九話 筆記試験①
「……ん、ああ、そうか。学生寮に来たんだったな」
気だるげにベッドから体を起こしながら辺りに視線を向け、ユリエルはまだ靄がかかったような思考を稼働して呟いた。
八畳ほどの部屋。
一人で暮らすには十分すぎる広さで、シャワールームやトイレ、キッチンまでも完備というまさに至れり尽くせりの一室。
今日から暫くの間、この部屋がユリエルの住処となる。
ユリエルはひとまずベッドから降りて窓を開ける。
朝の涼やかな風が室内に吹き込んできて、ユリエルの頬を冷たく叩く。
「……っし、気合入れていくかっ!」
靄が薄れ、意識が明瞭になってきたころ、ユリエルは昨日別れ際にカティーナと交わした会話を思い出して口角を上げながら叫んだ。
――筆記試験。
カティーナは魔法学には計算の面が多いといっていたが、冷静になって考えてみると魔法学とユリエルの知るただの計算とでは色々と違うところもあるだろう。
魔法学という学問をまだ学んだことのないユリエルにとって、それは未知の教科だ。
だが――
(歴史はいけるよな、さすがに)
苦笑交じりにユリエルは自問する。
例え魔法学が無理でも、やはり歴史においては相当な成績を残せるはずだ。
言ってみれば、ユリエル自身が答えなのだから。
昨日カティーナに借りて机の上に置いたままの《剣聖》ユリエル=ランバートの伝記。
分厚すぎるその一冊を視界の片隅にちらりととらえたユリエルは、己の勝利を確信して一層深い笑みを刻んだ。
◆ ◆
「――――」
魔法学園の道はよく整備されている。加えて、人の流れに身を任せているだけで迷うことなく昨日の校舎にたどり着くことができた。
ユリエルは最上階である五階まで上ると、教室の扉の前で立ち尽くしていた。
(……なんて言って入ればいんだ? やっぱり、挨拶って必要だよな)
昨日は担任であるイライザに呼ばれてから入るだけでよかったが、今日は違う。
一人で、なんの合図もなしに入らなければならないのだ。
よくよく振り返ってみると、昨日ユリエルはカティーナ以外のクラスメートと話をしていない。
突然自分が入ってどんな反応をされるのか。
あるいはその反応を少しでもいい方にするためにはどのようにして入るのがベストなのか。
そんな風に顎に手を添えて考え込んでいると、突然背後から声がかけられた。
「ちょっと、何をしていますの? 邪魔ですわよ?」
「……助かった」
「? 何を言っていますの?」
「ああ、なに、こっちの話だ」
ユリエルが振り返ると、そこには眉を寄せて迷惑そうにしているカティーナの姿があった。
「えーっと、おはようだな。昨日は助かったよ、おかげで学園についても結構知れた」
「おはようございますわ。それはそれとして、とりあえず教室に入らないのでしたらどいていただけます?」
「俺も入るさ。――っと、でもまあ先に入ってくれよ、な?」
「……?」
ユリエルのよくわからない言動に不思議そうに首を傾げるが、カティーナはそれ以上かまうことをやめて教室の扉を開けて室内に入っていく。
ユリエルは彼女を盾とし、壁とし、気配を殺して静かに追従した。
(……って、そうか。こいつも友達がいないとか言っていたな)
朝の教室でそれぞれ挨拶を交わしてから和気藹々と談笑する。
そんな光景を想像していたユリエルだったが、誰とも言葉を交わすことなく自分の席に座り、淡々と本を取り出したカティーナの姿を見てため息を吐いた。
教室の中で一か所だけ切り取られたように、周囲とは隔絶された空間。
その中に唯一存在するのが金髪の美しい少女であるのだから、とても目立って見える。
座る姿勢はその性格を体現するかのように真っ直ぐに、端麗な顔は真剣に一冊の本を見つめている。
「――――」
それは確かに美しく見える。
だが、ユリエルにはどうしても彼女のその姿が、本に集中することで己の孤独感を紛らわそうとしているような、そんな風に見えて仕方がない。
(ま、印象最悪な俺がそんなことを考えたところで何も嬉しくないだろうけどな)
むしろ、余計に不機嫌になるはずだ。
ユリエルは小さく苦笑すると、彼女の隣に腰を下ろす。
ちらりと一瞬本から視線をこちらに向けられたような気がしたが、ユリエルは気付かないフリをしてホームルームが始まるまでの間黙って過ごした。
◆ ◆
「そろそろ席に着きたまえ」
時間になり、イライザが紙の束を手に教室に入ってきた。
ユリエルやカティーナ、それと己の机で黙々と試験に向けて勉強をしていた数名の生徒たち以外が慌てて己の席へと戻っていく。
全員が座ったのを確認してから、イライザは満足げに頷いた。
「わかっていると思うが、万が一にでもこの試験で赤点をとるようなら階級が下げられるかもしれんぞ?
まあもっとも、私には関係ないのだがね。せいぜい励んでくれたまえ」
これが教師の言うことなのかとユリエルは耳を疑ったが、周りの者たちが特にこれといって大きな反応を示さないところを見るに、これが平常運転なのだろう。
「では、配るぞ」
イライザがそういうと同時に、生徒たちは一斉にローブの内側に手を突っ込み、そこから何やらペンを取り出していた。
(そうか、テストだもんな。そりゃあ書くものもいるよな。……それにしてもこのローブ便利だな。内側に色々としまえるんだから)
ローブの懐には小さなポケットがいくつかある。
当然、ペンを入れて持ち運ぶことができる。
ユリエルは「さて」と小さく意気込んでから、周囲の人間から視線を戻してテスト用紙を受け取る。
そして、名前を書こうとして――気付いた。
(ん、ペン……?)
震える手で、懐に手を突っ込む。
が、そこに必要なものはない。
顔面蒼白になりながら、ユリエルは懐に手を入れたまま固まる。
五分後まで問題を見るなよというイライザの声は、確かにユリエルの耳に届いたが、そのまま外へと流れ出ていく。
そうして暫くの間呆然と固まっていると、
「ん……?」
つんつんと左腕をつつかれ、ユリエルははっとしながら左を見る。
すると、こちらを見ることなくカティーナがペンを差し出していた。
「え、これって……」
「隣で固まられていたら集中できないだけですわっ。いいから、さっさと受け取ってくださる? 腕が疲れるのですけど」
「……っ、あ、ありがとうございますっ」
思わず敬語で頭を下げながら、ユリエルは両手で丁重にペンを受け取る。
「わたくしの集中が削がれないためにお貸ししただけですわ。勘違いはやめていただけます?」
「素直じゃねえなぁ……」
少女の捻くれた主張を聞いて、ユリエルは堪らず失笑する。
ともあれ、試験を受けられないという最悪の事態を脱したユリエルは、改めて問題用紙に向き直った。
「それでは、はじめてくれたまえ」
ちょうど、イライザの開始を告げる声が教室に響き渡り、次いで一斉に問題用紙をめくりだす音が生じる。
それに続くように、ユリエルもまた問題用紙をめくった。
ユリエルが問題用紙をめくり返すと、そこにはずらりと文字が並んでいた。
(えーっと、一見したところ数字がいくつも書かれているし、やっぱり計算問題なのか?)
それならばいけると、ユリエルは『魔法学』の問題を解き始める。
『一 詰問中に出る魔力回路は全て単純回路である。
以下の詰問に答えよ。
(一)魔力抵抗Rが六十の魔力回路に千四百の魔力Pを流し込んだ時、放出魔力RPはいくらか。』
(……ん、んん?)
ペンをカティーナから借りることができて気鋭十分であったユリエルの表情が一瞬で固まる。
『(二)魔力回路A、B、C、はそれぞれ魔力抵抗Rが四十、五十、六十である。全ての魔力回路を用いて大規模魔法を発動する際、合成魔力抵抗Rはいくらか。』
(ちょっと待て、カティーナはこれが計算問題って言ってたよな? 言ってたよな!?)
ペンを握る手に汗が滲み出す。
目を細めようが、問題用紙から距離を取ろうが、逆に詰めようが、一向に問題の意味が理解できない。
『(三)(二)において、発動する大規模魔法に必要な放出魔力RPが四千五百とすると、実際に魔力回路に流し込まなければならない魔力Pはいくらか。』
「……は?」
『(四)(二)、(三)より、魔力回路A、B、Cにそれぞれ流し込む魔力Pはいくらか。ただし、それぞれの放出魔力RPは一定とする。』
「…………」
どこかに答えられそうな問題はないかと視線を次の問題へと移していくが、待ち受けるのはそれまでの問題と変わらず、全くもって理解できない問題文。
さらに読み進めていくと、辛うじて数字だけの問題も見つかったが、『×』や『÷』といった、ユリエルが今までに見たことのない符号で埋め尽くされていた。
(バカな……! 加法も減法も同年代では俺が一番……ッ)
愕然としながら、ユリエルは一つの重要な事実を思い出す。
それは、ユリエルが生きていた時代から三百年が経っているということ。
時が経てば、当然学問は発達していく。
ユリエルの時代では加法や減法で止まっていた計算も、今では様々な概念が生まれて、それに伴う方程式などが生まれている。
(おわ、った……)
全く理解できない問題用紙から視線を背け、ユリエルは机に突っ伏す。
諦めの境地。結局ユリエルはカティーナからペンを借りたものの、名前以外は一切書くことなく『魔法学』の試験は終了した。