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物言わぬ黒翼

作者: SS便乗者

「お嬢様・・・森には危険もございます故、余り私めの目の届かぬところへは行かれませぬように」

「爺やが遅いのじゃ!何時も何時も、ちゃんと妾について参れと言うておるではないか!」

ある晴れた日の午後・・・

妾は週に2度の楽しみである森への散策に出掛けると、少しばかり息苦しそうに後ろをついてくるもう70歳近い執事の老体を気遣うことも無く薄暗い木々の回廊の中を駆けていった。

周囲を森に囲まれた貧しい小国だからなのかこの国の王である父ももうすぐ6歳の誕生日を迎える妾に特に贈り物の類をくれるつもりは無いらしかったものの、それでも妾は爺やと遊ぶ日々に十分な幸せを感じていたのだ。

ガッ!

「あうっ!」

だが時折爺やの様子を確かめるように後ろを振り返りながら走っていたことが災いし、妾は地面から突き出していた木の根に躓いて固い土の地面へと盛大にすっ転んでしまっていた。


「ああ!お嬢様!」

その瞬間無様に両手足を広げたまま前のめりに倒れ込んだ妾を心配して、爺やが大層慌てた様子で駆け寄ってくる。

「お怪我はありませんか?」

「だ、大丈夫じゃ!」

一応そんな強がりを口にはしてみたものの、妾は地面で擦り剥いてしまった肘の痛みに微かに顔を顰めていた。

幸い血の出るような傷にはならなかったものの、摩っても摩ってもジンジンとした痛みはなかなか治まる気配が無い。

「お嬢様にお怪我をさせてしまっては私めがお父上に叱られてしまいます。どうかご自愛くださいませ」

「う、うむ・・・すまんの・・・」

やがて爺やの手を借りて地面から起こして貰うと、妾はふと森の奥の方で何やら小さな黒い影が地面から飛び上がったような気配に気付いてそちらへと視線を振り向けていた。

だがそれが一体何だったのかを確かめるよりも先に、ゴッという鈍い衝突音とギャッというくぐもった悲鳴のような短い声が聞こえてくる。


「な、何じゃ一体・・・?」

そして何が起こったのかを確かめようと再び爺やの許を飛び出すようにして先程の影が見えた木の辺りまで走り寄ってみると、妾はそこで思いも寄らないものを目にしていた。

飛ぶ練習をしている内に失敗して木の幹にでも激突してしまったのか、体高数十センチ程の漆黒の鱗を身に纏った小さな竜の子供が太い大木の根元に倒れ込んでいる。

当たり所が悪かったのか右の翼の付け根が少し裂け掛かっていて、痛々しい真っ赤な血がそこから流れ出しては憐れな仔竜の周囲に小さな血溜まりを作っていた。

「可哀想に・・・怪我をしてしまったのじゃな」

だが妾が倒れている仔竜に手を出そうとしたその時、ようやく追い付いてきた爺やが驚きの声を上げる。

「お、お嬢様!手を出してはなりませぬ!子供とは言え竜は竜・・・指くらい簡単に食い千切られてしまいますぞ」

「そうは言っても、酷い怪我をしておるのじゃぞ。生き物を大切にせよと妾に言って聞かせたのは、爺やではないか」

「し、しかしお嬢様・・・」


無論、妾とて竜の恐ろしさはこれまでにも本で何度も読んだことがある。

刃の如き鋭い爪牙に見上げるような巨大な体躯、優雅に空を舞う蝙蝠のような翼、太く逞しい尾・・・

中には燃え盛る炎をその口から吐き出す者もいるらしく、何処であろうと万が一にも竜の姿を見掛けたなら何をおいてもすぐさまその場から離れるべきだとくどい程に言い聞かせられたものだった。

だがそんな危険な存在を目の当たりにしているはずだというのに、苦痛に顔を歪めたまま血溜まりの中にぐったりと倒れ伏している仔竜の余りにも不憫な姿につい警戒心よりも憐憫の感情の方が上回ってしまう。

「とにかく、怪我の手当てくらいはしてやっても良いじゃろう?この傷ではもう生涯空は飛べぬかも知れぬが・・・」

そんな妾の言葉に、爺やも覚悟を決めたのか痛みで意識を失っているらしい仔竜を慎重に眺め回していた。

「ではお嬢様・・・この前お教えした血止めの薬草を探せますか?私めは何か傷を縛る物を探しますので・・・」

「あの薬草じゃな!もちろんじゃ!」

妾はそう言って更に森の少し奥へ飛び込むと、先日爺やからもしもの時の為にと教えて貰った薬草を探し始めていた。


「確か・・・木の根元に生えていることが多いんじゃったな・・・お、あったぞ」

そして首尾良く数分も経たない内に目当ての薬草を見つけると、すぐさま爺やの許へと舞い戻る。

その間に爺やも仔竜の傷を覆う為の大き目の葉っぱと細い植物の蔓を調達していたらしく、手際の良い彼のお陰で仔竜の傷の手当はそれから10分も掛からぬ内に済んでいた。

「きゅ・・・きゅう・・・」

磨り潰した血止めの薬草を塗って葉っぱと蔓で翼が動かないように固定したところでようやく意識を取り戻したのか、仔竜が今にも消え入りそうな弱々しい鳴き声を上げながらその薄紫色の円らな瞳で妾の顔を見つめる。

「さあ、お嬢様・・・手当ては終わりました。親竜がやってくるかも知れませんので、すぐに城へと戻りましょう」

「分かっておる・・・大丈夫か?しばらくそのまま動くでないぞ。暴れたらまた傷が開いてしまうからの」

そして辛そうに目を閉じてその場に蹲った仔竜へそう声を掛けると、妾達は急いで城へと舞い戻ったのだった。


それから、10年の月日が流れた頃・・・

幼少の時分から奔放に育てられた王女エリスは相変わらず執事には懐いていたものの、一人っ子で他に男兄弟も無かったことで将来は女王となることを期待されていた重圧から非常に我儘な性格に育ち周囲を困らせていたという。

だがもうすぐ80歳という高齢故に激務をこなすことが困難となった執事が半ば隠居という形で王女の世話から退くことが決まると、エリスは新たな執事の代わりに自身の専属の召使いをつけることを所望したのだった。

「お嬢様、召使いの件ですが・・・本当に城付きの者達からはお選びにならぬのですか?」

「駄目じゃ駄目じゃ!城の者達は皆妾とは歳も離れておるし、何より口煩いからの」

「しかし、そうなると町に住む者達から募らねばなりませぬ。仕事も1から教えなければなりませぬし・・・」

困り顔の執事の提案をも頑として撥ね付けながら、美しい15歳の娘へと成長したエリスが更に言い募る。

「別に奴隷でも浮浪者でも、出自など一切気にはせぬ。妾は、とにかく歳の近い召使いが欲しいのじゃ!」

「・・・分かりました。では後日候補者の者達を集めますので、お嬢様ご自身で1人お選び頂けますか?」

「うむ。早う頼むぞ」


やがて何処か渋い顔を浮かべた爺やが部屋を出て行くと、妾は大きな窓際に立って小さな溜息を吐いていた。

幼い頃から爺やと森へ散策に出掛けるのが妾にとっては唯一無二と言っても過言ではない楽しみだったというのに、その爺やが引退してしまうとあって今の妾は正に両の翼を毟り取られた小鳥のような気分だったのだ。

仕事の面だけで言えば爺やの様な執事は他にも探せるかも知れぬが、この15年間毎日甲斐甲斐しく妾の世話をしてくれた彼に代われる人間などこの地上の何処を探してもいるはずがない。

ならばせめて中年女の多い城付きの者達などではなく妾と歳が近い召使いを付けて欲しいという願いは、ここ最近の自身の言動を振り返ってもそれ程常軌を逸した要求ではないと思っていたのだが・・・

これまでどんなに難儀な仕事でも顔色一つ変えずにこなしてきた爺やがあれ程の狼狽を見せたという事実に、妾は内心少しばかり胸が締め付けられるような罪悪感をも感じてしまっていた。


だがそれから1週間も経たない内に、妾は召使いとなる者を選ぶ為に爺やから城の中の一室へと呼び出されていた。

「お嬢様、町で召使いとなる者達の候補を募って参りました。このような者達で本当によろしかったのですか?」

そう言われて8人程ずらりと並べられた候補者達を眺め回してみると、下は11歳から上は18歳までの若者達が緊張した面持ちを浮かべているのが目に入る。

中には本当に奴隷や浮浪者上がりの者も混じっているのか身形については個人差が激しいものの、須らく薹が立ってしまった城の召使い達とは違って誰もが皆若々しさに溢れているらしい。

そして端から順に名前や出自などを話して貰いながらその選定に勤しんでいると、最後に残された12歳程の少年が酷く困った様子でその身を揺すっていた。

「どうかしたのかの?お主、名は何と申すのじゃ?」

「お嬢様、あの者はどうやら生まれ付き口が利けぬようでして・・・名前や出自などが一切不明なのです」

確かにただのボロ布を纏っただけというようなその身形は他の7人に比べても飛び抜けて貧相な上に、何処からどう見ても文字の読み書きといった基本的な教養さえ身に付けているようには見えない。

だが艶のある黒髪にほんのりと紫掛かった純真そうな瞳が美しく、全身に不思議な魅力を纏っていたのも事実だった。


「何故あのような者が候補の中に入っておるのじゃ?」

「実はお嬢様の召使いを公募すると言って触れを出した時に、真っ先にやって来たのがあの少年なのです」

成る程・・・既に何人か候補がいたのなら篩いに掛けた段階で落とすことも出来たのだろうが、あの少年が最初に手を挙げた者なのであれば無碍に扱うわけにもいかなかったということなのだろう。

「じゃが・・・口が利けぬとは言っても、言葉は通じるのじゃろう?」

「はい、それはもちろん・・・それと意外なことに、あの少年が最もお嬢様の召使いとなることに意欲的なのです」

言われてみれば、他の7人は王女を目の前にしているという緊張感と十分な仕事が出来るのかという不安を抱えながらもその目的が町での仕事に比べれば優遇されている給金なのであろうことは見て取れる。

だがこの少年だけは・・・言葉を発せられずに自己紹介の出来ないもどかしさに戸惑っていることを除けば、心の底から妾の為に尽くしたいという純粋な献身の意思がその全身から滲み出していた。

「ふむ・・・口が利けぬのならば煩く小言を言われることも無いじゃろうし・・・妾の召使いはあの者に決めたぞ」

「かしこまりました。では召使いとしての教育を施しますので、お嬢様へのお付きは10日後からでよろしいですか?」

「うむ、楽しみに待っておるからの。そうじゃ、他の候補の者達にも手間賃を出すことを忘れるでないぞ」

爺やはそんな妾の言葉に当然のように頷くと、自分が選ばれたことを知って嬉しそうにはにかんだ少年を連れて奥の部屋へと入っていったのだった。


それからの10日間は、正に妾の人生の中でも最も長く感じた日々だったように思う。

ただ待っているだけでも歯痒いことこの上ないというのに、時折爺やがあの少年への教育についてその進捗具合を報告してくるものだからますますじれったい思いが膨れ上がってしまうのだ。

「爺や、まだレンスは使い物にならぬのか?」

やがて口が利けぬ故に"沈黙"という意味を孕んだレンスという名前で彼を呼ぶことにした妾は、まだあれから1週間も経っていないというのにそう言って爺やを急かしていた。

爺やによればレンスはまともな教育を受けたことが無いからか日常的に使うような物の名前などを知らなかったりすることが多いということだが、その割に頭は聡明なのか仕事の飲み込みは想像以上に早いらしい。

特に経験の長い召使いでもともすれば見落としたり気が付かなかったりするような細かなことにも驚く程敏感に気が回るらしく、その点に関して言えば長年執事として王家や妾を支えてくれた爺やも舌を巻く程の逸材なのだという。

だがそんな話を聞けば聞く程に、妾は早くレンスを召使いとして迎え入れたいという思いに今にも張り裂けそうな胸の昂ぶりを抑えることが出来なくなっていった。


そして興奮の余り眠れぬ夜がそれから数度続いたある日・・・

「お嬢様、大変お待たせ致しました。本日より、レンスをお嬢様の専属の召使いとして正式に登用致します」

妾はまだ朝の早い時間からやってきた爺やを部屋に迎え入れると、ついに長らく待ち続けたその言葉を聞いて歓喜の声を上げていた。

それと同時に、爺やの陰に隠れていたレンスが期待と緊張と興奮が綯い交ぜになったかのような複雑な表情を浮かべながらゆっくりと妾の部屋へ入ってくる。

やがて召使いらしく清潔で質素な衣服に身を包んだ初々しい少年が無言のままペコリと頭を下げたのを目にすると、妾は爺やが部屋を出て行ったのを見送ってからレンスを近くへ呼んでいた。

「レンスや、こちらへ来るのじゃ」

その瞬間、パッと顔を輝かせたレンスが小走りに妾の座っていたベッドの傍へとやってきてはピタリと静止する。

「お主は、口が利けぬというのに何故妾の召使いとなることを望んだのじゃ?」

だがその問いに対する答えは持ち合わせていなかったのか、レンスが少しばかり困った様子で目を伏せていた。


「いや、無粋な問いであったな・・・爺やがお主のことを大層褒めておった故に、ちと気になっただけでのぅ・・・」

それにしても・・・初めて見た時はただボロ布を纏っただけのみすぼらしい身形だったにもかかわらず、妾はこの少年の内に何か奇妙な輝きのような物を見出したものだった。

それが真新しい召使いの服に着替えたことで更に凛とした若々しさが際立ち、3つ程も年下のはずのレンスに何だか胸の奥がキュンと締め付けられるような微かな痛みを感じてしまう。

いや・・・何を馬鹿なことを・・・

この者はあくまでも妾の召使いであり、断じて恋心などを抱いて良い相手ではないのだ。

「よし、ではレンスよ。今日は良い天気じゃ。森へ散策に行くぞよ」

やがて心中を掻き乱した穏やかならぬ感情を誤魔化すようにそう言うと、驚くべきことに妾がベッドから腰を上げようとするよりも早くレンスが汚れても良い外出用の服をクローゼットの中から引っ張り出してくる。

そしてあれよあれよという間に大きな姿見を用意すると、レンスがそっと妾の手を取ってベッドから立ち上がらせてくれていた。


何という手際の良さなのだろうか・・・

この城の中で働くどんなに経験豊富な召使い達も・・・いや、たとえあの爺やでさえ、これ程までに素早く妾の外出の用意を整えてくれたことはいまだかつて無かったように思う。

もちろんレンスのこの行動も爺やの綿密な教育の賜物ではあるのだろうが、それにしても妾の為に尽くそうと一片の迷いも無く行動する彼の姿はある意味でとても人間離れしていた。

「う、うむ・・・」

そしてそんなレンスのきびきびとした立ち回りに若干面食らいながらも姿見の前へ移動すると、彼が慣れた手付きで妾の身に着けていた寝巻きを素早く脱がせていく。

両手を左右に広げて立っているだけの妾の着替えには普段なら召使いが2人掛かりでも優に5分以上は掛かるのだが、それがレンス1人の手によってものの2分足らずで完了してしまったことに妾は素直に感動の念を禁じ得なかった。


やがてすっかり外出の準備が整ってしまうと、レンスが恭しく部屋の扉を開けて妾をエスコートしてくれる。

これが本当にほんの10日前までまるで乞食のようだったあのみすぼらしい少年なのかと疑ってしまう程に、レンスの召使い振りは恐ろしい程に板に付いていたと言っても良いだろう。

「お嬢様、森へお出掛けになられるのですか?」

「うむ・・・今日はレンスと2人きりで出掛けてみたいのじゃ。爺やはついてこなくて良いぞよ」

ふと城の外へ出る途中で出会った爺やとそんな遣り取りを交わすと、彼が静かに頷きながらもその顔に心配そうな表情を浮かべているのが目に入る。

まあ妾もこの15年間ただの1度たりとも爺やを伴わずに森へ入ったことなど無かっただけに、彼がそんな反応を見せたのはある意味で当然のことだったのかも知れない。

だがそんな爺やの視線を尻目にいざすっきりと晴れ渡った城の外へ飛び出すと、妾は既に庭同然となった国の西側に広がる深い森へと向かってレンスとともに駆けていったのだった。


生まれて初めての爺やを伴わぬ森の散策。

だが流石は若いレンスのこと、彼は後ろも振り返らずに走り続けた妾から片時も離れぬように付き従うと、妾が何時も歩いている散歩道を何処か懐かしそうな表情で眺め回していた。

言葉が話せぬ故に本当の名も出自も分からぬレンスではあったのだが、この森にそんな反応を示すということはもしかしたら彼はここから更に西の山を越えた隣国からやって来たのかも知れない。

「レンスや。お主、この森のことには詳しいのかの?」

だが妾がそう言うと、レンスが少しばかり躊躇いながらもコクリと頷く。

「ふむ・・・ならば、何処か面白い場所なども知っておるのではないか?」

そしてそんな妾の問い掛けにしばし何かを思案しているかのような間が開くと、レンスが妾を何処かへと案内し始めていた。


「こ、ここを通るのか?」

やがて期待に胸を膨らませながらレンスについていくと、彼が深い茂みの中に通った少しばかり狭い獣道の中へと入っていく。

ある程度大型の生き物がそこを行き来していたのだろうことは見れば分かるのだが、普段であれば流石の妾も入ろうとは思わぬ程には深く狭い空洞だ。

だがレンスがどんどんと先に行ってしまうのを見失わぬようにと妾も覚悟を決めてその中へ飛び込むと、しばしの間ガサゴソと草を掻き分けながら視界の悪い道を進んでいく。

バサバサッ・・・

そしてようやく鬱蒼と茂った茂みの群れを通り抜けると、その先に妾が想像もしていなかったものが姿を現していた。


「な、何じゃこれは!?」

そこにあったのは、天井まで高さ5メートル程はあろうかという岩棚に掘られた蒲鉾型の大きな洞窟。

これまでこの森には何度となく足を踏み入れたというのに、まさか分厚い茂みの壁を隔ててすぐ近くにこんなものが存在していようなどとは夢にも思わなかったのだ。

「な、中には・・・何もおらぬのか・・・?」

そしてそんな呟き声とともに真っ暗な洞窟の中を覗き込んでみると、まるで妾を案内するかのようにレンスが一寸先も見えぬはずのその暗闇の中へ平然と入っていく。

「お、おいレンス・・・そう急くでない・・・足元が見えぬのじゃ・・・」

だが妾がそう言い終えるか終えないかの内に、彼が妾の手を取ってゆっくりと引っ張ってくれる。

誰かが人工的に掘った洞窟なのか自然のものとは思えない程に地面は平坦で危険な段差や突起などはほとんど見当たらなかったものの、それでも真っ暗な闇の中を手探りで歩くのは大きな不安を伴うものだった。


「む・・・明かりじゃな・・・」

やがてどうしてそこが曲がり角だと分かるのか不思議な程の闇の中をレンスに引っ張られるまま進んでいくと、不意に奥の方に天井から微かな陽光が差し込んでいる部屋のようなものが見えてくる。

そしていよいよ洞窟の最奥へ辿り着くと、妾はそこに広がっていた何処か幻想的な光景に胸を打たれていた。

「一体・・・ここは何なのじゃ・・・?」

薄暗い10メートル四方程度のその部屋の中に、明らかに何者かが暮らしていたような跡が残っている。

草や木の枝を踏み拉いて作ったかのような大きな寝床のような物もあれば焚き火でもしていたのか堆く積まれた木の枝の燃えカスの残骸などもあり、他にも木を刳り抜いて作った水瓶のようなものも部屋の隅に置かれている。


「レンスや・・・もしや・・・お主はかつてここで暮らしておったのか・・・?」

妾がそう言うと、どうみてもその体の大きさに比べて広過ぎる寝床の上へ座り込んだレンスが小さく頷く。

こんな深い森の中の洞窟に独りで暮らしていた少年・・・一体どのような運命の悪戯でそうなったのかは定かではないものの、人間の文明から隔絶された暮らしをしていたのであれば彼が口を利けぬというのも分からぬ話ではない。

それに人間の生活に必要な知識には乏しくても、苛酷な自然の中で生き抜いてきたのであればレンスが見た目以上に頭脳明晰である理由にも納得が行くというもの。

ただ唯一解けぬ疑問があるとすれば・・・口を利けぬはずのレンスが一体どうやって人間の言葉を理解する術を習得したのかということだった。

恐らくは誰かが彼にそれを教えたのだろうが、それを本人の口から聞くことが出来ない以上はこれ以上詮索しても仕方の無いことなのだろう。


「ふむ・・・まさか、お主がこんな寂しい洞窟の中で幼少の頃を過ごしていたとは夢にも思わなかったのぅ・・・」

やがて妾がそう言うと、寝床から立ち上がったレンスが再び妾の手を引いて洞窟の外へと歩き始めていた。

「こ、今度は何処へ行くのじゃ?」

彼から返事が返って来ないことは理解しているはずだというのに、唐突なレンスの行動に思わずそんな疑問の声を投げ掛けてしまう。

そしてまだ真昼間の明るい日差しが差し込む森へ飛び出すと、そこでようやく手を離したレンスが洞窟の裏手の方へと妾を案内したのだった。


見上げるような大きな岩棚に沿って歩くこと数分・・・

ふと妾の耳に、何処からとも無く水の流れるようなせせらぎの音が聞こえてくる。

もしや、この先に川があるのだろうか・・・?

だがそんな想像を頭の中に膨らませながらなおもレンスの後についていくと、妾はそこに想像以上に美しい光景が広がっていたことにレンス同様声を失ったのだった。

こ、これは・・・

そこにあったのは険しくそそり立つ西の岩山の方から城下の町まで流れ込んでいる渓流と、それを挟んだ延々と向こうまで続く丸い砂利の敷き詰められた平坦な川縁。

しかも深いところでも水深30センチ程度のその浅い川は上流から幾つも幾つも小さな滝が連なっているらしく、耳を擽る水音とすっきりと透き通った清水の流れがその場にいるだけで心を洗われるような風景を作り出していた。


「な、何と美しい景色じゃ・・・」

そんな妾の感極まった声に、レンスが何処か誇らしげに朗らかな笑みを浮かべる。

レンスがかつて暮らしていたという先程の洞窟から程近いこともあり、きっとここは彼にとって馴染みの深い憩いの場であったのに違いない。

そんな秘密の場所を何の惜しげも無く妾に明かしたということは、恐らく彼は本当に心の底から妾を楽しませようとしてくれたのだろう。

しかし同時に、妾はレンスが紛れも無くこんな深い森の中で幼い時分からたった独りで生活していたのだという奇妙な現実をも受け止めざるを得なかったのだった。


それからしばらくして城へ帰ると、大層妾のことを心配していたのか朝よりも少しやつれたように見える爺やが安堵の表情を浮かべながら妾達に駆け寄ってきた。

「お嬢様、お帰りなさいませ。レンスとの森の散策は如何でしたか・・・?」

「うむ・・・最高じゃったぞ。色々と珍しいものも見せて貰えたしの」

「はて・・・珍しいものとは・・・?」

だがそんな爺やの問い掛けに思わず背後に居たレンスの方を振り返ると、彼が少しばかり渋い顔をしながらじっと妾の顔を見つめているのが目に入る。

もしかしたら彼は、今日妾に見せてくれた場所やものを余り他の人々には知られたくないのかも知れない。

「と、とにかく色々じゃ。それで、晩餐の用意は出来ておるのか?」

「もちろんでございます。さあ、こちらへ」

「うむ。ほれ、レンスも来るのじゃ」

やがて妾がそう言うと、彼が明らかにそれと分かる感謝の表情を浮かべながら嬉々として妾の後についてきた。

「お、お嬢様・・・レンスは召使いでございます故、お嬢様がお食事を共にされるのは如何なものかと・・・」

「何を言うておる。レンスは妾の専属の召使いなのじゃぞ?共に食事をして何が悪いというのじゃ」

しかしそんな爺やの言葉を聞いて、レンスがハッとした様子でその場に畏まっていた。

きっとこれ以上爺やが妾を責めぬように、ここは自ら身を引こうというつもりなのだろう。

そんな姿を見せられてしまってはこれ以上レンスに無理強いするわけにもいかず、妾は仕方無く独りで晩餐の会場へと向かったのだった。


その日の夜・・・

妾は明かりを消した暗い自室の中で昼間レンスに見せて貰った新鮮な森の景色を思い出している内に目が冴えてしまうと、しんと静まり返っていた部屋の扉にふと小さな声を掛けていた。

「レンス、レンスや・・・」

もちろん、もう夜の11時を過ぎたこの時間では城の中で目を覚ましているのは数少ない夜勤の召使い以外に誰も居ないことは妾も分かっている。

だがその数秒後、驚くべきことに静かに開いた扉の奥からレンスがそっと妾の部屋の中へ入ってきた。

「お、お主・・・まさかずっと・・・妾の部屋の前に立っておったのか・・・?」

そしてそんな妾の問い掛けに、レンスが微かな笑みを浮かべたままコクリと小さく頷く。

朝から働き通しでまだ今日は食事時を除いてロクな休憩さえ取ってはいないはずだというのに、まるで疲れなど感じていないかのようにピンと背筋を伸ばして立っている彼の姿に妾は驚嘆を禁じえなかったのだった。


「自分で呼び付けておいてなんじゃが・・・休まねば身が持たぬぞ。妾の部屋でも良いから、早く眠りに就かぬか」

そう言うと、レンスが小さく頷きながら暗い部屋の中を見回す。

だが人が眠るには十分過ぎる程に大きなソファも深い背凭れのついた椅子もあるというのに、レンスは何故か床に敷いてあった直径2メートル程の毛皮で出来た円形の敷物の上に移動するとそこに寝転んでいた。

そして横向きに自身の膝を抱えるようにくるりと体を丸めると、そのまま目を閉じてスースーと眠り始める。

それを見た瞬間、妾は昼間彼に見せて貰った深い洞窟のことを思い出していた。

薄暗い洞内に敷かれていた、草木を踏み拉いて作ったのだろう大きな寝床・・・

きっとレンスは、幼い頃あの洞窟であのようにして眠っていたのだろう。

一体、どうしてこんな幼い子供が森で独り暮らしをすることになったのだろうか・・・

口を利けぬということも相俟って、妾は言葉には出さなかったもののレンスの境遇を心の底から憐れんだのだった。


その翌日からも、レンスは妾が想像している以上の凄まじい働き振りを見せた。

これまでは高齢の爺やの体力の関係もあって週に2度だった森の散策は2倍の頻度となり、妾の身の回りの世話は他の召使いの手を一切借りることなくレンス1人で完結するようになったのだ。

しかも幼い頃からこれまで1000回以上もそこへ足を踏み入れてきた妾以上に、レンスは広大な森の中のことを誰よりも熟知していた。

木登りも相当に得意であるらしく、高さ20メートル程もある木の幹をスルスルと登っていく彼の後姿を半ば羨望の眼差しで見つめていた妾に木に登るコツを手取り足取り教えてくれたりもした。

尤も、ドレス程ではないにしても裾の長い服を身に着けた状態では上手く木に登ることは出来なかったのだが・・・


ズルッ

「ひぃっ!」

やがて何とか地面から5メートル程の高さまで細い幹の木に登ってみたところで、妾は突然足を滑らせて背中から真っ逆様に落ちてしまっていた。

ドサッ・・・

だがそんな妾を、レンスが地面に激突する前に両腕でしっかりと受け止める。

「お・・・おお・・・す、済まぬの・・・レンスや・・・」

この小さな体の、一体何処にこれ程の力が秘められているのだろうか・・・?

思わずそう思ってしまう程に、レンスは自分よりも大きな妾の体を毎回間違い無く確実に受け止めてくれるのだ。

そんな安心感も手伝ってなのか、妾は幾度かの練習の末にようやっと先程レンスが登ってみせた太い枝のところにまで辿り着くと、そこから見える新たな森の景色に目を奪われていた。

「素晴らしい眺めじゃの・・・ここからでも妾の城がはっきりと見えるわ」

周囲の木々よりも一段と高い樹上から見渡す、一面の深緑の絨毯と遠くに広がる城下の町並み。

西側に聳える峻険な岩山の姿も、距離が近いせいかまた一味違った存在感を醸し出しているように見える。

そしてしばらくそんな絶景を楽しむと、妾は眼下で再び妾の落下に備えたらしいレンスの姿に感謝の笑みを浮かべながらゆっくりと木を降り始めたのだった。


「ふぅ・・・今日も楽しかったぞ、レンスや」

やがて城に帰り着くと、妾は何時も以上に汚れた服の着替えを素早く持ってきたレンスにそう声を掛けていた。

その言葉に満足したのか、レンスが終始満面の笑みを浮かべながら湯浴みを終えて姿見の前に立った妾に素早く服を着替えさせてくれる。

そして彼は妾が晩餐に向かっている間に部屋の中を掃除したり洗った服をクローゼットに仕舞い込んだりとあくせく働いた末に、夜は妾の部屋の床で静かな眠りに就くのだ。

流石にレンスが夜に妾の部屋の中で寝ていることを知った爺やは最初こそ難色を示したものの、懸命に働くレンスの姿と妾が彼を可愛がっている様子を見て今はそれを黙認してくれているらしかった。


そんな平和な生活が何度か続いたある日のこと・・・

「レンス、今日も森へ行くぞよ!」

妾はそう言ってまたしてもレンスと共に西の森へ繰り出すと、心地良い陽気に包まれた木々の回廊を彼と並んで歩いていた。

立場上は妾の召使いではあったものの、今やレンスは妾の唯一無二と言っても過言ではない親友でもあったのだ。

だが一方的にレンスに何かを話し掛けながら更に森の奥へと入ったその時、妾はレンスが突然ピクッと何かに反応して足を止めた様子に気付いていた。

そして斜め前方の木の陰を見つめているらしい彼の視線を追ってみると・・・

泥浴の後なのか太い木の幹に体を擦り付けていたらしい体長1.5メートル程の大きな雄の猪が、思った以上に近い距離で邂逅してしまった妾達をじっと睨み付けていたのだった。


「ブゴッ・・・ブルゴオォッ・・・!」

基本的に小心で見たことの無い物を避ける傾向にあるという猪が、どうやら既に警戒距離を踏み越えて敵対領域にまで入ってしまっていた妾に明確な敵意を突き刺してくる。

そして雄特有の大きな牙を振り翳すと、人間にとっては十分過ぎる程に大きなその猛獣が驚きに足が竦んでしまっていた妾目掛けて真っ直ぐに突っ込んできた。

ドンッ!

「あぐっ!」

だがその鋭い牙がこの身に突き立てられそうになった正にその瞬間、妾は隣にいたレンスに思い切り突き飛ばされたお陰で辛うじてその恐ろしい凶器をかわすことが出来ていた。

そして素早く地面に落ちていた少し太めの木の枝を拾ったレンスが地面にへたり込んだ妾と猪の間へ割って入るように立ちはだかると、妾に早く逃げろという視線を送ってくる。

「レ、レンス・・・!」

このまま、彼を置いて逃げても本当に良いのだろうか・・・?

もちろんレンスはレンスで必死に妾を護ろうとしてくれているのだろうが、どう見ても自身より体の大きな猪が相手では余りにも彼の方の分が悪いのは火を見るよりも明らかだ。


しかしそれでも素早い猪の突進をひらりとかわしながらその背に力一杯木の枝を叩き付けて応戦しているレンスを見ている内に、妾は早くこの場を離れることこそが彼の身を護る最善の策であることにようやく気が付いていた。

やがてなるべく広い道を選んで必死に駆け出した数秒後、ドスッという鈍い音が妾の背に叩き付けられる。

そして反射的に音の聞こえてきた背後へ首を振り向けてみると、何とか必殺の牙はかわしたもののその巨体に派手に跳ね飛ばされたレンスがドサリと地面の上へ転がった衝撃的な光景が眼前に展開される。

「レンス!」

だが思わず彼に駆け寄ろうと足を止めた途端に、妾は興奮した猪が今度はこちらにその標的を定めたのだろう不穏な気配をはっきりと感じ取っていた。


ドドドドドドドッ・・・!

「ひっ・・・ひいいいぃっ・・・!」

土の地面を蹴散らす猪の凄まじい足音が、必死で逃げ惑う妾の背後から途切れることなく轟いてくる。

何とかその追撃を撒こうと木々の間を縫うようにして逃げてみたものの、元々走る速度が2倍以上違う猪を振り切ることなど最初から無理な相談だったのだ。

やがて数分の逃避行の果てに疲れ切った妾が太い木の根元に崩れ落ちるように座り込むと、その眼前に見上げるような巨獣が猛然と迫ってくる様子が酷くゆっくりと流れていた。

も、もう駄目じゃ・・・!

そしてせめて顔だけでも護ろうと両腕を力一杯前に突き出したままギュッと目を瞑った数瞬後・・・

ズガッという鈍く重い音が鳴り響くと、それまで妾の耳に聞こえていた猪の足音が一瞬にして鳴り止んでいた。


「え・・・?」

一体何が・・・

目を閉じていたせいで自分の身に何が起こったのか理解出来ず、再び静寂を取り戻した世界の中でゆっくりと目を見開いていく。

最初に見えたのは、妾のいた場所から10メートル程も離れたところの木に激突したらしい猪が、微かに抉れた幹の下でぐったりと倒れ伏している様子だった。

そしてその視線を更に反対側へ振り向けてみると・・・

そこに、猪を殴り飛ばしたらしい凶悪な鉤爪の生えた自身の手を見つめている体高1.8メートルはあろうかという黒鱗を纏った大きな雄の竜が佇んでいた。

「は・・・ぁ・・・」

やがて想像だにしていなかった新たな脅威の訪れに擦れた声を漏らした妾の恐怖と絶望に染まった顔を、雄竜の双眸に嵌った薄紫色の竜眼がじっと覗き込んでくる。


妾は・・・殺されるのじゃろうか・・・

既に猪に追い回されたことで手足は深い疲労を訴えていて、絶体絶命の窮地だというのに体を起こそうという意思さえもが枯れ果ててしまっている。

だが特にこちらへ手を出すでもなくその場にそっと蹲った不思議な雄竜と至近距離から見つめ合っている内にその背に生えた1対の黒翼へ視線が吸い寄せられると、妾は右の翼の付け根に大きな傷跡があることに気付いていた。

それを見た途端に、何故か妾の脳裏に幼い頃の記憶が蘇ってくる。

"可哀想に・・・怪我をしてしまったのじゃな"

"お、お嬢様!手を出してはなりませぬ!子供とは言え竜は竜・・・指くらい簡単に食い千切られてしまいますぞ"

"そうは言っても、酷い怪我をしておるのじゃぞ。生き物を大切にせよと妾に言って聞かせたのは、爺やではないか"

自分でももう半ば忘れかけていた10年も前の微かな思い出。

あの時爺やと一緒に翼の怪我の手当てをしてやった仔竜が、目の前の巨竜と見事なまでに重なっていく。


「お、お主・・・もしや・・・あの時の仔竜なのか・・・?」

じっと無言のまま雄竜に見つめられていた妾は何とかゴクリと唾を飲み込むと、そんなか細い声を漏らしていた。

それを聞いて、雄竜が妾にもはっきりと分かるようにコクリと1度だけ頷く。

「妾を・・・覚えていてくれたのじゃな・・・それに・・・妾の命まで救ってくれたとは・・・」

そして目の前の雄竜が自分にとって危険な存在ではないと理解した瞬間に、妾は安堵の余り今度こそ完全に全身の力が抜け切ってしまっていた。

「ふぅ・・・」

そんな妾の顔を、黒竜が怯えさせぬようにということか細い舌先で遠慮がちに舐め上げてくる。

ペロ・・・ペロペロ・・・

「こ、これ・・・顔を舐めるでない・・・それにしても・・・お主は随分と義理堅い竜なのじゃな・・・」

妾はそう言いながらゆっくりとその場へ立ち上がると、結局仔竜の時に負った傷は完治しなかったのか痛々しい傷跡がそのままになってしまっている彼の右翼へそっと手を触れていた。

恐らくこの翼では、妾が危惧した通り生涯空を飛ぶことは出来ぬのじゃろう。


「む、そうじゃ!レンスは・・・早くレンスを探しに行かねば・・・!」

だがそこでようやく身を挺して自分を庇ってくれた無口な召使いの存在を思い起こすと、妾は大きな雄竜の鼻先をそっと撫でてやっていた。

「グルルルル・・・」

「妾を救ってくれて感謝するぞ・・・また会えると良いのぅ・・・」

そしてそう言って相変わらず動く様子の無い雄竜を置いてその場を離れると、さっき猪と遭遇した場所まで戻ろうと何処をどう逃げ回ったのかを懸命に頭の中に思い出す。

しかし余りに必死だった為かその試みも敢え無く頓挫してしまうと、妾は駄目で元々とばかりに大声でレンスの名を叫んでいた。


「レンス!レンスや!何処におるのじゃ!」

駄目か・・・もし先程猪に突き飛ばされた時に気を失ってしまったのだとすれば、仮に怪我をしていなかったとしても自然と目が覚めるまでに恐らく数時間は掛かってしまうことだろう。

やがて幾ら呼び掛けてみても返事など帰ってくるはずも無い虚しい静寂の中で途方に暮れていると、不意に背後から聞こえてきたガサッという茂みを揺らす音に驚いてバッとそちらを振り返る。

「な、何じゃ!?」

だが次の瞬間妾を探して長時間森の中を走り回ったのか随分と疲れ切ってしまったらしいレンスがはぁはぁと肩で息をしている姿が目に飛び込んでくると、妾はホッと胸を撫で下ろしながら彼に駆け寄っていた。

「レ、レンス!無事なのじゃな!?」

そう聞くと、彼が全身汗だくになりながらもコクコクと頷く。

「良かった・・・これで一安心じゃ・・・さあ、城へ帰ろうぞ・・・」

そして彼と共に何とか無事に城へ帰り着くと、妾はそこでようやく人心地付いたのだった。


その日の夜・・・

妾は床で眠るレンスの微かな寝息を聞きながら、薄暗い自室の天井を見上げたまま昼間の出来事を思い返していた。

10年振りに出会ったあの黒い雄竜が、大猪から妾の命を救ってくれた・・・

仮に妾を追い回していた猪をたまたま見掛けて偶然仕留めたのだとしても信じられないような奇跡だというのに、それどころかあの雄竜は幼い頃に翼の怪我の手当てをした妾のことを覚えてくれていたのだ。

この10年の間に森で他に竜の姿を見たことが無かっただけに突然現れた彼の存在には大層驚いたものの、妾はそれまで竜という生物に対して抱いていた恐ろしい怪物という印象をすっかりと塗り替えられてしまっていた。

だが・・・このことは爺やはもちろん、レンスを含めて他の誰にも言うべきではないのだろう。

たまたまあの黒竜は妾に対して害意が無かったから良いようなものの、西の森に竜が出没するなどという話が広まれば特に爺やや父上は妾が森へ散策へ出掛けることに反対するだろうことが目に見えている。

いや・・・よしんば竜の存在には目を瞑って貰えたとしても、妾がまたあの雄竜に会いたいと思っていることが知れたら流石にそれには大きな難色を示されるに違いないのだ。


それにしても・・・あの雄竜に出会った時から片時も休まずに妾の胸を締め付けているこの全身が昂ぶるような奇妙な感情の正体は、一体何だというのだろう・・・?

或いはその力強い腕で妾を護ってくれたあの雄竜に・・・妾は・・・恋心でも抱いてしまったのだろうか・・・?

何を馬鹿なことを・・・

幾ら何でもそんなこと、たとえ妾がよしとしても周囲の者達には到底受け入れられるはずが無い。

だがそんな自身の立場と正直な感情を天秤に掛ける度、妾は出口の見えない懊悩に焼かれては眠れぬ夜をただただ漫然と過ごしたのだった。


その翌日からも、妾はレンスとともに森へ出掛ける度にあの雄竜と出会えはしないものかと毎日毎日密かな期待を胸に持ち続けていた。

だがレンスに付き従って広い森のあちこちを隈なく歩き回ってみたというのに、あの雄竜の姿ばかりかその住み処と思しき場所さえ見つけることは出来なかったのだ。

あの傷付いた翼では空を飛ぶこともままならぬだろうから彼は今もまだこの森に棲んでいるのだろうと思っていたのだが、それも妾の思い違いだったのだろうか・・・?

「ふぅ・・・レンスや、少し休もうぞ・・・」

そして朝からほとんど休み無く歩き続けたことで少しばかり足に疲労が溜まってしまうと、妾はレンスに休憩を呼び掛けてから太い木の根元にそっと腰を降ろしていた。

そんな妾の傍らへ、レンスが寄り添うように座り込む。


「また・・・あの竜に会いたいのぅ・・・」

それは彼との再会を求めるが余りつい口に出してしまった、妾の心の声だったのかも知れない。

だが自分でも聞こえるかどうか怪しかった程のか細いその呟きに、妾はハッと口を噤んでいた。

あの竜と出会ったことは秘密にしておかなければ・・・

だがそう思って隣のレンスへ顔を向けてみると、彼がほんの少し首を傾げたまま妾の顔を見つめているのが目に入る。

いや・・・言葉を話せぬレンスになら、たとえ妾の秘密を打ち明けても周囲にそれが漏れる心配は無いだろう。

「実はのぅ、レンス・・・少し前に、妾が大きな猪に追い回されたことがあったじゃろう?」

それを聞くと、レンスがすぐさまコクコクとその首を縦に振る。

「お主は知らぬであろうが・・・あの時妾は、幼い頃に怪我の手当てをしてやった黒い雄竜に命を救われたのじゃ」

やがてその後に続いた妾の告白にも、レンスは顔色一つ変えないままじっと耳を傾けていた。

「じゃがまたあの竜に会ってみたくとも、どうやらこの森に棲んでいるわけではなさそうでのぅ・・・」

レンスはそれを聞いても依然として大きな反応を示すことは無かったものの、何時も朗らかな笑みを浮かべている彼の表情がほんの少しだけ曇ったような気がした。

しかしそれは妾が竜に会いたいなどという戯けた望みを持っていたことに対してというよりは・・・

どちらかというと何かに対する自責の念に近い表情だったように思える。

そんなレンスの真意までは妾には分からなかったものの、もしかしたらそれは妾を護ろうとした自身の力が及ばずに偶然にもその場に通り掛かった見も知らぬ竜にその役目を奪われてしまったことへの苦い感情だったのかも知れない。


「大丈夫じゃレンス・・・お主が、懸命に妾を護ろうとしてくれたことは良く分かっておる。感謝しておるぞ」

そう言って彼の頭を撫でてやると、彼が不意にすくっとその場に立ち上がっていた。

「どうかしたのかの?」

そう聞くと、レンスが身に着けていた水筒を開けて妾の目の前で逆さに振って見せる。

どうやら、妾と共に長い間森の中を歩いている内に何時の間にか水を飲み干してしまっていたらしい。

「水を汲んでくるのじゃな?ならば、妾の水筒にも頼みたいのじゃが・・・」

そう言って妾もすっかり空になっていた水筒を取り出すと、レンスがそれを受け取って川の方へと走っていった。

とは言えここからあの渓流まではそれなりに距離があるから、しばらくはここで待つことになるのだろう。

だが深い森の中で木の根元に座りながら10分程待っていると・・・

妾は不意に何処からとも無くズシッズシッという重々しい足音のようなものが聞こえてきたことに気付いたのだった。


一体何が・・・?

そう思ってそっと足音の聞こえてきた方へと顔を向けてみると、数日前に妾を猪から救ってくれたあの雄竜が広い木々の回廊の中をゆっくりとこちらに歩いてきているのが目に入る。

「お、お主は・・・」

やがてまさか本当にまた出会えるとは思わなかった黒竜を立って出迎えると、妾は静かにその硬い黒鱗に覆われた頬を擦り付けてきた雄竜のじゃれ合いを受け止めていた。

「グルル・・・グルルル・・・」

そして雄竜がそのままそっと地面の上に蹲ったのを目にすると、その巨体が誇る威容に少しばかり躊躇いながらも乳白色の甲殻が蛇腹状に並んでいる彼の温かな腹へ背を預けながらゆっくりと座り込む。

ファサ・・・

雄竜はそんな妾の体を優しく受け止めてくれると、妾の耳元でゴロゴロと甘えるような唸り声を上げていた。


「お主のことを・・・随分と探したのじゃぞ・・・また、お主に会いたいと思っての・・・」

そんな妾の言葉に、体を丸めるように地面へと投げ出されていた雄竜の尻尾が微かに揺れる。

「お主は人語を解しているというのに、随分と無口なのじゃな・・・」

見上げるような大きな雄竜の懐に抱かれているというのに、妾は何故だか恐怖や不安といった負の感情を微塵も感じなかったのだ。

そればかりか妾の心を直接覗き込んでくるかのようなその薄紫色の竜眼と視線を合わせているだけで、何だか心安らぐような慈しみの感情が溢れているようにさえ思えてしまう。

「そうじゃ・・・無口といえば、妾にはレンスという名の召使いがおってのぅ・・・」

だが妾がそう言うと、それまで何処か反応の薄かった雄竜がふとその首を傾げていた。

「尤も、彼は口を利けぬ故本当の名は判らぬのじゃが・・・」

分厚く硬い甲殻越しに背中へ感じる、雄竜の長く力強い心臓の鼓動。

それが、心なしかさっきまでよりも少し早くなっているような気がする。


「レンスは、とにかく妾の為に懸命に働いてくれる男での・・・現に今も、遠く離れた川まで水を汲みに行っておる」

そう言うと、妾はじっと興味深そうに妾の話に耳を傾けているらしい雄竜の顔をチラリと一瞥していた。

「じゃが妾は・・・レンスが何故これ程までに妾に尽くしてくれるのか・・・それがどうしても分からぬのじゃ」

妾が初めてレンスと顔を合わせたのは、彼を含めた8人の若者が召使いの候補として城に集められた時のことだった。

だがまだ妾と顔を合わせるよりも遥かに早い段階で、レンスは妾の召使いになることを熱望していたらしい。

もちろん幼少の頃にこの森の中で暮らしていたという境遇やあのみすぼらしかった身形から考えても、彼が恐らく日々の生活に汲々としていたのだろうことは想像に難くない。

しかしそんなレンスの事情を知った上でも、彼が単に給金目当てで妾の召使いとなることを志望したのでないことは短い期間ながらも彼と共に過ごした今だからこそはっきりと断言出来る。

「妾は・・・一体どうしたらあの忠実な若者に報いてやれるのじゃろうな・・・」

そんな妾の独白に、雄竜が何処か神妙な面持ちを浮かべながら聞き入っているらしい。

「レンスに面と向かってそれを訊いてみたい気もするのじゃが、彼は恐らく答えてはくれぬじゃろうしの・・・」

雄竜はそれを聞くと、まるで刃のように鋭く尖った竜爪を触れてしまわぬように気を付けながらそっとその大きな手で妾の肩を優しく撫でてくれていた。


「お主は、不思議な竜なのじゃな・・・こんな妾の他愛も無い悩み事を、ただ黙って聞いてくれるのじゃから・・・」

何故だろう・・・この雄竜にずっと抱え込んでいた悩みを打ち明けただけで、少し胸が軽くなったような気がする。

「グルル・・・」

「さて・・・そろそろレンスが戻ってくる頃合いなのじゃが・・・お主の姿を見て腰を抜かさねば良いがのぅ・・・」

だがそう言うと、雄竜はそっと妾をその場に残したまま静かに体を起こしていた。

「何じゃ、もう行くのか?」

そう訊くと、雄竜が小さくコクリと頷く。

「そうか・・・ならば1つだけ・・・お主に言っておきたいことがあるのじゃ」

そしてずっと雄竜に言おうかどうか迷っていた言葉を口にする心の準備を整えると、怪訝そうな眼差しでこちらを見つめている彼と真っ直ぐに見つめ合う。

「人間の・・・それも一国の王女の身分である妾がこんなことを言うのははしたないと思われるかも知れぬが・・・」

その先に続く言葉を予期したのか、雄竜の顔に目に見えた動揺の色が微かに揺れていた。


「どうやら妾は、お主に恋心を抱いてしまったようなのじゃ・・・」

「グル・・・?!」

流石にその告白には無言と無表情を保っていることが出来なかったのか、妾がそう言うなり雄竜がビクッとその巨体を震わせる。

「もちろん、それが叶わぬ想いなのは十分に承知しておる。じゃがどうしても、お主には言っておきたかったのじゃ」

「グル・・・ルルル・・・」

それはどういう反応をしたら良いか分からないという混乱か・・・

或いは小さな人間から唐突に告白されたことへの激しい感情の発露なのか・・・

妾はこんなにも巨大な体躯を誇る森の覇者とも言うべき竜という生き物が、これ程までに多彩な感情を表に出すものなのだということを今初めて知っていた。

そしてどうにか感情の昂ぶりを落ち着けたのかそっと妾に向けて頭を垂れると、彼はそのままとぼとぼと何かを思い悩んでいるかのような重い足取りで森の奥へと消えていったのだった。


それからしばらくして・・・

妾は遠く道の向こうから2つの水筒を持って必死にこちらへ走ってくるレンスの姿を目にして、やれやれとばかりに小さく息を吐きながら腰を上げていた。

だがフゥフゥと息を荒げながら妾の許までやって来たレンスから自分の水筒を受け取ると、彼がどういうわけかほんの少しだけ顔を赤らめながら妾から目を逸らす。

「どうかしたのかレンス・・・?随分と遅かったようじゃが・・・」

妾がそう言うと、レンスが何でもないとばかりにフルフルと首を振っていた。

「ふむ・・・実はのぅ・・・ほんのつい今し方まで、ここにさっき話した黒竜がいたのじゃ」

やがてそれを聞いたレンスが、その顔にあからさまな驚きの表情を浮かべる。

「もう少し早く戻ってくればお主も出会えたかも知れぬのに・・・残念じゃな」


その言葉に少しばかりしゅんと落ち込んだらしいレンスを見やりながら、妾は内心レンスがこの場にいなかったことに安堵していた。

口が利けぬ以上レンスの胸の内など知る術もないのだが、少なくとも妾に対してこれ程までに恭順を貫くからには彼の心に妾に対する何らかの特別な感情があったとしてもおかしくはない。

もちろん召使いという立場を弁えているレンスはそんな感情を決して表には出さぬのだろうが、それでももし目の前で妾があの雄竜に恋心を抱いたことを告げれば彼が傷付いてしまう可能性は否めなかった。

「何じゃ?そんなことで気落ちしていてはお主らしくないぞ」

だがそれを聞いて元の朗らかな笑みが彼の顔に戻ってくると、妾は再び彼と共に楽しい森の散策へと繰り出したのだった。


それから数ヶ月後・・・

妾は16歳の誕生日を迎えるなり、父上に玉座の間へと呼び出されていた。

「父上・・・突然呼び出すとは、妾に一体何用なのじゃ?」

「エリス・・・お前も今日でもう16歳になる。そろそろ、結婚を考えても良い歳ではないか?」

父上は険しい表情を浮かべながらそう言うと、傍らにいた爺やへとその視線を向けていた。

それを受けて、爺やが手にした書簡をそっと妾の方へと持ってくる。

「お嬢様・・・西方の隣国の第二王子より、求婚の書簡が届いております。これを・・・」

「結婚・・・」

妾は全く予想だにしていなかったその言葉に、半ば上の空のまま爺やから書簡を受け取っていた。


西方の隣国・・・ということは、あの岩山を越えた先にあるタイニー王国のことだろう。

タイニー王国はその更に西方に広がる広大なノーランド王国と東方の岩山に挟まれた立地の為に国土が狭く、妾の国と規模的にはほとんど変わらぬ小国だと聞いている。

恐らくは王位の跡を継げぬ第二王子が、妾がゆくゆくは女王になるだろうことを見越して今の内にその婿になっておこうと画策しているのに違いない。

だが試しに書簡に目を通してみると、妾は余り新鮮味の無い求愛の言葉が並んでいるという以外の感想を引き出すことが出来なかった。

それにこれ自体もまだ届いて間も無い新しい書簡でもないようだから、恐らくは以前届いたものを妾が16歳になった折を見計らって出してきたのだろう。


「父上、妾は結婚などまだ考えてはおらぬ。それに、相手の顔も見ておらぬのでは決めようがないではないか」

「それはワシとて分かっておる・・・故に拙速に決める必要は無いが、もうそういう時期なのだと覚えておけ」

妾はそんな父上の言葉に肩を落とすと、そのまま玉座の間を後にしていた。

「ふぅ・・・妾宛てに、こんなものが来たらしいぞ」

そして部屋の外で待機していたレンスに持っていた書簡を渡すと、それに目を通した彼が何が書いてあるのか読めなかったらしく小さく首を傾げる。

「隣国の王子が、妾に結婚を申し込んできたそうじゃ」

だが妾がそう言うと、レンスが大層驚いた様子で持っていた書簡をその場に取り落としていた。

「尤も、妾にはまだそんな気は無いのじゃが・・・父上も少々気が早過ぎるわ」

それを聞いて少し落ち着きを取り戻したのか、レンスが無言のまま落とした書簡を拾い上げる。

「じゃが書簡が来た以上無視を決め込むわけにもいかぬじゃろうし、明日にでも件の王子の顔を見にいってみようぞ」

レンスはその妾の提案には流石に諸手を挙げて賛成というわけにはいかなかったらしいものの、かといって面と向かって反対も出来なかったらしく何処か渋い顔をしながらも小さく頷いたのだった。


その日の夜・・・

何時ものように妾の部屋の床で丸くなったレンスは、珍しいことに上手く寝付けないらしかった。

もしかしたら彼は、昼間妾が隣国の王子から求婚されたという事実に想像以上に大きな衝撃を受けたのかも知れない。

少なくとも召使いとしての仕事は完璧と言っても良い程にテキパキとこなすレンスが動揺の余り持っていた書簡を取り落としたことから考えても、やはり彼は妾に対して並々ならぬ感情を抱えているのだろう。

明日は少しばかり遠出して隣国の町にまで足を伸ばしてみようと思っているのだが、そういう意味ではレンスにとっては少しばかり心苦しい外出になるのに違いない。

娘の婚姻を望む父上は1度隣国の王子に会ってみたいという妾の提案を快く受け入れてくれたものの、無言のまま心を痛めているのだろうレンスの姿を目にする度に自身の胸まで締め付けられるような罪悪感が込み上げてくるのだ。

隣国へ行くには馬車を使って丸1日掛けながら西の岩山を迂回するのが普通なのだが、徒歩であれば真っ直ぐ岩山を突っ切って3、4時間程も歩けば辿り着けるということだから上手くすれば日帰りすることも不可能ではないらしい。

もちろんその為には森の内情に詳しいレンスの道案内が不可欠なだけに彼にはどうしても同行して貰わざるを得ないのだが、彼に辛い思いをさせてしまうのではないかという危惧がずっと妾の胸の内にこびり付いていた。


翌朝、妾は普段より1時間程早く目を覚ますと心地良い二度寝の欲求を断ち切ってそっとベッドから這い出していた。

それに気付いたレンスが、素早く起き上がって妾の着替えの準備を整えてくれる。

昨夜はやはり十分な睡眠が取れなかったのか彼の顔には何処と無く憔悴しているような気配が読み取れたものの、それでも何とかぎこちない笑みを浮かべて平静を装っているらしい様子に妾は密かに奥歯を噛み締めていた。

「ふむ・・・今日は珍しく空が曇っておるな・・・」

やがて朝食もそこそこに城を出発すると、まるでレンスの心の内を映しているかのようなどんよりと曇った空を見上げながらふとそんな声が漏れ出してしまう。

きっと妾は、静かに妾を案内するレンスとの間に流れる暗い沈黙に耐えられなかったのだろう。

だが普段散策している森の中を更に西方へ向かって歩き続けると、いよいよ険しい岩山に差し掛かった妾はレンスと肩を寄せ合うようにして急な坂道を登っていったのだった。


「ふぅ・・・ふぅ・・・」

普段足場の悪い森の中を何時間も平気で歩いているはずの妾が思わず息切れしてしまう程の、峻険な岩山の細道。

ふと後方を振り返れば、眼下に妾の城が随分と小さく見えている。

だがいよいよ山越えという岩山の中間地点にまで差し掛かると、妾は深い谷に架けられていた大きくしなる吊り橋に目を瞠っていた。

下まで優に数百メートルはありそうな谷底には町まで流れ込んでいるのだろうあの川が流れていて、微かに左右へ揺れる吊り橋が50メートル程向こうにある崖に向かって長い弧を描いている。

「こ、ここを通るのか・・・?」

そんな妾の問い掛けに、レンスがコクコクと頷いていた。

成る程・・・確かに道の途中にこんな吊り橋があったのでは、馬車では山越えが出来ないわけだ。

吊り橋の幅は人間が2人並んでも何とか通れる程度には広く足場の板も厚く丈夫そうな物が使われているのだが、やはり谷底の川が細い線のようにしか見えない程の高所に架けられているという事実が妾の足を竦ませていく。

とはいえ、流石にここまで来て引き返すという選択肢は無いだろう。

そして妾を勇気付けるように先頭に立って吊り橋を渡り始めたレンスに続いてグラグラと揺れる踏み板へ足を踏み出すと、妾は左右の太いロープを両手でしっかりと握り締めたのだった。


ギィ・・・ギィ・・・ギシ・・・

如何に造りの丈夫な吊り橋であろうとも、谷風が吹けば多少は左右に揺れるもの・・・

妾はなるべく下を見ないようにと自分に言い聞かせていたものの、そうかといって板を踏み外しては元も子も無いだけに慎重に足下を探りながらただただ前に進むことだけを考えていた。

レンスはこの高所にもまるで怖気ていない様子ですんなりと吊り橋を渡り切ると、少しでも揺れを抑えようということなのか向こう側からロープを両手で押さえてくれているようだ。

そしてそんな彼の健気な様子に妾も勇気を奮い起こすと、何とか10分程の時間を掛けて長い吊り橋を渡り切ったのだった。


城を出発してからここまで登ってくる時には2時間余りも掛かったというのに、それから岩山を下りて隣国の城下町まではその半分程度の時間で辿り着いていた。

「ここがタイニー王国の町なのだな!」

妾の国とは趣の異なる身形の人々や、無数の露天が並び活気に溢れた町並み。

国土の広さとしては妾の国と同程度だと聞いていたのだが、やはり異国というものはその大小にかかわらず独特の雰囲気を放っているものらしい。

空は今にも雨が降り出しそうな程の厚い黒雲に覆われていたものの、妾は王子の顔を見に来たという当初の目的をよそに賑やかな町中を巡り歩いたのだった。


それからしばらくして・・・

レンスとともに物珍しい隣国の町並みを堪能していると、やがて王城の方から馬に乗った10人程の一団が町の方へやってくるのが目に入る。

恐らくは護衛なのだろう兵士達の群れの先頭にいるのは豪奢な赤いマントを纏った20歳程の王子らしく、その後方にも同じような煌びやかな衣装を纏った少し若い王子が続いているようだ。

妾はそれを目にすると、近くで露店を開いていた中年の男に訊ねていた。

「済まぬが・・・もしやあれがタイニー王国の王子なのか?」

「ええ?ああ、そうだよ。先頭がミルス第一王子、その後ろがマリス第二王子だ。あんた、異国の人なのかい?」

「う、うむ・・・まあ、そんなところじゃ」

流石に隣国の王女が召使い1人とお忍びでやってきているとは夢にも思わなかったのか、彼が怪訝そうな表情を浮かべながらもそう答えてくれる。


「あれが、妾に求婚の書簡を送って寄越したマリス王子か・・・」

妾は周囲の誰にも聞こえぬ程の小さな声でそう呟くと、南方の森へ狩りにでも出掛けるつもりなのか大きな弓と矢筒を背負った第二王子の顔を間近から観察していた。

何の変哲も無い平凡な求愛の言葉を送ってきた男という印象とは裏腹に、その凛々しい顔立ちと美しい宝石のような青緑色の瞳がそれを目にした女性を悉く恋に落としてしまう程の強烈な印象を放っている。

妾の隣でマリス王子の顔を見ていたレンスも、恐らくは妾と同じような感想を抱いたのだろう。

だが何処か優男という印象が拭えない第一王子とは違って正に絶世の美男という表現が似合う程のマリス王子の顔を見ても、妾は特にこれといった特別な感情を抱かなかった。

まあ、それもそのはず・・・今の妾の恋心は、森で出会ったあの黒竜に一心に向けられていたからだ。

確かにマリス王子はハンサムで女心を射抜くのに十分過ぎる程の魅力を備えてはいたものの、それでさえあの力強い腕で妾の身を護ってくれた黒竜に勝る程のものではなかったのだろう。


「取り敢えず、これで目的は達したの・・・レンスや、そろそろ帰るぞよ」

妾は町中を通り過ぎて遠くに消えていった王子達の一団を見送ると、苦虫を噛み潰したような渋い顔を浮かべていたレンスにそう声を掛けていた。

そしていよいよ帰り支度を始めようとしたその時、冷たい雫が妾の首筋にポタリと垂れてくる。

ポツ・・・ポツポツ・・・ザアアァ・・・

「む・・・雨が降り始めたようじゃな・・・少し雨宿りしていくか・・・」

まるで決して敵わぬ恋敵を目にしたレンスの心が泣いているのではないかと思えるような、余りにも唐突なにわか雨。

だが妾がそう言いながら屋根の下へ入ろうとしたのを、レンスがそっと引き止める。

どうかしたのかと思って背後を振り向いてみると、彼が心配そうな顔で空を見上げながらフルフルと首を振っていた。


「何じゃ、雨宿りなどせずにすぐに帰ろうというのか?」

そんな妾の問い掛けに、レンスがうんうんと頷く。

レンスは恐らく、待っていてもこの雨はしばらく止みそうにないと考えているのだろう。

確かに楽しい町中をあちこち巡ったお陰で、もう時刻は午後の3時過ぎ・・・

まだ夕刻という時分ではないものの、この雨雲では暗くなるのも早いのに違いない。

元より日帰り旅行のつもりで特にお金の持ち合わせも無かった故にこの町で夜を明かすのも億劫だし、今の内に山を越えて帰ろうというレンスの申し出も確かに一理あるだろう。

「仕方が無いのう・・・」

妾はそう言って念の為に用意しておいた小さな傘を取り出すと、レンスと共に東の岩山へと急いだのだった。


「ふぅ・・・ふぅ・・・なかなかにしんどいのぅ・・・」

下りてくる時には1時間程で済んだはずだというのに、徐々に激しさを増す大雨の中で峻険な岩山を登るのは想像以上に体力の要る作業だった。

普段は疲れなどまるで感じぬ程に元気なレンスも、時折妾に肩を貸して歩いているせいかかなり疲弊しているらしい。

やがてタイニー王国の町を出発してから2時間程の時間を掛けて何とか急な坂を登り切ると、妾はもう大分薄暗くなってしまった空を見上げながら小さく溜息を吐いていた。

「少し風も出てきたの・・・まるで嵐が近付いているようじゃ」

その妾の言葉に、レンスが神妙な面持ちで頷く。

だがそれからしばらく歩くと、妾は帰り道に横たわっていた最大の障害をそれを実際に目にした今になってようやく思い出したのだった。


そこにあったのは目も眩むような高所の谷間に架かる、長い長い吊り橋。

それが激しい風雨に煽られて、ギシギシと軋んだ音を立てながらゆっくりと左右に揺れている。

「こ、ここを渡るのか・・・」

とは言え、城へ帰る以上この橋を渡らなければ大きく岩山を迂回する以外に方法が無いのもまた事実。

そして漆黒の闇に染まる深い奈落の恐怖に足が竦んでいた妾にレンスがにこりと微笑むと、彼もまた緊張の面持ちを浮かべながらゆっくりと吊り橋を渡り始めていた。

ギィ・・・ギィ・・・

横から吹き付ける谷風が不規則に揺らす吊り橋の上を、それでもレンスが着実に渡っていく。

恐らく渾身の力が込められているのだろう左右のロープを掴んだ彼の手には微かに青筋が浮かんでいて、妾はレンスがこれ程までに必死に恐怖を押し殺している姿を初めて目にしていた。


だがそれもこれも、全てはこの妾を勇気付けようとしてのこと・・・

妾はそれに気が付くと、片手で傘を持ったままそろりと踏み板の上に足を踏み出していた。

大丈夫・・・足場は広くしっかりしているし、もう片方の手でしっかりロープを掴んでいればどうということはない。

それに妾は数時間前に1度、もうこの吊り橋を渡り切っているのだ。

今更風で多少揺れるくらい何だというのか。

そしてそんなふうに自分に言い聞かせながら更にそろそろと歩き続ける内に、最も吊り橋が水平になった中央で妾を待ってくれていたらしいレンスへとようやく追い付く。

やがて"大丈夫?"とでも言わんばかりに妾の顔を心配そうに覗き込んでくるレンスに小さく頷いてやると、彼が再び妾を先導しようと前方へ顔を振り向けていた。

だが・・・正にその時だった。


ゴオオオッ!

突如として谷底から勢い良く吹き上げてきた吊り橋ごと持ち上げるかのような強烈な突風が、傘を持っていた妾の体をフワリと中空へと跳ね上げた。

「ひっ!」

不意に体を持っていかれそうになった傘の方に思わず力を込めてしまったせいで、意識の外れた反対の手からロープが敢え無く引き剥がされてしまう。

そしてあっと思った次の瞬間には・・・妾の体は細いロープを飛び越えて吊り橋の外へと投げ出されてしまっていた。

「あああああああっ!」

だが吊り橋から転落したという絶望的な状況にもかかわらず上方を見上げると、妾の悲鳴に気付いて背後を振り返ったレンスがそこに誰もいなかったことに驚愕の表情を浮かべたのが何故かはっきりと見て取れてしまう。

やがて周囲に流れる時間の感覚が酷くゆっくりになったかのようなその死に際の錯覚の中で・・・

妾は自身の落下よりも遥かに信じられない光景を目の当たりにしていた。


妾の転落に気付いたレンスが、谷底を見下ろすよりも早くあっさりとその身をロープの外へと投げ出したのだ。

「レンス!」

そして何を思ったのか妾と共に落下し始めた彼と目が合った次の瞬間・・・

突然雷光の如き眩い閃光が妾の視界を純白に染め上げる。

ピカッ!

「うあっ!」

だが雷が落ちた割には雷鳴が聞こえなかったことに疑問を感じながら閃光に焼かれた目を開けてみると・・・

さっきまでレンスがいた場所に、あの黒い鱗を纏う雄竜が姿を現していた。

「なっ・・・レンス!?」

「グオオオオッ!」

バサッ!バサ・・・バサァッ!

そして幼少の頃に負った傷のせいでロクに動かないのだろうその黒翼を懸命に羽ばたきながら、彼が思わず反射的に彼の方へ伸ばした妾の腕を掴もうと必死に急降下する。


「グオッ・・・グオオッ・・・!」

ガシッ・・・!

やがてそんな彼の願いが通じたのか・・・

雄竜はその大きな手で伸ばした腕を掴むと、妾の体をしっかりと懐へ抱き抱えていた。

だが何を思ったのか、彼が羽ばたくのを止めると大きく翼を広げたままクルリとその身を仰向けに引っ繰り返す。

ゴオオオオオオオ・・・

「レ、レンス!何をしておるのじゃ!は、早う飛び上がらねば・・・!」

そしてそこまで叫んだ時、妾はようやく彼の意図を理解していた。

きっと彼は、翼の傷のせいで独りでも宙を舞うことが出来ないのに違いない。

そんな状況では当然妾を抱えたまま飛ぶことなど出来るはずも無く・・・

彼はせめて妾の命だけでも護ろうと、その身を犠牲にするつもりなのだ。

猛烈な勢いで近付いてくる谷底の気配を背に浴びながらも、レンスの決死の覚悟が妾を掻き抱く彼の腕から直に伝わってくる。

「ま、待てレンス!駄目じゃ・・・このままではお主が・・・レンッ・・・」

ドッパアアアアアアアン・・・・

だがそんな妾の叫び声は、突如として全身に走った凄まじい衝撃と着水音に掻き消されて山間の闇の中へと空しく消えていったのだった。


「う・・・うぅ・・・」

仄かに瞼を擽る、眩い朝日の気配。

やがて意識を取り戻した妾はゴツゴツとした地面の上に体を横たえていたらしいことに気が付くと、自身の身に起こったことを思い出してハッと目を開けていた。

「ここは・・・」

そこにあったのは微かにだが見覚えのある、丸い砂利の敷き詰められた川縁。

恐らくは大雨で増水した谷底の川から、ここまで流されてきたのだろう。

「そ、そうじゃ、レンスは・・・?」

妾は少し節々が軋む以外には特に怪我をしていないらしいびしょ濡れの体を起こすと、そっと周囲を見回していた。

すると妾から少し離れたところに、あの黒竜がぐったりと蹲っているのが目に入る。


「レ、レンス・・・うっ・・・」

だが彼の姿を直視した瞬間、妾は心の内に芽生え掛けた安堵の感情が一気に吹き飛んでしまったのを感じていた。

高所からの着水の衝撃か、或いは激流に流され揉まれる内に岩や漂流物に激突したのか・・・

元々傷付いていた彼の右翼は完全に引き千切れて無くなっていて、残った左翼も翼膜が破れズタズタになっている。

全身を覆う堅牢なはずの竜鱗には恐らく流されている内に負ったのだろう数え切れない程の深い傷が刻まれていて、彼がここへ辿り着くまでに必死で妾の体を抱き抱え護ってくれたことを如実に示していた。

そして何よりも恐ろしいことに・・・

千切れた右翼の付け根から滴り落ちる真っ赤な鮮血が、彼の周囲の砂利を真紅に染め上げていたのだ。


「レ、レンス・・・!」

妾はピクリとも動く気配の無いレンスの鼻先に駆け寄ると、まだ微かに息があるらしい彼の顔を必死に揺すっていた。

その刺激で意識を取り戻したのか、レンスがほんの少しだけその薄紫色の竜眼を開く。

「レンス・・・お主は何故・・・何故妾の為にここまでするのじゃ・・・」

「グル・・・ゥ・・・」

やがてそんな問い掛けに、妾の姿を目にした彼が何処か安心したような唸り声を上げる。

それを聞いた瞬間、妾は愚かにも今更になってようやく彼の心の内を理解していた。

妾に求婚の書簡を送って寄越したマリス第二王子を目にした時の悔しそうな彼の姿を見て、妾は召使いのレンスが自分に惚れ込んでいるのだということを内心確信したのだ。

それはつまり・・・妾がこの雄竜に対してそうだったように、彼もまた妾のことを・・・


「レンス・・・妾が悪かった・・・お主の心の内に気付けず・・・辛い思いをさせてしまったのじゃな・・・」

「グ・・・ゥ・・・」

彼はそれを聞くと、人間だった時の彼のような穏やかな笑みをその顔に浮かべていた。

そしてそのまま、ゆっくりと眼を閉じてしまう。

「ああ・・・駄目じゃ・・・レンス・・・目を開けるのじゃ・・・」

妾を護ろうと片翼を失い激流に翻弄されて多くの血を失った彼の命は・・・今正に尽き掛けてしまっていたのだろう。

「頼む・・・死ぬでないレンス・・・これは命令じゃ・・・レンス・・・レンスや・・・うああああっ・・・!」

だが妾がどれ程懸命に呼び掛けても、その細腕でどんなに必死に彼の身を揺すっても・・・

まだその大きな体からはほんのりとした温もりが伝わってくるというのに・・・

彼はもう、二度と妾の前で目を開けてはくれなかったのだ。


それから、妾は一体どうやって自分の城へ帰ったのだろうか・・・

ふと気が付けば、妾は残酷なまでに美しい夕焼けに染まった空の下で失意に塗れたまま城へと辿り着いていた。

「国王様!お嬢様が・・・お嬢様が戻られましたぞ!」

「何だと!?エリスは無事か!?」

日帰りするはずが丸1日半も行方が分からなかった妾が全身びしょ濡れのまま戻って来たことに城内は一事騒然となったものの、レンスの姿が無かったことでどうやら爺やだけは粗方の状況を読み取ったらしい。

そしてまずは妾を落ち着かせようと体を洗い服を着替えさせて自室に独りにさせてくれると、妾は広いベッドの上に崩れ落ちたままそこで初めて大声を上げて泣き叫んだのだった。


その日を境に・・・

王女エリスは森へ散策に行くことを自らに禁じると、まるで人が変わったように熱心に勉学に打ち込むようになった。

その変貌振りは彼女が幼い時分から長年に亘って面倒を見てきた執事にさえ別人の疑いを抱かせる程で、毎日寝食の時間を惜しむように部屋に閉じ篭っては薄明かりの下で本を読む彼女を大層心配したという。

「エリスは一体どうしたというのだ?タイニー王国から帰ってきたあの日以来、ワシにはロクに口も利いてくれぬぞ」

「何でも・・・お嬢様は城へ戻る途中、激しい嵐に煽られて召使い諸共西の岩山の吊り橋から転落したそうで・・・」

「何?まさかあの山頂付近にある吊り橋のことを言っておるのか?谷底まで一体どれ程の高さがあると・・・」

そんな国王の言葉に、執事が同意するように小さく頷いていた。

「不思議なことに、お嬢様はどうやって自分が助かったのかは覚えておられぬそうですが・・・」

執事がそう言うと、国王が少しばかり怪訝そうな表情を浮かべる。

「恐らくは雨で川が増水していたのが幸いしたのでしょう。ただ、共に転落した召使いは今も行方不明とのこと」

それを聞いた国王が、ふぅと大きな息を吐き出しながら玉座に深く腰掛けていた。


「確か、レンスという名の言葉を話せぬ若者だったな・・・エリスが随分と可愛がっておったようだが・・・」

「はい。念の為例の谷底から城下町まで川縁を捜索させてみましたが、特にこれといった発見はありませんでした」

「そうか・・・しかし、エリスのあの変わりようは不気味だな。これまでは勉学など毛嫌いしておったというのに」

確かにエリスは執事が付いていた時も森へ出掛けるのこそ週に2度の頻度だったものの、そうでない時間も大抵は自室に篭ったり城下の町に繰り出して遊び呆けていることが多かった。

如何にエリスが唯一懐いていた執事といえども彼女の意識を遊び以外の事象へ向けることだけは出来なかったらしく、それ故にまるで何かに取り憑かれたかのように勉学に励むエリスの姿を見て最も驚いたのが彼だったのだ。

「ご自身の行動の結果としてレンスを失ったことで、お嬢様にもきっと何らかの罪の意識が芽生えたのでしょう」

「うむ・・・それも、そのレンスという者の手柄なのかも知れんな・・・」


コンコン・・・

「誰じゃ?」

妾は不意に誰かが部屋の扉を叩いた音に読書を中断すると、そんな誰何の声を上げていた。

「お嬢様、お入りしてもよろしいですか?」

「爺やか・・・構わぬぞ」

そう言うと、爺やがゆっくりと扉を開けて妾の部屋の中へと入ってくる。

「お嬢様・・・晩餐の準備が出来ております。食堂へ降りて来られては如何ですか?」

「晩餐は要らぬ・・・誰かに、妾の部屋へ軽食でも運ばせてくれぬか」

「かしこまりました。ですが余り無理をなされるとお体に障ります故、少し休憩をなされては・・・」

それは、恐らく爺やの本心から出た言葉なのだろう。

無論、妾もこれがただの現実逃避であることは十分に自覚している。

妾が森への散策に出掛けなくなったのも・・・行けばきっと妾はあの川縁へと足を向けてしまうことだろう。

そしてそこで無惨な姿となったレンスの亡骸を目にして、またあの底無しの深い悲しみを味わうのに違いない。

それに・・・本当に結婚などするつもりは無いというのにマリス第二王子の顔を見たいなどと言って妾がレンスを隣国に連れ出したことが、彼を永遠に失う切っ掛けとなってしまったのだ。

まさか人の身に化ける竜がいるなどとは夢にも思わなかったせいで妾は最後までレンスの正体に気付くことは出来なかったものの、彼が妾に想いを寄せていたことは分かっていたはずなのに・・・

何故に妾は、あの物言わぬ召使いの心を汲んでやることが出来なかったのだろうか・・・?


その激しい自責の念がこれまで長年疎かにしてきた女王となる為の勉学へと向けられたのは、ある意味で当然の成り行きだったのかも知れない。

幼い頃に翼の傷の手当てをしてやっただけの仔竜がその記憶を頼りに妾に尽くし、あまつさえ己の命を犠牲にしてまで妾を護ってくれた・・・

出遭えばおよそ命は無いだろうとまで言われる恐ろしい魔獣という印象しか持ち得なかった竜という生物に淡い恋心さえ抱かせる程、彼は妾の心の中でも随分と大きな存在に膨れ上がっていたのだろう。

それを唐突に失った今、妾はぽっかりと心の中に開いてしまった大きな穴を自力で埋められる程の気丈さを持ち合わせてはいなかったのに違いない。

そんな今の妾に出来ることは、レンスのあの献身が決して無駄ではなかったと思えるように・・・

これまでの自堕落だった己を律して懸命に勉学に励み、立派な女王となることだけだったのだ。


城の書物庫に貯蔵されているだけでも数万冊はあろうかという歴史書や文化、文明、言語などについて綴られた本を読み進めていく内に、妾はどうしてこれまで勉学というものをあんなにも毛嫌いしていたのか疑問を抱き始めていた。

この周辺にある国々の歴史を紐解けば、タイニー王国の西方にあるノーランド王国というのは余りにも強大な武力を持った国であったが故に他国から戦争を仕掛けられたことが無かったそうだ。

だがそうかといって歴代のノーランド王は周辺諸国を侵略するような邪な意思も持たなかったらしく、あくまでも平和な国家であり続けようとしたらしい。

しかしそんなノーランドが、過去にたった1度だけその武力を用いたことがあったという。

ノーランドの周辺に広がる森に棲んでいた人間に姿を変えることの出来る人喰い竜達が森の中に走る街道を行き来する人々を襲っていたことで、その殲滅に乗り出したのだ。

その結果として森に棲んでいた竜達は多くが姿を消したということだったが、その実態は故郷の森を離れていったり人間に化けて人間の町で暮らすようになったということだった。

更には人間に姿を変えた竜はその髪の色が元の体色となる為に、黒髪の多いこの地域では黒髪でない人間に竜の疑いが掛けられたり差別的な目が向けられたりすることが多かったのだという。


妾がもっと幼い頃から真面目に勉学に励んでおれば・・・

或いはこうした事実を、レンスと出会う前に知ることが出来たのかも知れない。

あの雄竜は黒い体色だったが故に髪の色で彼の正体を看破することは難しかったのかも知れないが、少なくともそういう種の竜がこの地域に存在していたことを知っていればレンスに対する見方は変わったはず。

今にして思えば、妾はどうして召使いのレンスが竜だと見抜けなかったのかが不思議でしょうがなかったのだ。

だが・・・あの召使いの正体が竜だったことについては、きっと爺やを含めて誰にも打ち明けぬ方が良いのだろう。

そう思って爺やには吊り橋から転落した妾がどうやって助かったのか覚えていないと言ってあるのだが、あの長い長い数秒間は今も鮮明に妾の眼に焼き付いていた。


動かぬ翼を懸命に羽ばたきながら落下する妾に追い付き、文字通りその身を犠牲にしてまで身を護ってくれたレンス。

その上雨による増水のお陰で深くなっていた川へ落ちた後も、彼は妾を抱き抱えたまま無数の漂流物に揉まれ、川底の岩に叩きのめされ、幾度も幾度も滝へ呑まれたのに違いない。

そんな人の身であれば到底耐えられぬような修羅場を潜りながら、奇跡的にも彼は妾の体に小さな掠り傷さえ負わせることはなかったのだ。

だがレンスが死んだのは・・・レンスを・・・殺したのは・・・他の誰でもない、この妾・・・

妾が王子の顔を見たいなどと言って、彼を隣国への旅行に連れ出したりしなければ・・・

雨を気にして傘など差さず、しっかりと両手で吊り橋のロープを掴んでおれば・・・

「レンスを・・・死なせることは無かったはずなのじゃ・・・」


妾は本を開いて持っていた両手をギュッと力強く握り締めながら、時折押し寄せてくる深い後悔の念に毎日のように焼かれ続けていた。

どんなに泣くのを堪えようと思っても、彼が妾の眼前で永遠に目を閉じてしまったあの瞬間を思い出すだけで大粒の涙が止め処無く溢れ出してきてしまう。

「うっ・・・うう・・・」

まるで心を直接抉られるかのような、埋めようにも埋め難い深く大きな虚無感。

もうレンスが逝ってしまったあの日から早いもので数週間が経ったというのに、ほんの少しでも本から意識を逸らしただけでそんな悲しみに全てが押し流されそうになってしまうのだ。

きっとこの心の傷は、妾が生涯背負って生きていかなくてはいけない重い十字架なのだろう。

やがて薄暗い部屋の中で召使いが持ってきた軽食を口へ運ぶと、妾は今にもポッキリと折れてしまいそうな脆い心を抱き抱えながら懸命に声を押し殺して泣き続けたのだった。


それから、あっという間に8年余りの月日が経ち・・・

25歳の誕生日まで約半年程に迫ったある日、妾は再び父上から玉座の間へと呼び出されていた。

既に爺やは5年程前に城付きの執事を引退し、今は城下町で静かな余生を過ごしているという。

それ故に今日は8年前のあの日とは違って父上の傍には他に誰の姿も無かったものの、その用件がまたしても妾の結婚についてなのだろうことは容易に想像が付いた。

「エリス・・・まだ、結婚相手を探す気にはならぬのか?」

「父上には申し訳無いが・・・妾はまだそんな気にはなれそうもないのじゃ」

「だが、もうあれから8年も経つのだぞ?お前の傷心も分からぬではないが、ワシは心配なのだ」

もちろん、そんなことは妾にも分かっている。

誰と結婚しようとも王家の嫡男の居ないこの国では形式上は妾が女王となり、夫はあくまでも妾の補佐という役に落ち着くことになるのだ。

そういう意味では、最早父上は妾が結婚さえしてくれるなら相手は王族や貴族でなくても構わないという認識なのだろう。

この8年の間にも妾に求婚の書簡を送ってくる男は数多くいたものの、妾はそれら全てに目は通した上で申し出を断っていたのだった。


やがてかれこれ十数分にも及んだ父上との不毛な押し問答が終わると、妾は自室に戻って中断されていた読書へと舞い戻っていた。

「む・・・そう言えばまた妾に書簡が届いておったな・・・」

だが栞を挟んでいたページに目を向けたほんの数秒後、ふと机の端に置かれていた紙束が妾の目に飛び込んでくる。

レンスを失った悲しみを忘れようと、来る日も来る日も半ば自暴自棄気味に勉学へと打ち込んできたこの8年間・・・

森へ遊びに出掛けていた頃とは違って極めて単調な生活を長らく続けていた反動もあったのか、妾は何時の間にか時折城へと届けられる書簡に目を通すのが唯一の趣味となっていたのだ。

そして手にしていた本をそっと机の上に伏せると、今日もやたらと量だけは多い書簡の山を手に取ってみる。

「どうやら・・・また求婚の書簡らしきものが幾つか混じっておるな・・・」

まあ、これは後回しでも良いだろう。

妾の婚姻を望む父上には悪い気もするが、妾はまだ結婚などという慶事を脳裏に思い浮かべられる程に安寧な心を持ち合わせてはいなかった。

それ程までに、あの愛しい雄竜と召使いを同時に失った妾の心の傷は海よりも深いものだったのだろう。

どうせ受ける気の無い求婚の書簡を読むなど、妾にとっては精々気分転換の余興という程度の認識だったのだ。


「これは父上のご友人から・・・これもそうじゃな・・・当然と言えば当然じゃが、父上は顔が広いのぅ・・・」

明らかに自分宛ての物とそうでない物を仕分けしながら、封のされていない書簡については内容に素早く目を走らせる。

「こっちはマレーナ国から交易馬車の増便の件か・・・ここ数年、あそこの王妃は国力増強に随分と精力的じゃな」

マレーナと言えば以前はどんなに軽微な罪を犯してもすぐに衛兵に捕まり城の地下牢へと繋がれてしまうという噂が立ったことがあったのだが、ある日突然地下牢の罪人が全員無罪放免となったことで周辺諸国に名の知れた小国だ。

だが意外にも、マレーナ国内では王に代わって国政を取り仕切っている王妃の人気はすこぶる高いらしかった。

妾の国以外にも王妃の提案によりマレーナとの交易馬車を増やしたり行商人の往来に手当てを出したりといった方法で交流を活性化させた国は数多く、大国ノーランドもその御他聞には漏れていないのだという。

妾も何時か機会があったなら、立場の似た者同士として彼女とも顔を合わせてみたいものだ。


「さてと・・・これで仕分けは終わりじゃが・・・ということは、今回は半分近くが求婚の書簡なのじゃな・・・」

妾は"読み物"として取ってあった自分宛ての書簡の束が他のどれよりも数が多かったことに小さく溜息を吐くと、召使いを呼んで自分宛てではない書簡を全て部屋から下げさせていた。

城へこれらの書簡が届けられるのは週に2度程の頻度なのだが、ここ最近は回を追う毎に渇いた愛を説く内容の物が増えているように感じる。

まあそれだけ妾との結婚を所望している連中が多いということでもあるのだろうが、正直に言ってどんなに美しい言葉を並べ立てられても妾の心が動く可能性は絶無だった。


「ふむ・・・この者は多少の知性を感じはするが、熱意の方はからっきしじゃな。まるで詩人の詩ではないか」

そう言いながら、読み終わった書簡をはらりと机の上に投げ捨てていく。

「おおっ・・・文字の書き味は随分と荒いが、この者は本気じゃな。魂が込められておるわ・・・じゃが却下じゃ」

再び放り投げられた書簡が、乱雑に机の上に重なっていく。

「3枚目・・・何じゃこの字は?まともに読めもせぬぞ。この者はこれまで文字を書いたことが1度でもあるのか?」

前の2つと比べても余りに乱筆なその書簡に読むのを途中で投げ出したくなる衝動を抑えながら、それでも何とか判読出来る文字列をゆっくりと目で追っていく。

「む・・・?」

どうやら字は随分と崩れていて酷く読み難いものの、一応それなりにきちんとした求婚の内容にはなっているらしい。

だがそれ以前に・・・この新鮮味の無い使い古された求愛の言葉の羅列に、妾は確かに見覚えがあったのだ。


「これは確か・・・マリス王子の・・・?」

まだ16歳だった妾へ最初に求婚の書簡を送ってきた、タイニー王国のマリス第二王子。

もう8年以上も前の出来事だというのに、初めてで印象が強かったせいなのか妾は何故か彼から送られてきた書簡の内容をかなり詳しく覚えていた。

そう思ってもう1度最初から読み直してみると、字が汚過ぎて読み取れなかった言葉が所々曖昧な妾の記憶を差し引いても確かに見覚えのある文章になっているらしい。

つまりこれは・・・まるでそれまで1度も字を書いたことの無かった者が、マリス第二王子から送られてきた書簡を完全に見様見真似で書き写しただけというような奇妙な内容だったのだ。


「差出人は・・・書いておらぬな・・・」

封がされた物ではなかっただけにざっと目を通しただけで求婚の内容だと思って仕分けしてしまっていたが、全部で7通ある妾宛ての書簡の中でもこれだけは誰からのものなのか判然としなかったのだ。

いや・・・そもそもこれがマリス第二王子からの書簡の写しなのだとすれば、その原本は今何処にあるのだろうか?

あの存在を知っているのは父上と今は引退してしまった爺や・・・それと・・・

"隣国の王子が、妾に結婚を申し込んできたそうじゃ"

・・・レンス・・・!?

妾はふと頭の中に過ぎったその想像に、バンッと勢い良く扉を開けて部屋から飛び出すとかつてレンスに割り当てられていた召使い用の宿舎へと駆けていった。

そしてあの運命の日以来妾の希望で他の召使い達には使わせずにずっと空室となっていたレンスの部屋へ辿り着くと、妾は緊張にゴクリと息を呑んでからそっとその扉を開けていた。

彼を失ってからのこの8年余りの間、簡単な清掃の為に召使いが立ち入った以外には全てが当時のままに残されている、妾の辛く苦しい思い出の部屋。

そしてその部屋の隅に備え付けられていた文机へ顔を向けると、妾はその引き出しをゆっくりと引いていた。


「あった・・・やはりここに・・・」

引き出しは一見して空っぽに見えたのだが、一番手前まで引いてみると奥の方にあのマリス第二王子から送られてきた求婚の書簡が綺麗に折り畳まれて収められていたのだ。

レンスは毎日食事の時間以外は休憩も取らずに業務へ従事していた上に夜も妾の部屋で過ごしていたから、一応彼に割り当てられていたとは言っても実際にこの部屋を彼が使ったことはほとんど無かったはず・・・

しかも妾がレンスをタイニー王国に連れ出したのはこの書簡を彼に渡した翌日なのだから、日中ずっと妾に付き従っていた彼がこの部屋を訪れる機会があったとしたら・・・あの日の夜しかないだろう。

あの晩・・・彼は珍しく寝苦しい夜を過ごしていたように見えた。

今にして思えば、彼は妾が隣国の王子と結婚してしまうのではないかという静かな不安に苛まれていたのだろう。

だが次の日の朝・・・ほとんど睡眠を取れていなかったはずの彼は妾が目を覚ますとすぐに起き上がって外出の支度を始めていた。

もしかしたらあの時、彼は妾の起床に気付いて眠りから覚めたのではなく・・・

一晩全く睡眠を取っていなかったのではないのだろうか・・・?

そして妾が眠っている間に、彼は独りこの部屋でマリスの書簡を読み漁ったのだろう。

文字の読み書きは出来ぬはずだというのに・・・

これが妾に対する求婚の書簡であるという事実を頼りに、彼は恐らくここに書かれている文面を全て記憶したのだ。


しかし、そんな妾の突拍子も無い想像がもし事実だったとしたなら・・・

まさかレンスは・・・今も生きているのだろうか・・・?

あの日・・・妾はどんなに呼び掛けても体を摩っても何の反応も示さなくなった彼が死んでしまったものだと完全に思い込んでいた。

だがあの後城の兵士達を使って吊り橋の谷底から城下町に至るまで川縁の捜索をした時、爺やが特に気になるものは何も見つからなかったと言っていたのを確かに覚えている。

既にレンスが死んだものと思っていた妾は深い失意の余りその言葉が示す意味にまでは気が回らなかったのだが、本当に彼が死んだのであれば巨大な黒竜の亡骸が川縁に横たわっているべきではなかったのだろうか?


レンス・・・レンスや・・・もし・・・もし生きているのなら・・・またお主に逢いたいぞ・・・

だがそんな熱く燃え滾るような情愛に胸を焼かれながら、妾は一体どうしたら彼に逢えるのかに頭を悩ませていた。

それに・・・もし仮に本当にレンスが生きていたのだとしても、何故彼は8年も経ってからあんな妾が気付くかどうかも疑わしい方法で自身の無事を妾に伝えてきたのだろうか?

ただ自分が生きていることを知らせたいのなら、また人間の姿で城を訪れれば良いだけだったはず・・・

それをしなかった・・・いや、或いは出来なかったのだとすれば、もしかしたら彼は妾と内密に逢いたいと考えているのかも知れない。

妾はそこまで考えると、急いで自分の部屋へと取って返していた。

そして召使いを呼ぶ手間も惜しんで慣れない着替えを済ませると、誰にも見られぬように人目を忍びながらそっと城を抜け出したのだった。


かつて妾の幼き日々をほろ苦く彩った、西の森へと続く城下の町並み。

妾はまだ昼過ぎの明るい空を見上げながら人通りの多いその道を通り過ぎると、実に8年振りに鬱蒼と草木の生い茂る森の中へと駆け込んでいった。

しばらく見ない間に随分と様変わりしてしまった景色を眺めながら、薄暗い木々の回廊の奥へと更に進んでいく。

そしてようやく以前レンスが妾に見せてくれた狭い獣道を見つけ出すと、妾は逸る気持ちを抑えながらそっと身を屈めてその中へと体を滑り込ませていた。

ガサッ・・・ガササ・・・ガサ・・・

やがて長い長い茂みの中を通り抜けて体中に付いた葉や細い枝を払い落とすと、ぽっかりと目の前に口を開けていた暗く深い岩棚の穴へと目を向ける。


ここは・・・かつてレンスが棲んでいたという秘密の洞窟。

もしレンスが人に化けるのを止めて再び森で暮らしているのだとしたら、竜の棲めそうな場所はここしかない。

そしてそんな期待を胸の内に秘めながら暗い闇に沈んだ洞内へ入っていくと、妾は数分の時間を掛けて手探りだけで曲がりくねった道を進んでいった。

そしてようやく天井から差し込んだ淡い陽光が照らし出す最奥へと辿り着いてみると・・・

そこに、静かに蹲ったまま住み処への来訪者を見つめていた巨大な黒い雄竜の姿があった。

「レ、レンス・・・」

8年前とは比べ物にならぬ程に大きくなった彼の全身に刻まれた、あの当時見たままの夥しい傷の数々。

根元からもぎ取られて完全に失ってしまった右翼はもちろんのこと、辛うじて残された左翼も翼爪が拉げ砕けたせいか翼膜が十分に再生出来なかったらしく、その身に纏った艶やかな鱗にも剥がれや綻びが痛々しく浮かび上がっている。

だが・・・妾をじっと見つめていた彼の薄紫色に染まった竜眼には、最後に妾に見せてくれた笑顔と全く同じ優しげな輝きが宿っていた。

「い、生きて・・・生きておったの・・・じゃな・・・」

あの書簡の存在に気付いた時から、彼が生きているのだろうことは半ば予想していたというのに・・・

いざ実際に生きている彼の姿を目の当たりにして、妾は全身の力が抜けてしまうとガクリとその場に崩れ落ちていた。


この8年間・・・妾はほんの一時もレンスのことを忘れることが出来なかった。

食事をしている時も、湯浴みをしている時も、床に就き夢を見ている時でさえ、何時も妾の傍には幻のレンスがいた。

そんな彼の姿を認識する度に、妾はどうしようもない罪悪感と後悔と自責の念に切り刻まれるのだ。

その未曾有の苦しみから逃れることが出来た唯一の方法が、妾にとっては勉学に没頭することだけだったのだろう。

やがてレンスはそんな妾の姿を目にすると、そっとその巨体を持ち上げて妾の方へと長い首を伸ばしてきた。

そして止め処無い歓喜の涙で濡れた妾の顔を舌先で優しく舐め上げると、グルゥ・・・という小さな唸り声とともに彼が大きな鼻先を妾の懐へと埋めてくる。

「レンス・・・何故、何故なのじゃ・・・妾はずっとお主を・・・お主だけを・・・待ち続けておったというのに」

思い返せば地獄のような空虚な日々だった、8年余りもの長い長い時間。

レンスの喪失とともに心の一部を失った妾は、自分の人生というものに絶望していたのだろう。

だが余りにも唐突にそれを取り戻してしまったせいで、妾はきっと長い間抑圧していた感情の奔流を抑え切れなくなってしまったのだ。


「また、妾の許へ戻って来てくれぬか・・・レンス・・・妾には・・・もうお主しかおらぬのだ・・・」

それを聞いて、レンスが少しばかり驚いた様子で妾から顔を離す。

「文字も知らぬというのに、8年も前の記憶を頼りにして・・・お主は妾に・・・求婚の書簡を書いたのじゃろう?」

「グルル・・・」

「お主からの申し出ならば、妾は喜んで受けようぞ」

だが流石にその言葉はレンスにも予想外だったのか、彼は声こそ出さなかったもののその双眸に嵌った美しいアメシストの如き薄紫色の瞳を大きく見開いていた。

「人の身になる必要も無い。お主はお主のままで構わぬ。じゃから・・・妾の夫となっておくれ・・・レンス・・・」

「グオ・・・グオゥ・・・」

そんな妾の承諾の言葉に、レンスの両眼からも熱い雫がじわりと溢れ出す。

そしてその大きな手でそっと妾の体を引き寄せると、まるで妾の部屋で眠りに就く時もそうしていたように彼が広い寝床の上で妾を包み込むように体を丸めていた。

「これが・・・妾とお主の・・・初夜、なのじゃな・・・」

「グル・・・クルルルゥ・・・」

まるで天にも昇るかのような心地良い温もりに満ちた、心優しい雄竜の懐。

妾はその幸せな閨の中でそっと目を閉じると、冷たい孤独の檻に閉じ込められていた8年という空虚な歳月を物言わぬ黒翼に抱かれながら静かに癒していったのだった。


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