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無明を断つ  作者: MIROKU
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第一回 逢魔が時

 男は墓前を辞した。

 寺の敷地内に植えられた竹の葉が、風に揺れて微かな音を立てた。

 男は杖をつきつつ、寺の敷地を行く。右目は潰れていた。

「む……」

 男は足を止めた。周囲は暗くなってきている。すでに逢魔が時だ。昼と夜の重なりあう時間だ。この薄闇の中で出会う者全てが、この世の者とは限らない。

 ーーす

 男の前方に、道を塞ぐように人影が現れた。それは輪郭のおぼろげな、人の形をした影であった。

「ほう、鬼が出たか蛇が出たか」

 男はのんびり言った。その間に人の形をした影は男へ向かって踏みこんできた。

「ふ」

 短くも鋭い吐息を発し、男は影に杖を投げつけた。回転しながら杖は影を襲う。影が杖を手で叩き落とした時には、男は間合いを詰めていた。

 男は無言で影の懐へ踏みこんだ。右の肘を影の胸元へ叩きつけ、怯んだ瞬間には左手で影の右手首をつかんでいる。

 即座に体を回して、その勢いも利用して影を投げる。影は顔面から寺の敷地に落ちた。

「……うむ?」

 男は眉をしかめた。人の形をした影は消えていた。影は幻か、男の夢想であったか。

「鬼であったかな、まあ…… 覚えがありすぎる」

 そう言って男は杖を拾って寺から出た。彼は人を殺めた事がある。鬼に狙われるのは、身に覚えがある事だ。

 竹の葉が風に揺れる音の心地よさが、男に僅かながら安らぎを与えていた。



   **



 橋の欄干に手を添えて、一人の女がうつむいていた。思い詰めた顔をしている。

 周囲の者は、ただ彼女の側を通りすぎていくのみだ。

 やがて女は欄干に手をかけ、身を乗り出さんとした。

「む、待て!」

 通りがかりの男が女に抱きついた。飛び降りを止めようとしたのだが、間が悪かった。

「きゃあー!」

 女の悲鳴が橋の上に響くと、なんだなんだと道行く人が足を止めた。

「やや、痴漢だな」

「ふてえ野郎だ」

 と、気の荒い通行人が寄ってたかって男を袋叩きにした。やがて橋の真ん中に倒れたのは、右目の潰れた隻眼の男であった。

「ち、違うのです」

 女は震え、蒼白になりながら通行人に説明した。思い詰めて橋から身を投げ出そうとしてしまったのを、男が止めてくれたのだと。

「そ、そうか」

 通行人は次々に退却していった。隻眼の男はうめきながら身を起こした。鼻血が流れていた。

「す、すいません……」

 女は心底申し訳なさそうに深々と頭を下げた。自分のせいで隻眼の男は無意味に袋叩きにされたのだから。

「い、いや、いい…… 思いとどまっただけでもな……」

 隻眼の男は引きつった笑みを女に向けた。彼には、女の身投げを止められただけでも良かったという満足があった。

 隻眼の男は、名を七郎といった。



 七郎は女を馴染みの茶屋に連れていった。店に入ると顔見知りの老婆がすぐに茶を運んできた。

「あらあ、また新しい女を作ったのかい」

「ち、違うから」

 七郎は否定した。そんな七郎を向かいに座った女は白眼視していた。

 七郎は咳払いをしつつ女に尋ねた。

「まあ、金は俺が出す。なんでも頼むがいい…… ところで、なぜあんな事を?」

 七郎はお人好しではない。が、女を助けようとして通りすがりの町民に袋叩きにされた。

 ここまで来たら、毒を食らわば皿までという根性だった。女の身の上話でも聞いてやろうと思ったのだ。

(女に関わると、ろくな事がないな)

 そうは思うが七郎は厄介事を抱える女に多く関わってきた。彼の母から見れば誇らしい男であったかもしれない。

「実は……」

 女は重い口を開いた。彼女は身籠っていた。



 夜の屋敷に静寂が満ちていた。

 屋敷の主は部屋に行灯を灯し、勉学に励んでいる。

 この主はまだ三十代後半だが将軍家剣術指南役の一角を務めている。幕府の中枢部に座す人物としてはまだ若く未熟だが、先の三代将軍との仲も良好であった。

 まだ幼い四代将軍の剣術指南をいつから始めるか、また幕閣の者との交流・牽制、更には自身の修めるべき兵法の練磨……

 主たる男には、前途に無数の難敵が待ち受けていた。寝食を惜しんで学んでいく以外にない。

「ーーこれ。おい」

 主は書物から目を離した。襖の向こう、庭先から声がするのだ。主は立ち上がり襖を開いた。

「おお、兄上」

「うむ久しいな」

 庭に立っていたのは隻眼の七郎であった。

「はて、先日も来たような」

「そ、それはそれだ」

 七郎は月下に咳払いを一つした。

「また金策でしょうか」

「ま、まあ、それもあるが…… 道場へ来てくれぬか」



 行灯に照らされ道場の中が浮かび上がった。

 壁にかけられた「香取大明神」、「鹿嶋大明神」の掛軸。

 香取大明神とは武神、経津主大神の事だ。

 鹿嶋大明神とは剣神、武甕槌大神の事だ。

 江戸から現代まで兵法(武術)を学ぶ者ならば、誰もが敬う神である。

「又十郎、真剣で打ちこんでくれ」

 七郎は道場の真ん中に立った。

「な、何をおっしゃる。ひきはだを用意します」

「真剣で頼む。我が剣魂に衰えを感じる」

 七郎は昼とはまるで別の顔であった。引き締まった表情、何よりその鋭い眼光は、猛禽類を思わせた。

 即ち、隼が獲物を捕らえて即座に喰らうがごとし迫力だ。

 その眼光を受けても、屋敷の主はーー

 又十郎と呼ばれた七郎の弟は怯んだ様子はなかった。真剣を用いる事には戸惑いを見せていた。

「ではせめて木剣にて」

 又十郎は木剣を手にして、正眼に構えた。

「又十郎…… 強くなったな」

 七郎、ニヤリと笑った。

「技も品も俺以上だ…… さすがは我が弟だ」

「あ、兄上」

「だが、又十郎よ。世には名もなき名人達人が、更には化物もたまにいる。そやつらには力も技も通じん。心の強さだけが、命を守るという意志だけが通じると心得よ」

「承知ーー」

 又十郎の顔つきも変わった。兄を木剣で打つ事に戸惑いを覚える弟の顔ではない。

 将軍家剣術指南役として天下に武威を示す剣士の顔だ。

 暗き道場の中に、七郎と又十郎二人の剣気が満ちた。

 耳が痛むほどに空気は張り詰めていた。

 七郎と又十郎、二人の対峙はしばらく続いたが、やがて、その静寂は打ち破られた。

 又十郎は烈火の気迫を発して木剣を打ちこんだ。

 七郎は踏みこみつつ鋭い打ちこみを避けた。

 瞬時に又十郎の左手側に回りこみ、両手で突き押した。

 それを受けて、又十郎は道場の床に横倒しになった。

「……私の打ちこみを踏みこんで避けるとは」

 起き上がった又十郎は痛みに顔をしかめつつも、不敵な笑みを浮かべていた。

 今、又十郎が放った一撃は見る者を心胆寒からしめる迫力があった。

 が、七郎はそれを避けて反撃に出た。それだけでも常人離れしていると言えなくもないが、七郎は不満げな顔つきである。

「いや、技が浅すぎる。無様すぎる。父の説く無刀取りには遠すぎる」

 七郎は唇を噛む。彼の理想では、一刀を避けて瞬時に組みつき、床に投げ倒して顔を踏みつけ、更には首を締めてとどめを刺す……

 それでこそ無刀取りだと七郎は言う。それを聞いて又十郎は大笑いした。

「兄上、それでは私が死んでしまいます」

「ん? そ、そうだな、すまぬ」

「いやはや兄上の隠密行、凄まじいものだったのですな」

「……そうだな、俺は弟にそんな事をやらせたくはなかったのだ」

「ありがたく思いますよ、兄上…… ところで、また女の事で金策でありましょうか?」

「……そうだな、女で間違いない」

「やれやれ、兄上。私に内緒で産ませた甥っ子や姪っ子は何人いるのです?」

「いないから!」

 七郎、兵法の事となれば人が違うがーー

 平素の彼は愛すべき人柄に思われた。

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