だれか一人でいいから
以前、ケリュンが勲章を授けられてすぐのことだった。格式張った儀式に疲弊したケリュンは、鎧を着替えもせぬまま建物の陰へ移動し、人目から隠れるように座り込んでいた。
「ケリュン、お疲れ様」
「ロッカ様?」
ひょいと現れたのはロッカだった。見計らったかのようなタイミングだった。
遠くでは式典の参加者らの談笑の声が明るく響いている。主役でもない、たかが参加者の一人に過ぎないケリュンが少し抜けるくらい別に問題はないはずだ。恐らく。
「無事終わったみたいね。あの特訓の成果かしら。感謝しなさいよ」
「お陰様で。はは、ありがとうございます」
卒のない回答であった。
式典のためケリュンが借りた白銀の上等な鎧には、国章がくっきりと刻まれている。その肩当てを、ロッカは気安くぽんぽん叩いた。
「ずいぶんと立派になったわね」
「はい、まあ……」
「すごいじゃない。でも、なーんか寂しい」
「近づいているのに?」
「弟――子どもみたいに思ってたのに、いつのまにか大きくなっちゃって、って感じ」
「同じ年齢なのに?」
ロッカはくすくす声をあげて笑った。
「ま、いいわ。ねえケリュン、それでも私たち、ずっと友達よ。ね?」
――記憶の中のあの時と変わらず、いつもの顔、いつもの声、いつものような調子で、ロッカはくすくす、声をあげて笑う。
この暗い地底を這う通路で、細い蝋燭のランプを片手に。
「貴方がここに来たってことは、ルダは死んだのね?」
「ロッカ様……」
「ま、なんでもいいわ。ねえケリュン、これでも私、あなたのこと嫌いじゃなかったわ。好きでもなかったんだけどね!」
「――ええ」
ケリュンは目を閉じる。
――女王や王女二人の部屋に繋がる『霧の道』が塞がれていたとき、おかしいと思った。この道を知るのは限られた人物、王族だけだからだ。
ケリュンは跪けない。自分は騎士で、彼女は仕えるべき御方ではなくなってしまった。だからただ一度だけ愛想のように会釈し、顔を上げる。
昏い瞳で見つめれば、ロッカは心底嬉しそうに笑った。エメラルドグリーンの瞳が優しげに細まり、口角は上に。ふふ、と軽やかな声が零れる。すらりとした体が揺れ、綺麗に切りそろえた水色の髪が流れた。
雲が溶けこんだ空の色。海をまとった風の色。どこまでも伸びていきそうな、自由の色。
「ケリュン。私たち、変わっちゃったね。私、本当に、どうしてこうなっちゃったんだろう? ってたまに思うの。
だって私はイレーヤとクレアの従姉妹で、昔は二人ともとっても仲良しだったの。どっちも遊び相手としてはイマイチだったけど、それはお互い様って感じかな。なんだかんだうまくやってたもん。
アレヤも好きだったわ。もちろん私は、彼女が私の父を殺したとは思ってる。でも……だって、彼女は優しかったし、私になんでもできる素敵な環境をくれた。母親にはなってくれなかったけれど、そんなもの求めてなかったらどうでもよかった」
「……だけど、不思議ね。だけど、足りなかった」
「だって、一番になれなかった。誰の一番にも、私はなれなかった……おかしいじゃない、そんなの。私は前王の娘よ。子どもだったからうまくやれなかったけど、本当なら私はもっと権力を持ってよかったはず。アレヤが王座に座ったせいで、私がそこに座る可能性はなくなった。きっと次は彼女の娘の番でしょう? しょうがない、わかってる。分かってるけど、でも、おかしいじゃない……」
「ルダはいくらでも囁いてくれた。本当の甘い現実ってやつ。そんなもの存在しないのに、あるみたいに言うの。
本当は私が女王、それが現実。私は皆に傅かれて、いつかどこかの『マルテ王国史』で絶賛されるような施政をしちゃうの。
――なんて。小さい頃からルダは私となかよく、なかよく、なかよくしてくれたから、だから、言うこと聞いちゃっただけかもね。あはは。この時のためにね。そんなこととっくに知ってたけど、だけど、彼は優しかったから……」
呟いて、心細そうな迷子みたいな素振りをするロッカ。俯いて、悲しげに瞳を翳らせている。
――女王や王女二人の部屋に繋がる『霧の道』が塞がれていたとき、おかしいと思った。この道を知るのは限られた人物、王族だけ――王族の誰か。『霧の道』に侵入しやすい城にいる誰か。女王と、王女二人以外の誰か。
そしてその誰かは、その三人が殺されてもいいと思っていたのだ。
ケリュンは顔を歪めた。
「俺には、甘ったれの無い物ねだりにしか思えません」
ケリュンははっきりそう言った。それが互いのため、否、自分のためだと思った。これ以上、通り過ぎてゆく過去を振り返ってやる気はなかった。
だというのに。
ロッカはそれを聞いた瞬間、
「だってね、お姫さまって甘ったれなんだもん」
くしゃりと顔を歪めて、笑って、その時初めて、ぽろりと涙をこぼしたのだった。
そんな顔、みたくなかったのに。
「なにが、」
だからケリュンも、釣られるように言葉を零してしまった。
「なにが、一番だ。そんなこと簡単に想ってくれる奴がいるもんか」
孤児のケリュンは知っている。己を想ってくれる存在、その得難さを。
周りがどれほど善良で、親切で、真っ当であったとしても。自分自身に何か――ケリュンであれば狩りの腕であったり、残された畑であったり、若さであったりした――が無ければ、誰も自分のことを見るはずもない。その『何か』を手に入れられないがために、泥水を啜り生きる者のどれほど多いことか。レナートの父ラズールは、貧民街に生まれてどうしようもないまま暗殺者に身を窶して。それでさえどれほどマシかといった程だというのに。
「貴女は――」
王族であり、望むものをいくらでも得ただろうロッカの言葉は、ケリュンにはあまりにも我が儘に聞こえた。
「なんとでもしようがあったくせに、なんて勝手な人だ。ルダ様だってそうだ! あまりにも身勝手な……貴女を想う人がどれほどいることか。イオアンナ様、兵、たくさんの国民。ああ、俺だっていたでしょう。友人くらいにならなれます。いくらだって!」
「私はイオを殺したのよ」
ロッカはケリュンの言葉をただ一言で切り捨てた。「それにあなた、イレーヤを愛しているくせに」
「哀れむくらいなら誰にだってできます」
「何を今更……、……あんまり何もかも足りないから、もうなにもいらないのよ」
「分かりません。諦めがいいのですね」
「貴方は諦めが悪いわ」
ケリュンは手の中にある、ルダの剣を握り直した。
「俺の手の中にあったものは、一度なにもかも無くなったから。次は絶対手放さないと決めたんです」
「私たち、反対ね」
虚しい人だ。本当に虚しい人だ。
求めては諦め、どうするかを知らない。手を伸ばすフリばかりして本当は何も求めていない。次と過去のもしかしたらを想像して、しかしそれに夢見ることもない。彼女の中には何もない。それこそ「私」しかいない。空っぽの彼女しか。
己の善性を押し殺し野心を燃やすルダと、いったいどのような会話をしていたのだろう。ケリュンには想像もつかなかった。
「逃げ場はありませんよ、ロッカ様。俺は、貴女を捕まえます。そして今までの全てを、洗いざらい吐いてもらいます。ルダと一緒に」
「い・や! ……でもケリュン、あなたが、今! ここで! 私に全てを訊くのなら、私はそれに答えてあげるわ」
ケリュンは黙った。感傷的な沈黙ではなかったと、自分では思う。
「何が聞きたい? 私のぜんぶ? すべてって言ったかしら?」
「……なぜ、は今聞いたので。何を、したのか。全て話してください」
「そんなこと?」
ロッカはつまらなさそうに目を細めた。ふてくされた顔。それも覆い隠すように、彼女の口角が釣り上がって、綺麗な笑みを形作った。
「あっははは!」
「……」
「話すわよ、話す! ルダは、彼は疲れていた人だったわ。私はなんとなく分かった。だから側にいた」
ロッカは、ルダの事情の詳細は知らない。二人は友人ではなかった。父と母を亡くし、一人佇む幼いロッカに声をかけてきたのがルダだった。
ルダは若い頃から努力の人だった。ロッカが彼と初めて会ったのは、自分が5歳、彼は14歳のころだ。その頃から、彼は生真面目だった。地位に奢らず、鍛錬を怠らない。剣を振るい、机にかじりつき、言葉で人を操る術を学んでいた。それ以外にも、本当になんでもできた人だった。
やがて騎士院の長と呼ばれるようになった。
しかしうまくいかない。騎士院の地位は変わらない。他二院のおまけ程度の扱いである。
彼は挫けない。仲間を鼓舞し、戦い続ける。親、祖父、その仲間達、先祖代々の悲願である。
しかしうまくいかない。騎士院の地位は変わらない。
やがてルダをそこに導いた者は死んでゆき、ルダは独りになった。
彼は国をひっくり返すことにした。
ロッカも、もちろんそれに協力した。そもそも彼が幼いロッカに声をかけたのも、そのためだったから、これはきっとルダの想定通りだった。
「いろいろ悪いこと、したわ。あの女王くらいにね! ほら、私の何が聞きたいの?」
「全部。全部ですよ。」
「じゃ、一番大きいイベント……ドラゴンから、とか? えーっと、私達はまず、貴族のフレイヤ――豊かな魔力を持つ、彼女に目を付けたわ。彼女なら、ドラゴン……じゃなくても、強い魔物の一体や二体、召喚できそうだって思ったの」
フレイヤの、未知数なほど濃い魔力。マルテ王国はあまり魔法に関心のない国だ。そのためさして注目はされていないが、しかし、異常であることは確かだ。
調べたらすぐに分かった。彼女は、魔物使いの村の出身だった。閉鎖的な村にしては珍しいことに、捜索願が騎士院に出されていた。しかし、すぐに取り下げられていた。詳細は分からない。
ロッカがそのことを本人に直接尋ねると、フレイヤは記憶喪失で、故郷のことは完全に忘れていると言った。優しい彼女の両親にも、フレイヤはそう言っていたらしい。
嘘だ、とロッカは思った。
「嘘つきの目と顔、してた。私には分かった! ま、そのときは、ルダと情報共有して、それで終わり」
それからしばらく。珍しく、魔物使いの男がアルクレシャに現れた。そして、何もしていないにも関わらず捕まった。危険だから、とのこと。明らかに差別的な行動だった。
報告を受けたルダは、『謝罪』と称してその男に会いに行った。人払いをしてから、彼は尋ねた。
「フレイヤという人物を知っているか? 豊かな魔力の持主の、貴族の女性だ。魔物使いの村の出身らしいね。君の知り合いか?」
男は嘘が下手だった。フレイヤ以上に。
ただし彼は、フレイヤのことは何も言わなかった。そして、「何をすればいいのか」とだけ尋ねてきた。
彼はただただ物分りの良くて素直な、弱者だった。利用されるだけの善人だった。
魔物使いの男は、うまく使えた。フレイヤの名を出せば、彼は躊躇ってもすぐに言うことを聞いた。
リード村にいた、邪魔な『アルフレド』の男を殺させた。アルクレシャとフレドラの間のこの村で、傭兵として雇われた男だった。フレドラの商人から『レンディー』を調達するロッカらにとって、この女王の犬は邪魔だったのだ。
魔物使いの男はうまくやった。そうしたらそれだけで――なんの恨みもない、罪もない男を、相棒に殺させたというだけで――、精神的に参ってしまったらしい。これは、ルダもロッカも予想外だった。彼はよほど善良な人間らしかった。
魔物使いの男はあっさりとケリュンに負け、村に引き渡された。裁判にかけられる前に回収して、口封じに殺した。ぼろぼろになった死体を、フレイヤの前に持っていった。
フレイヤは泣いて男に取りすがって、涙枯れ果てるまで泣いた。
あとは、この男の復讐のため、などと嘯けば簡単だった。糸で操る人形のように、フレイヤは簡単に動いてくれたのだった。
「――で、他には何が聞きたい? フレイヤの知り合いだという商人から買ったレンディーのこと? それとも、レンディーにハマっちゃった私の可哀想な恋人のこと? それとも……」
「もう、充分です。……気分が悪い」
「そう? 貴方は、もっと色々聞き出すべきじゃない? 立場的に、今後のことも考えて……。ねえ、そうでしょう?」
「貴女はなぜ、こんなことができたんだ!? ルダ様もだ。あの人、最初は俺にも親切だった。こんなことをするような人間が、なぜ……」
「ケリュンは、アレヤに使われたでしょ? 何をどう騙されたのかは知らないけど、私やクレア、イレーヤを紹介されて、それから傭兵になって。明らかに、おかしな存在……だから、ルダは懐柔しようとしてた。こっちに引き抜ければ――まあ無理だと思うけど、ありがたいし。それに何かちょっとでも情報を得られたら良しってね」
私も賛成してたのに、とロッカは深い溜息を吐いた。
「あのバカが――私の恋人がうっかり引き起こした『暗殺事件』、あったじゃない? あれ、本当はもっと様子を伺ってからに――いや、もう遅いわね。ま、それでケリュンが有名になって、警戒したのね。他にも理由はあったけど……ケリュンに近付く危険性を考えて、あんたを懐柔するのはやめたの。寧ろ敵視してた。近衛になってからは、暗殺しようとしてた……ルダのこれは、本当に失敗だった!」
急にロッカは狂ったように笑い出した。
「ケリュンと正反対でそっくりでもあった私はそれを知ってた、分かっていた! こいつは危ない、何も持ってないこいつは何でもできるって! 馬鹿なルダ!! だから私はあいつを切り捨てることにした! 当然よね、使えないんだもの!」
「……それで、一人でこの先に行こうとしていたんですか」
「うん。ルダの馬鹿に盾になってもらってね。よく分かったわねえ?」
「なんとなく。あの人は時間稼ぎをして、何か、誰かを、庇っているように見えたので」
「そんな人なのよ。利用して、利用されたっていうのに、誰かが追って来てるから相手になるってさ。そんなこと言って、ほんと馬鹿で、くだらない……。あはは、傑物ってやつね。人でなしではなかった――なのに、ケリュンは此処まで来ちゃった」
悲しげに微笑む。そして忍ばせていた短剣を抜くと、ロッカはケリュンに襲いかかった。
勝てるはずもないのに。
ケリュンはロッカの手から武器を払い落とすと、彼女の足元を蹴り上げて転ばせた。背中を踏みつけ抑え込むと、彼女のドレスの裾を剣で切り裂く。それを縄代わりにし、彼女の細腕を縛り上げた。
それからケリュンは、明らかに動く気のないロッカを立たせ、移動し始めた。ロッカの歩みはのろかったが、ケリュンは急かさなかった。
「……ねえ、ルダは本当に死んだの?」
「生きてますよ。……貴女も彼も、罪を裁かれないといけませんから」
「そう。ねえケリュン、私のこと殺さないの?」
「今の俺の話、聞いてました?」
ロッカはくすくす笑う。
「ほんと……本当にだれか一人、だれか一人でいいから私を、心から哀れんでくれたらよかったのに」
「そういう人はいなかったんですか。ルダ様とか」
「あいつは、ただの共犯よ。友達でもなければ恋人でもない、私のための共犯者……」
「共犯……」
「あいつにとっての私は、前王の娘の、価値ある私。……私のことをすきになってくれたのは、私の真実なんて知るはずもないひとだけ。イオ、うつくしい私の友だち。私のかわいそうな恋人たち――」
「ロッカ様……ロッカ様?」
完全にロッカが足を止めてしまったかと思えば、やがて膝から崩れ落ちた。顔色が悪い。呼吸に雑音がまじり、手足が痺れているかのように震え、やがてそれが全身に及ぶ。
「こ、こんなものか……はは、そうか……」
「ロッカ様、貴女まさか」
「毒、これ、アレヤが父を殺したって、ルダにいわれた、毒……これが、こんなものが。ふふ…………ねえ、ケリュンものんでくれる?」
美しい透き通るような緑色の目が、じっとケリュンを見つめる。
静かに首を振って拒絶した、ケリュンのことを。
「なあんだ――ケリュンなら、いっしょにしんでくれるとおもったのに……」




