クレアは独り
アレヤ女王が死んだと、暗殺されたと。その声が王城に響く頃には、すでにあちこちで戦闘がなされていた。
武器を帯びた騎士院の兵が、城になだれ込んできた。背反である。女王亡き今、王女二人だけは死守せんと近衛兵らは文字通り身を挺して動いた。やがて、騒ぎを聞きつけた別の騎士院の兵らも城に現れた。彼らの多くは、王族のために戦おうと動く者達だった。敵味方入り乱れての戦いは、またたく間に城を血に染めていった。
そんな時に、ケリュンは城に辿り着た。女王や王女二人の自室に繋がる『霧の道』は何故か塞がれていたので、前も利用した中庭の井戸から侵入した。
以前レナートがメイドのフリをして侵入したときのことを思い出した。彼女はあれから、自分がどこをどう辿ったか教えてくれた。他にも、あそこはベランダを飛び移れるとか、あそこは壁が修復されてないので四階まで登れそうとか、とてもじゃないが勤めている人間に喋るべきじゃないことまで喋っていた。
まさかそれがここで役立つとは。
ケリュンは中庭の木を登って二階のベランダに飛び移り、そこから横のベランダに飛び移った。あとはレナートの言っていたとおり。修復されておらず凹凸のある壁を登った。蜥蜴にでもなった気分だった。
「イレーヤ様……!」
一部割れていた廊下の窓を割って、無理やり侵入した。少し頬が切れたが、問題ではない。
敵はいなかった。イレーヤの部屋は彼女の性格ゆえか、城の隅、人気の無い場所にある。そのお陰かもしれない。
しかし油断は出来ない。彼女の部屋の方向に近づくほど、最悪の事態の想像に背筋が凍る――が。廊下の曲がり角を曲がった瞬間、イレーヤの部屋の前に、近衛兵が護衛のように立っていたので、内心安堵の息を吐いた。
「ケリュン殿! いらっしゃったか」
「ええ。王女様は」
「中に。逃走経路も確保できず、どうしたものかと思っていたところです。……お任せしても、よろしいですね?」
「はい。貴方方は……」
「私達は此処で、逃げる時間を稼ぎます」
「分かりました。……その、女王はやはり?」
「ええ。情報は錯綜していますが、恐らく。……この状況では、他の王族の方も分かりません。第一王女を頼みました、ケリュン殿」
ケリュンは頷いた。部屋の鍵を開けてもらい中にはいると、イレーヤが待ち構えていたかのように、ケリュンの胸に飛び込んできた。
「ケリュン様……わたし、わたし、何が起こったのか……」
「ここから逃げます。きっと貴女を守り抜いてみせます。貴女だけは、必ず。俺に付いてきて下さい。慌てず、落ち着いて。……出来ますね?」
「え、ええ……」
混乱しながらも素直に頷くイレーヤに、ケリュンは微笑んだ。少し強張った笑顔だったが、イレーヤは何も言わなかった。
クレアは思わず自室から飛び出していた。このまま此処にいても助からないと判断してのことだった。最早それを止めてくれるはずの兵もいない。敵をクレアの方に来させぬためと、戦闘の援護に向かってしまった。クレアは独りだった。
自分の無力さをひしひしと感じていた。自分がこうも何も出来ない小娘だとは知らなかった。知りたくもなかった。
しかしこんな場所でも、自分は死なない、という確信がクレアにはあった。『特別』だからだ。クレアの未来、運命には、一点の曇りもない。
――私は全てに相応しく動くことができるし、全ては私にその通りに応えるだろう。
クレアはこの城に一番詳しい自負がある。『霧の道』だって、誰より使いこなせるのはクレアだ。きっと逃げられるに違いない。
(生きなければならない)
クレアは自分に言い聞かせる。辛い現状に、意志が、足が挫けぬよう、自分に語りかける。
誰もがクレアを助けようと動いてくれている。だが、傍にいて守ってくれるわけではない。だから独りなだけだ。辛いが、どうしようもない状況だ。だから、仕方がない――。
なのに。
なのに。
ケリュンが、自身より幾つも年上の姉姫と共にいた。階段を降りてきたところだった。別の場所にある下り階段へと向かうため、廊下を走っていた。
まるでイレーヤを庇うように肩を抱き、走っていた。
(どうして。……どうして!)
(私はこんなにも独りなのに! 私はこんなにも『特別』なのに! 私はそのために頑張ってきたのに!)
そんな内心の激昂に反して。
立ち尽くすクレアの目からは、ほろりと涙が零れ落ちただけだった。
――やがてはっと我に帰ったクレアは、遅れながらも二人の後を追おうとしたが、目の前の光景への衝撃からか足がもつれ、倒れてしまった。
「つ……」
痛みを堪え顔を上げると、二人はクレアに気付かず駆けてゆく。クレアを置いて、その背中は小さく、小さくなっていく。
「ケリュン様……ケリュン様!!」
クレアの、悲痛な叫びは届かない。
「ケリュン様ぁ!!!」
二人の姿が完全に見えなくなっても、クレアは暫しその場で茫然としていた。
しばらくの後クレアはゆっくりと立ち上がると、緩慢な動作ですぐ傍にあった柱の下部に手を這わせた。か細い指先があるブロックに触れると、それはすっかり奥へと沈み込んでいく。
そのことを確認すると、彼女は転んだときに捻ってしまった右足を引きずりながら、元来た道を戻りだした。
「ピーナ!」
そう叫んでアグリッピッピーナの家に飛びこんできたのは、大きな布を被った人物と、それを庇うケリュンであった。
「わ、ケリュン?」
「理由はあとで話す。――この人を頼む!!」
ケリュンはそれだけ言い残すと、再び外に飛び出していった。
「ケリュン!!」
残された人物が彼を追って手を伸ばした途端、身を隠していた布がはらりと落ち、豊かなロングヘアーが露わになった。
「イレーヤ!? 無事だったのか。怪我は? 城は?」
「いえ、私は大丈夫です。城は、城は……ああ、ケリュン……」
「お、王女様……!?」
ひえ、とエミネルが目を丸くするのと同時に、「いでえっ!」と悲鳴が上がった。慣れない手当中によそ見をしたので、怪我人の男の足に巻いていた包帯を、思い切り引っ張ってしまったのだった。
「とにかく無事でよかった。しばらく此処に隠れていろ」
「ありがとう。その、クレアがどうなったのかを知りませんか? 私、心配で」
「いや。そこまでの情報はきていないな。何があった? 誰の仕業だ?」
「わ、わかりません。私、何が起こったのかもよく分からないままで……ただ、母に何が起こったのかは、聞きました。……それで、ケリュンに助けられて……」
イレーヤは顔を曇らせて俯くと、震える両手で顔を覆ってしまった。
「ああ、クレア、ケリュン……。なんてことなの……」
「いれっ、イレーヤ王女、ご無事で何よりです!」
ちょうど手当が終わった怪我人の男は、痛みを無視して転がり落ちるようにイレーヤに平伏した。
「俺――いえ私は、近衛兵だというのに、こんな時に、怪我を負って何もできず……なんの、なんの役にも……ううっ……」
「何もできないのは、私も同じです。どうか落ち着いて、泣かないで」
「あ、ありがたきお言葉……」
うう、と青年は地面に突っ伏してしまった。
横でその光景を見ていたピーナは溜息を吐いた。
「怪我人がはしゃぐな。それにイレーヤ、お前も少し休め」
「いいえ、私は大丈夫です」
「顔色が悪いぞ。倒れられたらこちらが困る。奥の部屋が空いているから、そこを使ってくれたらいい」
「誰かのお部屋なのでしょう。それなのに私が使うというのは……」
「気にするな。そこを使っていた夫婦なら、もう出ていってしまったから」
まさかこんな時に、とさすがのイレーヤも不思議に思ったが。苦虫を噛み潰したようなピーナの顔と、それにひどく気まずげなエミネルの様子に、とてもではないが事情を尋ねることもできず。ただピーナの言うとおりに、奥の部屋へと移動するのであった。




