十九話 放課後の鍛錬①
「まだ来ていないのか、意外だな……」
カティーナとの食事を終えたユリエルは、彼女と別れるとイライザとの約束通り実技施設に足を運んでいた。
だが、だだっ広い施設内には誰もおらず、ただ土の地面が広がるのみだ。
好戦的で、力に貪欲なイライザのことだ。てっきり鍛錬を楽しみにしてひと足早く来ているだろうと予想していたわけだが、そうではなかったらしい。
小さく「ふむ」と呟き、ユリエルは空を見上げた。
青空にはすでに朱が差し、陽が傾いていくのを感じさせる。
そうして暫くの間、流れる雲に意識を向ける。
「どれだけ時が経っても、空だけは変わらないんだな。……ま、そりゃそうか」
なぜか可笑しくなって、ユリエルはくっくっく……と笑った。
しかし、すぐに右手で口元を押さえて緩んだ頬を隠した。
笑い方がなんだかイライザと似ていて、恥ずかしかったからだ。
ある意味、ユリエルとイライザは似ているのかもしれない。
彼女がひたすらに強者を求めて自分を高めるように、かつてユリエルもまた誰よりも力を欲していたのだから。
そしてユリエルはその結末を知っている。
力を得て、それで何を得ることができるのかを。
剣聖に至るまでの過程で、力はたくさんの希望を生み出し、そしてそれ以上に絶望を持ち寄ってきた。
「結局、力なんてのはあろうがなかろうが自分とそして自分の周りの人たちを傷つけるんだよな」
ここで一つ、ユリエルは笑みを刻む。深い、深い自嘲の笑みだ。
彼は今、力を得た果ての結末を知っていると思ったが、よくよく考えてみると果たして今の自分がその結末にいるかどうかわからない。
邪竜との決戦で死なずに今こうして生き続けている以上、まだその結末は訪れていない。
であれば、その結末が後悔に満ちたものであると断ずるのは早計かもしれない。
「……それに、俺が抱いた後悔はこの時代には抱きようがないものだろうしな。イライザには関係のないことか」
それに、カティーナにも。
ユリエルの独白ともとれる呟きは、実技施設に虚しく響き渡る。
とある一人の英雄。彼は伝説を残し、後世に語り継がれたその英雄譚の数々は華々しいものばかりであった。
ゆえに、今の世の人間は知らない。
その英雄が華々しい英雄譚の裏で抱いた後悔と葛藤、そして英雄自身の変革を。
平和を求め、そしてそれを勝ち取るために戦い続けた剣聖が、いつしか戦いに身を投じ続ける中で求めるものが変わってしまっていったことを。
その矛盾を、ユリエルは心の奥底にしまう。
ただ代わりに、小さく呟いた。
「俺は、何をしようとしたんだろうな……」
ため息混じりにつぶやかれた彼の言葉を聞いてくれる者は、もういなかった。
ただ言えることは一つ。
歴史の光であり続けた英雄も、普通の人たちと同じように悩み、苦しんで生きていたということだ。
「――――」
ぼんやりと霞む視界を思いながら、ユリエルは今自分が眠ってしまっていたことを自覚した。
あれから数分が経過してもイライザは現れず、手持ち無沙汰になったユリエルは地面に寝転んだ。それがいけなかったらしい。
だが、空を見るに眠ってしまう前とはそれほど変化がないので、意識を失っていたのは短い時間だろう。
幸い、イライザはまだ来ていないらしい。
ユリエルはもう一度全身を地面に預け、また目を閉じた。
ドーム上の実技施設内に、空から風が吹き込んでくる。
それは地面に横になっているユリエルの全身を優しく撫でた。
これで一面に花畑でも広がっていたら気持ちがいいのに。
そんなことを思いながら、ふとその風に混ざるようにして何か鋭いものが体に突き刺さる感覚を覚えた。
「――!」
考えるよりも先に体は動いていた。
長きに渡り培ってきた勘が彼の体にそうさせた。
自分の頭の上に右手をかざすと同時に、その右手に鈍い衝撃が加わり、ユリエルは小さくため息を吐きながら呆れ混じりの声をあげる。
「随分と手荒い起こし方があったもんだな」
「いやすまない、あまりにも油断していたものでな。しかし、これすらも完璧にいなされてしまうとは……。さすがに堪えるな」
「生憎、寝ているときに油断できるほど甘い世界で生きてこなかったもんでな」
イライザが振り下ろしてきた右足を押しのけながらユリエルは上体を起こす。
そして目元を擦り、ようやくイライザを見ると彼女の顔にまったく反省の色が見えないことに肩をすくめる。
「寝ているときにまで気張っていたら疲れないか? 真の強者とは、ここぞというときが来るまでしっかり休んでおくものだと思うぞ?」
何も言い返せまいと、どこかしたり顔でそんなことを言ったイライザに、ユリエルは不敵な笑みを返す。
「確かにそれも一理あるが、ここぞという時が来るまでに寝首をかかれでもしたらそれこそ本末転倒だろう? それに、きちんと休んでいる。休み方にもコツがあるんだよ」
「コツか。それは中々に興味をそそるな」
「俺のこれはもう癖みたいなものだからな、無意識のうちに、気付けばやってしまっている。あんたには到底必要ない技術だと思うが?」
「かまわないとも。君を超えるためには、まず君が普段から行っていることを学ばねばならない」
そこまでする必要はないだろうと、ユリエルは両手を上げる。
「言葉にすると簡単だ。昼間……要するに体を動かしているときは脳を休め、そして夜寝るときには体を休める。そうするといつ攻撃を受けても体が、あるいは脳が反射的にその攻撃から見を守ろうとする」
「……言葉にすると簡単ではあるが、それはそう簡単にできるものではないだろう?」
「まあな。これに関してはやろうと思ってやってるもんじゃなく、いつの間にかできてたものだからな。あんたがどうしてもこれを身につけたいのなら、そうだな、五年ぐらい山篭りでもするといいんじゃないか?」
「ふむ、よしわかった。では山に行こうか」
「いや、冗談だ、冗談。そんなことよりも先に身につけるべきことはある」
イライザの迷いない即決に苦笑いを浮かべながら、ユリエルは立ち上がる。
そうして軽く伸びをして体をほぐしながら話を続けた。
「じゃあまあ、そろそろ始めるか」
「そうだな。いや、今日は遅れてすまなかった。学園長に仕事を押し付けられてしまってな」
「それはあれだ、ただの罰だろ。ここ最近色々と勝手なことをしていたせいだな」
「だがまあ、鍛錬のことを思えば仕事を片付けるぐらい些細なものだったよ」
「それは何より。じゃあまあ、話の流れ的に俺が先に体術の基礎を教えよう」
「期待しているよ、師匠」
「その呼び方はやめてくれ、寒気が走る」
ユリエルが早口でそう返すと、イライザは目を丸くしてからすぐに口角を上げた。
「体術といっても、俺のは我流だから参考にはならないと思うが……」
ユリエルがローブを脱いで地面に放り投げる一方で、イライザはネクタイを緩める。
振り返ると、そこにはすでに戦闘態勢のイライザがいて、ユリエルは苦笑を交えながらそう告げた。
「それを決めるのは君ではないよ。どのような戦い方であれ、参考にし、己の力とするのが真の強者だろう? 第一、君もそうやって己の我流というものを磨いてきたはずだ」
「まあ、な」
イライザの返答に、ユリエルは肩を竦めるしかなかった。
なにせ、彼女の言葉は真実だから。
ユリエルも戦いに見を投じる中で傍を駆ける強者の技を見てそれを盗み、そうして最適解を積み重ねていき、己の力を研鑽した。
「俺の技を見せる前に覚えてほしいことがあるんだが。俺の我流の基本というべきか、自論というべきか……」
「ほう、それは中々に興味深い。いいだろう、ならばまずはその基本を身につけるとしよう」
その答えを聞いて、ユリエルは目を瞑った。
当然、イライザはその行動を訝しげに見つめる。
「ん? 何をしている。時間が惜しい、早く始めないか?」
「もちろん、俺もそのつもりだ。ということでだ、イライザ、今から俺に一発でも攻撃を入れてみろ」
「攻撃だと?」
「そうだ。俺はこのまま目を瞑った状態でその攻撃を全て避けてやる。百聞は一見にしかず、まずは今からあんたに覚えてもらうものがどういうものなのかを知ってもらう。手加減しなくていいぞ、本気でこい」
ユリエルがそう言うと、イライザはその双眸に僅かに怒りの炎を灯らせ、拳をワナワナと震わせる。
当然だ。彼女自身、自分の腕にはそれなりの自信を持っている。
その腕を持ってしてもユリエルに敵わないことは理解しているが、だからといって目を瞑っても勝てるなどと言われて憤らないわけがない。
イライザは大きく息を吐き出すと、キッとユリエルを睨みつけ――
「――ならば、本気でいかせてもらおうッ!!」
怒気をはらんだ叫び声と共に、地を蹴った。
ぶらりと腕に力を入れないまま目を瞑っているユリエルの顔面めがけて拳を突き出す。
直撃するかと思われたその瞬間、ユリエルはフッと小さく笑みを刻む。
「――ッ!」
直後、ユリエルは身を翻してイライザの拳を躱す。
驚き、目を見開きながらもイライザはすぐさま二の手を繰り出す。だが、彼女の左手をユリエルは難なく弾き返した。
「……見えているのか?」
刹那にも満たない攻防を経て、イライザは距離を取りながら畏怖の入り混じった問いを投げた。
「いや、見えてないさ。でも、視えてはいる」
目を開けながら、ユリエルは自分の耳を指す。
その行動を不思議に思い、顔を顰めるイライザにユリエルは己の自論を口にした。
「視界が効かない状況での戦闘なんてのはよくあることだが……」
「よくあること、なのかね?」
イライザが突っ込むが、ユリエルは気にせず続ける。
「まあ視界が効く状況であったとしても、目で見るのは自分の正面ぐらいだろ? そういうときに背後から何か脅威が迫っていても、目に頼っていると気付けない。だが音は違う。耳は全方位の音を満遍なく拾ってくれる」
そこまで言うと、イライザは得心がいったように頷く。
「……つまり、目に頼らずに戦えるようになれと君は言いたいのか?」
「簡単に言えばな。耳以外にも体全体で感じ取ることもできるが、これはイライザも何となく感覚では理解しているんじゃないか?」
「気配、か」
「そうだ。ただこれ自体は五感よりも曖昧なただの感覚や勘で、耳よりは頼りにならない」
「いいから、そろそろもったいぶらずにその耳に頼る方法というのを教えてくれないか?」
いい加減痺れを切らしたのか、イライザが説明を急かす。
そんな彼女の態度にユリエルは苦笑いをしながら、懐から細長い布を取り出した。
「耳に頼る方法の身につけ方なんてそれこそ簡単だ。要は目を使えなくすればいい。ということで今日から俺との鍛錬の時間中はずっとこれを目に巻いてくれ」
「これをか?」
イライザは黒い布を受け取ると、確認しながら目に巻く。
「慣れるまでには時間がかかると思うが、それさえできるようになれば今までとは反応速度が段違いになる。ひとまず今日から暫くの間は俺が軽く殴るなり蹴るなりするから、それを避けてくれ。いいか、音をよく聞くんだ」
ユリエルの指示に、イライザは曖昧に頷いた。
そして、指示通り耳に意識を向ける。
敵の一挙手一投足を見逃すまいと目に頼った戦い方を続けてきたイライザにとって、これはひどく違和感があり、同時に不快でもあった。
だが――
「――ッ、これは……」
よく耳を澄ますと、大気の動きや呼吸の音、心臓の脈動に至るまで、音を発するもの全てが相手の位置を教えてくれる。
視界は閉ざされ、目に映る暗い空間は聴覚で得た情報で補正され、ユリエルの姿が朧気ながら映し出されていく。
その輪郭はあやふやで、目で見るよりも頼りないが、それでも大体の位置はわかった。
「やっぱりか。あんたならすぐに感じ取ることができるようになると思っていたよ。この間やりあったときも、あんたは無意識で聴覚にも頼っていたからな」
「私は本気だったというのに、君はそういうことを見る余裕すらあったわけか。ふっ、くく……いや面白い。やはり君を超えることこそが私の目標への近道らしい」
「ま、せいぜい俺を利用してくれ。俺もあんたを利用させてもらう」
ユリエルとイライザは互いに笑い合い、そして、二人の交錯は再び始まった。




