十二話 剣聖の伝記
商業区は活気で満ち溢れていた。
人や物が行き交い、建物の中にも、外にも所狭しと店が立ち並ぶ。
先程筆記試験を終えたばかりの生徒たちがご褒美だと言わんばかりに惜しむことなく金を使っていた。
その光景を見て僅かに笑みを浮かべながら、ユリエルは道端の店を物色しながら商業区を見て回っていた。
「そういえば、ペンを買っておかないとな」
今日カティーナからペンを借りたことを思い出し、そして自分がそもそもペンを持っていないことに気付き、呟く。
どこに売っているのだろうと視線を彷徨わせる。
そうしていると、前から歩いてくる人影とぶつかりそうになり、ユリエルは咄嗟に左に避けた。
「――ッ!」
すれ違った瞬間、背筋をぞわりと這う悪寒にユリエルは足を止める。
目を見開き、紅い瞳を外気にさらして振り返った。
――だが、すでにすれ違った人物は人波に消え去っていた。
「……気のせいか」
ユリエルは目を細めながら銀色の髪をガシガシと掻き乱し、ペンを求めて散策を再開した。
◆ ◆
ペンや紙など、およそ魔法学園で学ぶ上で必要そうなものを買い揃え、満足げに眠りについてから一夜が過ぎ、ユリエルは窓から差し込む陽光の眩さで目を覚ましていた。
のっそりと起き上がり、寝癖のついた銀髪を掻き乱しながらしょぼつく目を乱暴に擦る。
「……そうか、今日は休みか」
昨日イライザたちと交わした会話を思い出して、ユリエルは一人呟いた。
「さて、と。今日は読書だったな」
首をコキコキと鳴らしながら、傍にある机の上に置かれた鈍器の如き分厚さを誇る己の伝記。
それを見ながら、ユリエルはひとまず昨日買っておいたパンを口に運んだ。
――『剣聖の軌跡』
述べ五百二十五ページからなるこの分厚い本は、一人の英雄の生涯を綴ったものだ。
恐らくは世に存在する書物の中で、もっとも人々に読まれた一冊と言っても過言ではない。
著者はエイブ=ハーマン。
彼はまさしくこの本の作者であったが、エイブはこの本を世に出した際にこう発言したそうだ。
『これは、私の創作物ではない』
この言葉の真意は定かではない。
ただ、この一冊の伝記はエレナをはじめとした邪竜との戦いで生き延びた者たちが語った《剣聖》の英雄譚を纏めたに過ぎない。
あるいは、そういう意味での言葉だったのだろう。
この伝記が数百年の歳月が経とうとも風化することなく愛され続けているのは、偏にその他の伝記や言い伝えとは違って、一切の脚色がないからだろう。
脚色されていないにも関わらず、いやだからこそ、エイブの書いた伝記は読んだ者に感動を与え続けている。
ただし、脚色がないといえ人々の記憶には誤解がある。
只人が英雄に張り付ける、理想から生じる誤解が。
その誤解が纏められた箇所がこの伝記にはある。
人々から口々に告げられたユリエルという英雄について、エイブが前書きとして綴った、彼自身が剣聖に抱く人物像だ。
その一節に、こう綴られている。
ユリエル=ランバートは争いを好まず。
ユリエル=ランバートは、平穏を望み。
ユリエル=ランバートは、ただの一度も間違わず。
ユリエル=ランバートは、ただの一度も迷わなかった。
彼が突き進んだ後には数多の敵の屍が積み上がり。
彼が突き進んだ先には明るい未来が広がる。
彼は弱き者を救い。
彼は強き者に抗う。
剣聖は最期に、強大な災厄を前にして、自分一人の命で世界を救えるのならと、その身を捧げてこの世界に争いの終焉をもたらした。
この一節は、今では歌や演劇になるほど有名になっている。
ただ、ユリエル=ランバートは決してここに綴られているような英雄ではなかった。
気付けば、陽は傾き、遠くの空がオレンジ色に染まっていた。
ユリエルは自らの伝記を読み終えると、静かに閉じ、ベッドに倒れ込んだ。
仰向けの体勢で寝転んだまま、天井をボーッと見つめる。
ユリエルはいつの間にか口角を上げていた。それは、誰の目から見てもわかる程に自嘲の笑みで、どこか可笑しそうに笑う。
「戦いを好まず、平穏を望み……」
邪竜が生み出した敵。そして、邪竜を信仰する邪竜教。
それらを葬り去る日々を過ごす中で、果たして本当に戦いを好んでいなかったのか。本当に、心から平穏を望んでいたのか。
初めは、確かにそうであったはずだ。
彼が、人であった頃は。
ただ――いつからか、戦場で知らず笑みを浮かべるようになっていた。
「ただの一度も間違わず、ただの一度も迷わなかった……」
間違いなど数え切れない程にしてきた。
迷わなかった時などない。
自分が突き進んだ後、そこには確かに敵の屍が積み上がった。
だが、その度にそれに迫る数の救いたかった人たちの屍も積み上がったはずだ。
明るい未来はなく、彼の行く先には果てのない戦火だけが広がっている。
弱き者を救えず、強き者は蹂躙した。
自分一人で世界が救えるのならなんて、ご高尚なことは考えていなかったはずだ。
ただあの時のユリエルは、目の前の敵を葬ることだけを考えていた。
そして何より――争いに終わりは訪れていない。
「なるほど、こんなものを読まされ続けたなら、そりゃあその剣聖とやらを心酔するだろうよ」
どこか疲れたように吐き捨てる。
少なくともあの頃の自分は民衆が求め、憧れる英雄たらんと振る舞っていた。
そして、もしこの三百年後の世界でもその英雄が必要なのだとしたら――。
「――邪竜教」
エレナの話では、勢力を縮小していっているらしいが、果たして本当に自分は魔法学園で平穏な日々を送るだけでいいのか。
この時代に目覚めたことには、何か意味があるのではないか。
出口のない思考の海に埋没しながら、ユリエルの意識は闇の中に沈んでいった。




