不審な白いモモンガ
――職場で、遅刻した行也は何度も深々と頭を下げた。
「初めてだな。行也君が遅刻だなんて。次回から気をつけてくれ。」
「大変申し訳ありませんでした……。」
行也は下を向いて廊下をとぼとぼ歩く。それを見かけた同僚は、ペットボトルのお茶を渡した。
「もう気にするな! 切り替えて行こう!」
ひんやりとしたお茶が、彼の心を逆に温かくする。
「ありがとうございます。がんばります!」
「おう。でさ、今回警備担当の展覧会だけど、ヘンな白モモンガがいてな。
時々忍びこんでこようとするんだ。兜を被ってるし、どっかの飼いモモンガなんだろうけど。」
「警察の職質には引っかからないんですか?」
「モモンガだから。」
――その夜。
「黒田先生、調べものって何だったんだよ。今日も大変だったんだぜ!」
桜島鶏カレーを食べながら、行人は少し声を荒げた。
「すまなかった。ちなみに調べものは法律とかじゃ。」
「法律?」
「島津殿から聞いた、額に傷のある白い兜モモンガも、おそらく仲間だと思うんじゃが……なんか危険人物っぽい予感がしてのぅ。」
黒田は笑って続けた。
「……まぁ戦国武将なんてこの時代の価値観じゃ、ほとんど危険人物じゃがな! ハハハ!」
「拙者も……そうでござろうな……。」
「……戦国時代って危険な奴ばかりで、大変だったんだな。今は平和な時代だから俺にはわかんないけど。」
「……果たしてそうかな。この国の歴史も法律も、鬼であるぞ。きちんと勉強すべきじゃ。」
いつもの軽い調子ではなく、こないだのレンジ未遂事件の時のような不気味で掠れた声を発する黒田。心なしか、表情もいつもより老成した雰囲気がある。
行人と島津は思わず黒田を凝視した。しかし、黒田はすぐにいつもの軽い調子に戻った。
「お主ら兄弟は騙されやすいから、気をつけるんじゃよ!」
行人に目薬を渡した彼は、散歩に出かけた。
黒田の残像をぼんやり見つめる行人に、島津は声をかけた。
「黒田殿は、あまりに素直な行人殿と行也殿が心配なのでござろう。所で行人殿、今日の戦いの傷は大丈夫か?」
「大丈夫。あんなに切られたのに、切傷はなくて不思議だぜ。めっちゃあざは出来たし痛いけど。師匠は大丈夫か?」
「大丈夫だ。ではそれがしも出掛るでござる。相談ごとを持ち込まれた。」
……一人になった部屋で、行人は黒田の言っていたことを反芻する。
歴史も法律も全然興味はないが、戦国時代の武将ですら鬼と言う歴史と法律とは何か。そして普段とは違う、あの沼の底のような声が行人は気になっていた。
――夜の公園を見下ろして三日月が微笑む中。
島津はモモンガ達から相談を受けていた。
「最近、公園に不気味な白モモンガがいるんです。
すみませんがちょっと一緒に来てくれませんか。」
彼らの指の先には。ブツブツ何かを呟き、落ちていたヒモでヒステリックに地面を鞭打つモモンガがいた。
モモンガの体は白なのだが、真っ暗な空よりも深い闇を体の周りに発している。
島津は一緒に行くと言い張るモモンガ達を無理矢理帰らせ、白モモンガに声をかけた。
「お主は何か悩みがあるのか? 拙者で良ければ話を聞くでござるよ。」
その言葉に、白モモンガは針のような眼差しと声で振り帰る。
「煩いッ! 貴様に何が……失礼致しました!」
彼は姿勢を正し深々と頭を下げる。
「細川忠興です。島津義弘殿、お久しぶりでございます。」
「こちらこそ。息子がお世話になったでござる。ところで……。」
島津は、公園内での奇怪な行為をやめるよう細川に注意した。細川は了承したが、下を向いてため息を吐いた。
「何か、辛いことがあったでござるか?」
「最近話題の……あの美術展が嘆かわしいのですッ!」
彼は地面をガリガリ引っ掻き出した。慌てて止める島津に、細川は悲しげな言霊をポロリと落とす。
「俺や子孫の宝物をあんな暗闇のあんな安っちい箱のあんな狭い空間に閉じ込めやがってェッ!
テレビで見ただけですが内装とかもいちいち気に入らないのです! 責任者をぶん殴ってやりたいです!」
「い、いや、ぶん殴るのは絶対駄目だ。この時代では犯罪でござる。」
「わかっております。しかし! 職人が魂を込めてつくった作品です! 扱う者も命がけで扱うべきです!」
「ま、まぁ落ち着いて……。この国は建物が狭いし、美術展だって予算は限られているから、色々事情があるでござるよ。
所で細川殿は生活はどうしてるでござるか?」
細川は体を小さくして消え入りそうな声で答えた。
「異国人の家で世話になっております。怪我をしていた所を保護してもらって……情けない! 細川家の嫡男だと言うのに! 戦士も見つけられないとはァアーッ!」
細川はまた悔しげに地面を激しく鞭打つ。
「ま、まぁそんなに自分を責めないほうがよいでござる。
……所で、兜モモンガの存在を人に話すと呪われる、という噂を流したのは、そなたでござるか?」
細川は真面目な顔で答えた。
「自分の領地を守る戦に不参加なんて許せません。だから脅してやりました。」「……噛みついたり…していないでござるよな。」
「噛みつこうとしたら、かばんで振り落とされました。さすがに俺が見込んだだけの奴らです。」
一瞬言葉を失った島津の目に、仲間を連れて戻ってきたモモンガが映る。彼は穏やかな対応をしてくれ、と細川に依頼して、公園を出た。
――細川はイタリア貴族の服装をした金髪巻髪の少年が迎えに来て、家に帰った。
大理石がパッチワークのように敷き詰められた床を歩き、メイド達に挨拶されながら名画廊下を通り、部屋に入る。
そこに緑茶とお菓子を持ってきたメイドが部屋から出ていくと、少年は口を開いた。
「昼間はなんで機嫌が悪かったのデスカ? いつものことデスガ。」
細川は美術展のことを話した。
「そうですカ。ボクはあの美術展にいきまシタ。配置は、見学者が見やすいようにああいう風になってマス。」
「見やすいように?」
「ハイ。順路に沿って進めば、ほぼ一本道でだいたいの作品が年代順かテーマ別に見れるのデス。行ったり来たりする回数があまり無いようになってマス。」
「成る程。」
頷く細川を見て、間髪入れずに少年は続ける。
「照明も、見やすい上に美術品が痛まない程度の光の強さになっていマス。
無機質な箱に入れているのは、保護のためデス。くしゃみする人がいるかもですカラ。
内装とかは……予算がないのデショウ。諦めてくだサイ。」
「……。」
もう一押し。そう思った少年は話の〆に入る。
「長い時間が経っているのに無事に美術品が残っているのは、忠興サン達のご子孫のみなサンと、美術館の学芸員サンが大切に扱ってきてくれたからデス。
残ってるということだけでも感謝すべきデス。」
「……確かに、戦国時代の美術品で失われたものは多い……。残ってるだけマシか。」
細川の尖った表情が少し丸くなったのを見て、少年は長い息を吐く。
そして細川が自分の部屋に入って行った後、ポロリと呟いた。
「忠興サンは教養豊かですガ。メンドクサイデス。」