第三十回
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江戸城の敷地内にある道場で、将軍への兵法指南が行われる。
今、七郎はそこにいた。
相手を務めるのは、七郎の弟である又十郎である。
現将軍家剣術指南役。
その又十郎が七郎には誇らしい。
天下に自慢できる弟であった。
「兄上……」
「又十郎、手加減無用」
七郎の隻眼の光が又十郎を刺した。
「江戸に現れる魔性を討つには、俺は今一度、修羅に成らねばならぬのだ」
七郎の言葉と気迫が、又十郎の心胆を寒からしめる。
稽古では又十郎の方が二枚も三枚も上手である。
だがしかし、又十郎は人を斬った事がない。命のやり取りに及んだこともない。
また以前に尾張の達人ーー彼らの遠縁に当たるーーと試合した際には、右手の親指の関節を打たれて骨折している。
すでに又十郎は自身の後継者育成に励んでいるほどで、本人は半ば隠居したような気分だが、
「参りますぞ兄上」
稽古袴に着替えていた又十郎は、両手を開いて前に構えた。闘志全身に満ち、一分の隙もないように見受けられた。
対する七郎は隻眼を半眼に細めたかと思うと、矢のように飛び出した。
あ、と又十郎が思う間もなく、七郎は組みつき、技をしかけた。
ほとんど一瞬で又十郎の背は、道場の床に、勢いを殺されて投げ落とされていた。
後世の柔道における背負投であった。
「あ、兄上、今のは?」
又十郎は七郎から目を離さなかった。
距離は二間ほど空いていた。
その間合いを一瞬で詰めて又十郎を投げるとは、人間業に思われぬ。
「無拍子…… いや待て。無の境地…… いや待て。わからん」
七郎も首を傾げた。どう言葉で現してよいか、彼にはわからない。
また、今のをもう一度やれと言われても、咄嗟にはできぬだろう。
無意識に、七郎は全身全霊を振り絞ったに過ぎぬのだ。
「……なるほど、これが私と兄上の差なのですな」
又十郎は苦笑と共に立ち上がった。技術は又十郎が上であっても、武徳の祖神がついているのは、七郎であったのだ。
「ーーまだまだだな」
七郎は道場の縁側で女中が運んできた茶を飲みながら又十郎に語った。
「俺は江戸を守れるだろうか」
七郎の話を又十郎は黙して聞いている。




