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「コーヒーでいいか?」
椅子に座る由貴斗は肯定すると、牧野教諭はアルコールランプに火をつけて湯を沸かし始めた。
「まぁ、ここが部室みたいなもんでしたからね…」
「ゆっくりできるところ」は、化学準備室だった。
当時部室もない写真部は、顧問だった牧野教諭の好意でこのケミカルな香りに包まれた狭い部屋を拠点としていた。毎日カメラを弄っては、撮った写真を見せ合うなり外に出ては写真を撮っていた思い出が、由貴斗の脳裏に蘇る。
「先生、あの写真オレは始めてみましたよ。」
「そうか…たしか卒業式の翌日くらいに忍足さんがデータを持ってきたんだよ。」
牧野教諭はインスタントコーヒーの缶を片手にそう答えた。
「意外だな…確かになんか忍足に写真をとってもらった記憶はあった気がするけど…」
由貴斗はそうつぶやくと視線をガラス窓の外に向ける。コの字型に開けた中庭にはグラウンドを背景に色づいた銀杏の木が見える。途中陸上部の女子生徒が走っていくのを見ていたが、牧野教諭の声で視線を戻した。
「しかし、教師のオレが言うのもおかしな話だが…写真部のメンツ四人中三人が先生と呼ばれるようになるとはね…」
牧野教諭はマグカップを覗きながら感慨深そうにそういうと、コーヒーを煎れていく。
「花總や忍足はそうかもしれないですけれど、オレは先生なんて言われるほど素晴らしいもんじゃ無いですよ。」
照れ臭そうに視線を逸らした由貴斗に、牧野教諭は追い討ちをかける。
「いやいや…お前の本、読んだぞ?
単刀直入に言って感動した!だからこうやって、『OBが語る会』のゲストをお願いしたんじゃないか!」
由貴斗が今回帰省と合わせ母校に来た理由は簡単だった。大学を出た後、しがない物書きとして活動していたがそれがどういうわけか日の目を見る事になり、出版され、小さいながらも賞を取ったのだ。売れっ子作家と言うわけではないが、一応は執筆活動で生活が出きるほどになった由貴斗の話をどこからか牧野教諭は聞きつけて講演会を依頼されたのだった。
「先生、オレよりも忍足や花總の方がやっぱり良かったですって。医者ですよ?二人とも。」
由貴斗はそう言うと牧野教諭からマグカップを受け取る。コーヒーの薫りと温もりが、暖房代わりとなり由貴斗を包み込んだ。
「まぁ、そんなこと言うなよ。オレはお前を評価しているがな…正直、一度小さい賞を取った物書きよりも、総合病院で外科医をやってる花總に依頼をした方が良いという声も教師間ではたくさんあった。」
牧野教諭は意味もなくコーヒーをマドラーでかき混ぜ続けている。
「だけどな…学校で教鞭を執ってるオレが言う言葉じゃないのかもしれんが、オレは若者に夢を持ってもらいたいんだよ。」
「夢…ですか?」
意外な言葉に由貴斗は少し戸惑う。コーヒーをひとくち飲むと、牧野教諭は話を続けた。
「ああ、最近は安定志向の若者ばかりだ。公務員や大企業でサラリーマンになりたいって若者が非常に多い。そりゃあ俺だって生徒を立派に教育し、進学なり就職をしっかりとさせてやるのが仕事だ。だけどな、『可能性』だけは潰したらいけねえんだよ。」
「なるほど…」
由貴斗は一言返事をしたが、2人とも無言になってしまった。陸上部のかけ声と、薬品用の冷蔵庫のモーター音が響いている。
時間にしては一分も経っていない頃だろうか。牧野教諭が口を開いた。
「まぁ、校長は俺の意見に賛成してくれたんだ。誰も文句は言わねえし、来年当たりは花總とか忍足に頼んでみるさ。」
「ええ、そうですね。」
「そう言えば…」
話が終わりかと思いきや、牧野教諭は思い出したかのように口を開いた。
「月宮も作家志望だったなぁ…」
月宮…その名字が一瞬誰の物だったのかを思い出すのに由貴斗はコンマ数秒を要した。しかし、思い出した瞬間、その名前が出てきた事と思い出すことに苦労した自分におどろきを隠せなかった。
「あ、綾乃…作家…そう言えばそうでしたね。」
「おう、忘れちまってたのか?あんなに仲良かったのに」
茶化すようにそう言う牧野教諭に、由貴斗少し腹を立てたが、一つ深呼吸をして落ち着けた。コーヒーで渇いた口の中を潤した由貴斗は再度口を開く。
「いや…」
その時、校内放送を告げるチャイムが流れた。
『牧野先生、牧野先生。校長室までお願いします。』
若い女性教諭と思われる声で簡潔に要件が流れると、ふたたび軽快な音階でチャイムが鳴りぷつりとマイクが切られるノイズをスピーカーが拾う。
「さてと、お呼びがかかったか。いくぞ!」
「え?オレもですか?」
思わず由貴斗は尋ねてしまう。
「考えろ、校長との打ち合わせなしに講演会ができるか?」
そう言うと牧野教諭はニヤリと笑い、白衣を翻して化学準備室の扉を開く。由貴斗は後を追うように、アルコールランプの蓋を閉じるのだった。
蛇足ではありませんよ。