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無明を断つ  作者: MIROKU
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第五回

 炎の中で栄次郎だったものは苦しげに身をよじる。

 その様を七郎は般若面の奥から静かに見つめていた。

 いかに女をてごめにしたとはいえ、その報いが化物に転じた上に火だるまとはーー

「……ノーマク、サンマンダー、バーザラダン、センダー……」

 七郎は無意識に不動明王の真言を口にしていた。

 不動明王は魔を降伏するために、炎の中で憤怒の形相を浮かべ、右手には降魔の利剣を、左手には魔物を縛り上げる縄を持つ。

 今の七郎も不動明王のごとくだ。

 栄次郎だったものを焼き払い、魔を降伏するには不動の精神が必要だ。

 七郎にはそれがある。彼は幼い頃に父からの兵法指導の際に、右目を失った。

 その悲しみと苦しみが、七郎に不動の精神を与えたのだ。

 なるほど、彼が神仏より天命を与えられたのも当然だ。

 人知を越えた魔性には、並の人間では相手にならぬ。

 だからこそ魔を降伏する者として、七郎が選ばれたーー

「感服つかまつる腕前」

 四郎は、燃え盛る炎を見つめる七郎に歩み寄った。

「あー、おー」

 四郎の側では女もやはり七郎の腕前に惚れ惚れした様子であった。

「貴殿ならば魂が選ばれるでありましょう」

「だまれ」

 七郎は四郎の口上を一喝した。

「貴様らは何だ? 一体、何者だ? 人を多く斬り捨てた俺を、魔天の空より誘いに来たのか」

 七郎は般若面のまま四郎に振り返った。面の奥には様々な感情が渦巻いているが、最も強い感情は、人知を越えた存在への不安であった。

 七郎ほどの男ですら、今宵の出来事には魂が身震いする。

「我々は選ばれし者」

「何だと」

「貴殿もまた我らの同志に…… 今宵はこれまで、いずれまた」

 四郎の言葉と共に一陣のつむじ風が巻き起こり、七郎は瞬間、視界を奪われた。

 目を開いたのは瞬きほどの後だが、なんと四郎も女も消えていた。これには七郎も面食らった。

「何処へ?……」

 七郎は周囲を見回した。月の輝く夜空に雲一つなく、前方には栄次郎だったものの骸がまだ燃えていた。栄次郎だったものは、とうに地に倒れていたが、炎は今しばらく燃え続けるだろう。

 そして屋敷からは人の起きてきた気配があるーー

「ーー御免」

 七郎はそれだけ言って駆け出し、屋敷の塀を飛び越えて、江戸の夜の中に走り去っていった。



 数日後、七郎の姿は江戸城から程近い屋敷にーー

 弟の又十郎が主である屋敷にあった。

「旗本齊藤家、嫡子死亡により取り潰しとなったようで」

「そうか」

 七郎はそれだけ言って猪口を口に運んだ。すでに夜だ。部屋には向かいに座った又十郎しかいない。

 また、栄次郎に関しては焼身自殺と断が下されたらしい。般若面も、美しき青年も女も、誰も見てはいなかった。

「すまぬな、つまらぬ事を調べてもらった」

「何をおっしゃいまする」

 又十郎こそ兄である七郎に申し訳なさがいっぱいなのだ。七郎は一万二千石を棒に振り、弟の又十郎にそっくり手渡していた。

 又十郎の身分は一万二千石の大名ーー

 およそ数十人の家士を従えている上に、天下の将軍家剣術指南役である。ただ者ではない。

 本来ならば、それは七郎の手に入れるものであったのにーー

「兄上、困った事があれば何でもおっしゃってくだされ」

「うむ」

「女の事で困っているのならば」

「女の事ではない」

「若い頃はしょっちゅう」

「だまれえい」

 七郎は苦笑して扇で又十郎の額を打つと見せかけ、止めた。

「又十郎、まだまだ修行が足りぬなあ」

 七郎は膳の料理に手を伸ばした。厚揚げの煮物は彼の好物であった。

 今はただ酒と料理を楽しみたい七郎であった。

 江戸の夜に魔性在る事を知った今は、明日をも知れぬ人生に踏みこんでいく以外ない事を理解していたからだ。

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