それだけのこと2
ルダと剣を合わせたのは始めてだった。傭兵だった頃も、まさか下っ端のケリュンが彼と手合わせするはずもなかったし、出世した後も所属が変わったため会うことすら少なくなった。それがまさかこうなるとは。
彼の剣は速く、重い。手本通りの動きを見せたかと思えば、突如として嵐のように荒々しくなる。
(強い)
しかしケリュンはより強い人を知っている。
(イオアンナ様と少し似ている)
ケリュンは手も足も出せず、ただただ一方的に倒されるばかりであった。盾を用いての訓練を特に繰り返した。見えぬほどの剣撃を必死に防ぎ、躱したものだった。
だから体が動く。目も、脳も、それを理解する。ケリュンの持つ拾い物の盾は小さい。正面からルダの剣を受け止めれば砕ける可能性もある。それを狙ってみてもいいが、今ではない。
――本来の動きであればここで俺が盾ごと押し込む。
しかし盾は使えない。半身に構え一歩踏み込む。
「っ!?」
「もう半歩、足りないか……」
振った剣はルダの頬を掠めるだけだった。ケリュンは長く息を吐く。普段使う牽制の踏み込みは力を込めなくていいから、そのせいでもう半歩動きが足りなかった。追ったがすぐに引かれてしまった。
イオアンナ。師たる彼女の教えが、次々とケリュンの脳に蘇る。しかしルダは彼女の言葉とは、少し異なる動きをする。そうだ、彼女の教えより、これはもっと、古臭い――
「そこっ!」
「あなどるな!!」
攻撃を弾かれた途端、勢いよく迫る剣。小さな盾で受けたがその力をうまく受け流すことができず、肝心の盾がひしゃげるように歪んだ。その衝撃は手が痺れるほどで、ケリュンは慌てて飛び退いたが、容易く追撃を諦めてくれるような相手ではない。
「大人しく俺に切られろ、ケリュン! 後で手厚く弔ってやろう! 俺はこの国を強く正しく導いてみせる。だから――」
「うるさい、この外道!」
「何が外道だ、お前はあの女王のやり口を知らないからそんなことが言えるんだ!」
嵐のような攻撃に防戦一方になりながら、ケリュンはじりじりと後退する。
「あの女がどれほどの人間の期待を踏みにじったか、どれほどの人間を手にかけてきたか、お前は知らない。何も知らないくせに、偉そうに――!」
「何も知らないって、それは俺には大した被害が無かったからでしょう」
「な、」
ケリュンの静かな声に、ルダの顔が怒りと屈辱に歪んだ。ケリュンは続ける。
「貴方達だけの恨みでしょう? 俺には、何の問題もなかった。きっと国民にも! 彼女の治世は平穏だった――それを貴方はまるで皆が被害者だったみたいに、自分が正義みたいに振る舞う。自分の野望を押し通したいだけのくせに!」
「黙れ……」
「なにより貴方のやり口は、本当に心底軽蔑します。汚い手ばかり使って、人の想いを踏みにじって、殺して……それでよく、正しく導くなんて言えますね?」
「黙れ、黙れ! 黙れ!! この俺を愚弄するのか! お前程度が!」
怒りで振るわれる荒々しい剣は隙も多い。しかしそれは誘い込むための隙であるようだった。その証拠にケリュンが一歩引くと、ルダは追って来ずただ静かに口を開いた。
「……なあケリュン、俺を通してくれないか? どうしてもやらなければならないことがあるんだ」
「この先は何処に繋がっているんですか?」
「進めば分かる。そうだ、君も一緒に来ないか? かつては共に戦った身だ。であればこそ、この国の問題も少しは理解しているはずだろう? なあ、ケリュン――」
柔和に微笑むルダに、ケリュンはぞっとした。殺し合いの相手に、殺すつもりの相手にかけられる言葉ではないと思った。
それから怒りが湧いた。彼はケリュンの言ったことを――自分が踏みにじった人々のことを、なんとも思っていないのだ。国の為に、大義のために、その下にあったもののことを、なんとも思っていない。
直属の部下であったはずの、イオアンナについても同じだろう。彼が陥れたケリュンの師――彼女のことを少しでも思い出していたら、その弟子であるケリュンに、こんな言葉をかけられるはずがない。
「……先程も伝えたとおりです。俺は貴方の手は取らない」
「ずいぶんと、嫌われたものだな」
「それほどの事を貴方はしてきたんですよ」
「分かっているよ」
え、と、思わず瞠目したケリュンの目に、ほんの少し困ったような顔をしたルダが映った。しかしその素朴な表情は、ほんの刹那のことだった。
「だからこそ、俺は勝たねばならないんだ! 成さねばならない! でなければ俺の今までのことが全て! 全て! 意味が無かったことになってしまう!!」
深い踏み込み。今までで最も冴えた剣筋は、美しい半円を描いてケリュンの腹を切り裂こうとしている。
ケリュンは片足を引くと、ひしゃげた盾を彼の剣に下から打ち付け、軌道を上向きにずらした。重心がぶれ、力が予期せぬ方向に流されたルダの返す刃は遅い。ケリュンは鎧の隙をぬって、彼の肩を深く突き刺した。肉や筋を断つ感覚、噛み殺される悲鳴――ルダが膝を付くと同時に、がむしゃらに振るった剣先をケリュンは避けた。
ルダは強い。しかしケリュンにとってはイオアンナほどでも、ドラゴンほどでもない。皮肉にも、彼の悪行がケリュンを強く成長させたのだった。
さて終わりか、と息を吐いたケリュンに対しルダは諦めない。片足に力を込めて、無茶な体当たりをしかけた。動揺したケリュンだが、さほどの勢いもなかったので下がって躱した。
それを見てルダは立ち上がる。ケリュンがかなり深く刺した肩からは血が流れており、剣を持つ手に力はない。痛みに喘ぐ声が囁く。
「全ての犠牲を無駄にしないためにも、俺は……」
次で終わる。その時を察したケリュンは、剣を構え直した。
ルダの踏み込みにあわせてケリュンもまた深く踏み込み、雄叫びを上げ剣を振りかぶった。その一撃は、ルダの手から剣を弾き飛ばした。ケリュンは歯を食いしばり追撃する――懐に飛び込むように、全体重をかけて鎧の胸部を突き刺した。砕けたような感触は、骨か鎧の一部位か。衝撃にのけぞるルダの側頭部に、ケリュンはひしゃげきった盾を振りかぶって叩きつけた。
無言のまま肩で息をしながら、ケリュンは手早くルダの剣を回収した。
あわや勢い余って殺したかとも思ったが、ルダは生きていた。気を失ってもいない。片足をつき、倒れ込むのだけは避けたが、荒い息を吐きうつむくばかりで、立ち上がろうとはしなかった。
(頑丈な人だ……)
「……俺はまだ生きているぞ、ケリュン」
「見りゃ分かりますよ」
「お前が、勝ったのか」
「そうですね」
「なぜ」
硬質な声。俯いたままのルダからは、表情は伺えない。
ケリュンはなんとなく気まずく思い、頬をかこうとしたが、両手が自分とルダの剣で占められていて出来なかった。
「……そう言われても。やり方がまずかったんじゃないんですか」
こんな所に一人でいたこと。ルダが複数人といれば、ケリュンだってどうなっていたかは分からない。きっと彼には信頼できる人間がいなかったのだろう。
テオドアとテギンの恨みを買ったこと。それがなければ、ケリュンだってルダがこんな通路にいるなんて、気付かなかったに違いない。
しかるべくして、ケリュンは今ここにいる。他にも遡ればいくつも理由は見つかるかもしれないが、全て今更である。
「人から恨みを買うようなやり方してれば、いずれ邪魔されるに決まっているじゃないですか」
そうして立ちはだかったのが、ケリュンだったというだけだ。他の誰でもあり得たことだろう。
物の道理を説くように話すケリュンに、ルダは歯を剥いて壮絶な笑みを零す。伏せたその頬骨に、蝋燭の火により陰影が踊る。血の赤が、橙色の炎に照らされている。
「――確かに俺は何人も殺してきた。あれこれ過去を振り返り理由をこじつけたところで、結局は己のため、欲のためだっただろう。……だがな、覚えておけ。お前だって正義面をして、人を、魔物を殺してきたんだろう? ……王に認められ、民に敬われる、そんな大志の前なら許されるのか? 欲のためだから、それだけで蔑まれるものなのか? いいか、心に刻め。俺とお前ではなんの違いもない。人を殺し、血を浴びた下種だ。お前も、俺の同類なのだ――」
彼の言葉を噛みしめるまで一時、それからケリュンは息を吐いた。
「俺とあなたの違う点は、そんなことを考えたことがあるかどうか、でしょう。そういったことを気にしてしまう点で、あなたはよっぽどその行いに理由が欲しかったのですね。でなければ自分を責めてしまうからでしょう。……今やっとそれが分かりました。貴方は立派な方だ――だけど、すみません。理由とかそんなものはどれも、俺にとっては、心底どうでもいいんです」
己の本性がルダと同類であろうが無かろうが、ケリュンにはどうだってよかったのだ。可哀想に、といっそ哀れむような心地でケリュンはルダを見下ろす。
ケリュンにとって重要なことは己が下種であろうかどうかということではない。どこぞの誰かに許しを乞うたことなどない。他人にも、自分にも。
彼が祈るのは、王族と死人にだけだった。
「……殺していい理由を考えるくらいなら、殺さなくて済む方法を考えれば良かったのに」
――聡明で地位も力もあった。同志だって大勢いて、きっと様々な人に認められていたんだろう。俺と違って。
しかし今更言っても、どうしようもないことだった。
ケリュンは自分の剣を鞘にしまうと、ルダの剣を手にして踵を返した。さっさと去ろうとする若い背中を追おうとして、ルダはうつ伏せに倒れた。届かぬ背中に、恨みがましい声をぶつける。
「待て! なぜ、俺を殺さない!」
「貴方は罰を受けるべきです。愛した騎士院で裁かれることが、貴方にとって、最も辛いことでしょう。それだけです」
「甘いな。俺がお前の背を追って、刺さないとも限らない」
「立てもしないくせに、よく言いますね。……それではさようなら、ルダ様」
ケリュンは足早にその場から去る。ルダの「待て」、「待ってくれ」、という声が弱々しい波のように何度となく響いたが、彼の歩速が緩まることはない。
やがてケリュンの背が完全に闇に飲まれてしまうと、ルダは這うのを止め、力無くうずくまった。
置き去りされたルダは、久方ぶりの疲弊と、孤独を感じていた。独りだった。今まで彼が守ってきた民草のように無力で脆い、弱々しい生き物に成り下がった心地だった。傷の痛みと流れた血のせいか、意識も朦朧とし始めた。
そんなルダの元に駆け寄る、二つの足音があった。ルダを助けに来てくれるような仲間はいない。耳を澄ませれば、一つはともかく、もう一つはあまりにも軽やかで、小さい。女性の足音だった。
暗闇のなかから現れたのは、大柄な男性と、細身の女性だった。ルダには見覚えのない顔だった。それは向こうも同じで、「ルダか?」と、わざわざ尋ねるほどだった。ルダは答えなかったが、それでも十分だったらしい。
二人は感極まったように目を潤ませて、互いに小さく抱擁を交わした。静寂を包んだ暗闇のなかに、ああ、と歓喜に震える溜息がこぼれ落ちた。
「ここまで長かったわね、あなた……テオドア。ありがとう……」
「こちらこそ、ありがとう。ああ、やっと辿り着いたな、テギン……」
ほう、と、テオドアとテギンの夫婦は揃って熱に浮かれた吐息を零す。
それから、爛と憎悪に輝く双眸をルダに向けた。
「あなたが、あなたが、あなたが、あなたがっ!! あなたがフレイヤを!! あの可哀想な子を!!!」
テギンは獣のようにルダに飛びかかると、彼の顔を繰り返し殴りつけた。彼女の手には、フレイヤが身に着けていた金の輪が握られている。それを何度も振りかぶり、ルダをしたたかに殴りつけた。
やがて、テオドアが静かにそれを止めた。妻の手に血が滲んでしまったためだった。テギンはしばらく肩で息をしていたが、やがて深く息を吐いた。
「……なぜフレイヤにあんなことをさせたの? なぜ彼女をああも酷い目に合わせたの?」
「あの子が何をしたっていうんだ? 答えろよ!」
「お前を許さない」
「絶対に許さない」
「お前のせいだ」
「お前のせいだ……」
テオドアとテギンの呪詛が坦々と響く。
ルダの目の焦点はあわず、彼は霞のような幻を眺めていた。たくさんの声が、憎悪が、倒れたルダに注がれている。流れ出た血と、気力の代わりに、それらがルダを満たそうとするかのようだった。最早ルダの目に、テオドアとテギンの姿は映っていない。テオドアとテギンの目には、地を這うルダの姿しか見えていないのに。
恨みと憎しみの種から芽生えた二人の努力はようやっと報われ、今ここに結実した。夫婦は半ば恍惚と、傷だらけで伏せるルダを見つめた。この暗い地底に、彼らを見咎める者は誰もいなかった。




