんですよ。」
「あの二匹は仲がいいですから、それらしいですね。」
雑談をはさみつつ、あくまで一般的な話として会話を続ける。
「やはり、記憶を引き継ぐのは、付喪神系に多いんですか?」
「ええ、私が聞いた中では。あと、他には……」
長く生きる龍族は知識も豊富で、木霊や人形などの実例を他にも教えてくれた。
そればかりか、身近な例も小日向殿は知っていた。ここだけの話と声を潜められる。
「三峰のシズ殿と、ナナさんもそうらしいですよ。」
「……ま、本当ですか?」
マジで? そう言うところだった。
仮にも高位の龍族、関東近郊を治める竜堂家からの使者に対して使う言葉ではない。
此処より北西、約70km先に有る三峰神社の霊獣頭兼宮司のシズは才色兼備の神狼であるが、女神も俯くと言われる美貌と正比例するように、言葉がきついことで有名である。
細く整った眉を寄せ、薄い唇を僅かに歪ませて、淡々と責めてくるあれに前世の恋人。
確かに相方の霊犬、ナナちゃんは可愛いが、あの二人が前世からの恋人。
逸信とは逆に似合いすぎて、思わず笑いそうになってしまい、口を抑える。
「内緒ですよ。
飽くまで噂ですし、本人達は認めていないどころか、目の前で口にすると本気でキレられますからね。」
怒られるではなく、キレられる。何時も丁寧な小日向殿らしからぬ言葉遣いに真剣度が伝わってくる。
真顔で口止めされて頷くも、それなら知らないままでいたかった。うっかり口を滑らせそうだ。
「本当に気をつけてください。
以前、勇様が触れて、泣かされましたから。」
良い年した親父がメソメソするのは実に見苦しかったと此方も真顔で忠告される。
状況がつぶさに想像できてしまい、二の舞は演ずるまいと固く心に誓う。
泣かされる恐怖に少し冷静になった所で、詳しい話を聞く。
やはり、実際のところは分からないのですがと前置いて、小日向殿が教えてくれた所によれば、神社間での打ち合わせの為に水都の神社の一つ、水照宮を訪れたシズが、眷属達の中にいたナナちゃんを見て一言、「連れて帰る。」と言い放ったそうだ。
それにナナちゃんがあっさり同意してしまったと言う。
お互いに面識は全くなかった上での急な要望に、勿論、水照宮は驚いたが、それ以上特別なことは起こらず、一般的な宮司同士の話し合いによって、ナナちゃんの移動は認められた。
手続きは淡々と進められ、三峰が無闇矢鱈に騒いだり、急かすこともなかったらしい。
「でも、シズ殿は、あの美貌で何かと目立ちますでしょう。
水都の一部では結構な騒ぎになってしまいまして。
あまりに不自然で他に理由がないと、勘ぐるものが沢山居たのです。」
小日向殿の話が本当であれば、確かに騒ぎになるだろう。
あの気難しい三峰の狼が見初めるとはどんな相手かと、それだけで十分話には事欠かないであろうに、おまけがついていれば尚更だ。
しかし、ナナちゃんが三峰に来る事を聞いた際に、そんな噂を聞いただろうか。
全く何も覚えていないことに、軽く首を傾げる。
ただ、何方にしても、三峰の狼はその手のゴシップを嫌う。
うっかり弄れば、容赦なく噛み付かれ、引き裂かれるであろう。覚えていなくて正解かも知れない。
大体のところを了解し、本日聞いたことは三峰の前でけして口にしないと言葉にして誓えば、それが良いと頷かれた。
「そんな前例があったものですから、つい、逸信もと思い込んでしまい、挙げ句、余計な話をしてしまいました。」
静かに首を横に振りながら龍族の青年は苦笑し、本題からずれたことを謝罪した。そのまま、本来の目的である御前試合の日程や規定などの説明を受ける。
大まかな打ち合わせと質問を終え、疑問がないことを確認される。幾つかの書類を揃え、小日向殿はこれで終わりと頷いた。
「それでは当日はお待ちしております。
後にご不明な点などございましたら、お気軽にお問い合わせください。」
何時ものそつのない仕草に、なんとなく不自然さを感じる。
思えば小日向殿は竜堂家のすぐ側に仕える御用取次。その様に重要な職につく彼が先程のような無駄話をするだろうか。それだけ親しく感じていただいているとすれば誇らしいが、普段はまだしも今日は公務中である。もしかして逸信や三峰の話は雑談と見せかけて、何か意図があって聞かせてくれたのではないか。
漠然とした疑念のまま、切りそろえられた前髪の下で輝く瞳をジツと見つめれば、静かに微笑まれた。
その微笑は整い過ぎていて、益々作られた意味ありげなものに見えてくる。ただ、何を伝えたかったのかは分からない。
「どうかしましたか?」
ヒントのように向こう側から尋ねられるも、何を聞くべきなのだろうか。
少し逡巡するも答えは見付からず、思ったままを口にした。
「いや、不明と言えばと、先程の逸信の話を思い出しまして。
前世からの記憶が残るような繋がりなど、本当にあるのでしょうか。」
「どうなのでしょうね? 生憎、私にはお答えできるほどの見識はありませんし、学者の中でも賛否両論あるようです。ただ、」
穏やかに龍族の青年は笑い、少し困ったように眉を寄せた。
「ただ少なくとも、どうしても忘れられない相手というのは、いるようです。」
そのまま、遠く彼方にいる誰かを見遣るように西の方へ視線を向ける。
その姿は微笑を浮かべていながら、とても心配そうだった。
触れてはいけないものに触れてしまったであろうか。
一瞬、小日向殿の過去を想ってしまったが、考え直す。
確か竜堂家の後継である直系の青年は、恋人を追って国外に出たはずだ。表向きには留学ということになっているが、実際には身分違いであると家によって無理やり引き離され、行方不明になった娘を探すため、役目も何もかも捨てて、出ていってしまったらしい。
ある程度、見聞を広げた後に戻ってくるということになっているが、それが何時になるかはわからない。一生戻ってこないかも知れない。
小日向殿が心配しているのは、そんな嘗ての主君であろうか。
竜堂家の跡取りに相応しく責任感の強い立派な若者で、人望も厚かったと聞くから、様々な葛藤の上でのことであろうが、うちの逸信や三峰より、余程派手だなと思う。
「しかし、ロマンティックですよね。前世からの恋人なんて。」
「そうですね。時を超えても忘れられないほどに想い逢える相手がいたら、幸せかも知れませんね。」
当人は嫌がるだろうが、麗しい三峰の狼によく似合いそうな肩書だ。
そんなことを口にすれば、小日向殿はにこやかに同意しながらも、少し意地悪そうに言う。
「でも、前世の相手に出会った時、既に今世での恋人が居たら、修羅場かもしれませんね。」
「あー 確かに。」
忘れられない以前の恋人と再会した時、今の恋人との関係はどうなるのであろうか。これは前世云々除いても、難しい議題である。
かといって、見つけられるか分からない相手を何時までも待ち続けるのも不毛に思える。
「そう考えるとロマンティックなのは再会できて、問題なく復縁できるのが前提となりますね。」
「響きは美しく聞こえますが、生まれる前から恋人が決まっているなど、ただ選択肢がなく、つまらないだけかもしれませんしね。」
条件が揃っているかが鍵かと唸れば、そもそもの在り方にも疑問を提示された。
何処か運命の恋を否定するような口振りは、やはり国を捨てた後継に思うところが有るからかも知れない。
あまり恋愛賛美的な言動は控えようと思う。
「なんだか、一昔前の許嫁みたいですね。当事者に拒否権がない感じの。」
会話の終わりを探しての言葉は、何かに突き刺さってしまったようだった。
「本当に。一昔前じゃあるまいし許嫁など、どうかとは思いますよ。」
今までの曖昧なものから、小日向殿の言葉が完全否定に変わる。
「そうなんです。前世からの恋人とか、運命の相手なんて、少女の夢みたいなものを追いかけ、求めても、現実的ではないでしょう。実際にそのような例を攫ってみた所で、先に述べましたとおり、ロマンスに溢れているとも限りません。それなのに、俺の運命の相手は何処にいるんだとか、何時逢えるんだとか、前世からの恋人とかが欲しいとか、なんで兄貴にはいたのに俺に許嫁がいないんだとか、甥っ子ばっかり一生を賭けられる恋人がいてずるいとか、そんな事を言っても仕方がないのです。許嫁なんか仮に居たって婚約破棄や、他の男と駆け落ちなぞされれば、良い笑いものですよ。無い物ねだりをしている暇があれば、現実に目を向けて、己の欠点と向き合い、新たな出会いを探すほうが余程建設的ではないですか。少なくとも振られる度にそんなことをうだうだ言いながら飲んだくれて引き籠もり、何が解決しますか。そんな男の所に誰が嫁に来ようと思うでしょうか。しかも今月で何回目だと思っているんでしょうか!」
一息に長文を言い切った龍族の青年を見つめて思う。
これ、違うわ。
雑談で何か伝えようとか、わざと口を滑らせたとか、そういうんじゃないわ。
前世の繋がりとか、運命の相手とか、家を捨てた後継とか、多少関わってるけど根本的な問題でもないわ。
「あの、小日向殿……?」
「はい、如何いたしましたか?」
そっと声をかければ龍族の青年はハッと正気を取り戻したのか、即座にいつもの笑みを作った。
それが自然過ぎて却って怖い。
「あの、勇殿が、本日いらっしゃらなかったのは、」
「ですから、態々訪問することによって、一つの神社に肩入れしていると見られてはいけないからですよ。
ああ見えてお忙しい方でもありますので、他にするべき仕事もございますし。」
一応尋ねてみたが、即座に定型文で切り替えされたので、これ以上触れるのを止めた。
やはり、これは聞いてはいけない奴だ。
取り敢えず、改めてお茶を勧めてから、当たり障りのない僅かな雑談を交わし、気が紛れたのを確認した上で、水都へ戻ると言うのを送り出す。
何も知らない子獅子達がみゃうみゃう言いながら、参道まで見送りに付いてきたのを一匹ずつ丁寧に撫でて、小日向殿は微笑んだ。
「今日はすっかり、長居をしてしまいました。
此処にいると楽しくて、仕事中であることをつい、忘れてしまいます。」
「いえ、大したおもてなしも出来ませんが、こんな田舎の神社で良ければ何時でもいらしてください。」
「ありがとうございます。」
簡単な別れの挨拶を述べ、いつものとおり丁寧に頭を下げる龍族の青年に、無邪気に子獅子達が吠える。
『小日向のお兄ちゃん、またねー!』
『また、遊びに来てね!』
『水都では、宜しくね!』
何度も振り返りながら去っていく、その背を見送る。
気品すら感じさせる足取りは普段と何も変わらないようでいて、その実、高位の龍族が一介の神社に主の内情など口を滑らすほど追い詰められていると思うと、心配になる。
御用取次があんな体で、御前試合は無事に開催できるのだろうか。
いや、それ以前に小日向殿はちゃんと水都に帰れるのだろうか。疲れのあまり、暴走したりしないだろうか。
高位の龍がその気になれば、この霧雨を雷荒れ狂う暴風雨に変えるなど、容易い。見上げれば雲が先程より、更に黒くなったような気がする。
足元に纏わりつく子獅子たちを撫でれば、その毛皮は濡れてしっとりと冷たい。
あまり考えないようにして、早々に本殿に戻ることにした。




