悲しい組手
赤シャツは克典さんを尊敬して模倣しているのだろうが、悲しいかな、技術が全然伴っていなかった。僕の下手くそなフェイントに引っ掛かり、カウンターのタイミングが取れずに防戦一方と言う形だった。
『おい。こやつごときに遊ぶな! 龍、さっさと決めろよ! 』
勇次郎が焦れたように呟いた。でも一応年配者だし、僕は見学に来た訳だし、決めるのをためらっていたんだ。
《あのね。ここは勇次郎の言う通りにして。じゃないとすごく痛いめに……。》
礼子がまた珍しく勇次郎の意見に賛同した。僕は赤シャツの攻撃を躱しながら小さな声で聞く。
「礼子。あの人の技術じゃ怪我はしないと思うんだけど? 」
《いや、アクシデントと言うか。あのとっても痛いらしいわよ。》
礼子にしては煮え切らない言い方で告げた。
「えっ? どういうことさ? はっきり見えてる事を教えてくれよ。」
『そうだ。あのへたれに怪我をさせられるってのか? アクシデントって何だ? はっきり言え! 』
勇次郎も礼子を攻めたてた。
《ああ、もう! あのね、あの人の下手くそな蹴りを避けて、バランスを崩したあの赤シャツの膝が……。》
「膝が? 」
《大事な所に当たるの! もう、恥ずかしいっ! 男の大事な所よ! 》
なるほど、いわゆる急所に当たるって事か。あそこは痛い。それは避けたいと思った。僕は意を決して渾身の蹴りを出した。次の瞬間、赤シャツは床に倒れていた。
倒れた赤シャツの見下ろしながら、僕は視線を感じた。その視線に目を向けると鋭い眼光で僕を見つめる克典さんがいた。克典さんはだらしなく座っていたのだが、立ち上がり僕の前に歩み出てきた。
「おい、お前の蹴りはいい物持っているな。ある選手の蹴りによく似ている。」
「ありがとうございます。たぶんある選手と言うのは小野寺勇次郎選手ですか? 僕の目標ですから。」
「ほう。知ってるのか? 奴を。あの頃はお前はまだ子供だろう? 中学生かな? 」
「はい。当時は中学生です。克典さんとの三度の対戦は今でもよく覚えています。」
そう言う僕を克典さんは目を細めてじっと見つめた。
「お前、名前は嵯峨といったか? 嵯峨、ちょっと待ってろよ。」
克典さんは扉の向こうへ消えた。しばらくして戻って来た克典さんは無精ひげをそり、髪も整えられてさっぱりとして現れた。
「嵯峨。俺が稽古をつけてやろう。」
そう言って笑った克典さんは僕を促したんだ。
克典さんの空手は荒れていた。以前の様なスマートなものではなく、どこか投げやりな、乱暴に見える組手だった。それでも今の全日本チャンピオンだ。僕は一方的に攻められていた。
克典さんに攻められて僕は何度目かのダウンをした時、克典さんは僕を冷ややかな目で見降ろして言った。
「やはりな。熱くなれんか。あいつに似た組手をするやつならひょっとしたらと思ったがな。」
克典さんは僕に勇次郎の変わりを求めていたんだ。悲しい呟きだ。克典さんは「もういい」とでも言うように僕に背を向けた。
「待って下さい。克典さん。」
克典さんは首だけこちらに向けた。僕は体の力を抜いた。そして勇次郎が僕の体を支配する。
勇次郎は”軌道を変える蹴り”を空に向かって放った。
「ん!? 今の蹴り……。」
克典さんにはそれが勇次郎の得意な蹴りだと分かったのだろう。僅かに目を見開いてこちらに向き直り構えた。
勇次郎は激しく攻めた。蹴り蹴り蹴り。克典さんの顔色が変わる。そして例の蹴りが克典さんを捉えた。
「ばしぃ! 」
大きな音がした。克典さんは勇次郎の蹴りが当たった側頭部を押さえながら、驚きの表情で僕を見ていた。勇次郎が僕を離れた。
「今の克典さんは勇次郎の足元にも及びませんね。残念です。」
僕は頭を下げて一礼すると踵を返して背を向けた。
悲しい。なぜかとても悲しかった。
「ま、待て! お前は何者だ!? 」
僕の背中で克典さんが叫んでいたが、僕は振り向かず道場を後にした。