始まりは、
おおよそ物事の始まりは、ケリュンの与り知らぬところで動き出す。
今回もきっとそうだった。
ケリュンはアルクレシャの町並みを歩いていた。いやに派手な鎧姿で、城下の巡回中である。ただこれは警備というより、『英雄が町の平和を守っている』と言う宣伝だった。しかし、警邏等は騎士院の担当である。無駄に刺激はしたくない、と最初はやんわりと断ろうとしたが、「犯罪の抑止になる」と言われると拒否できなかった。
近衛兵とはいったい。
そしてやることは単純。話しかけようと寄ってくる市井の人々を追い払う役の三名と、ぷらぷら町を練り歩くだけ。
「(あっつ…………)」
装飾性は高いが軽い造りの鎧だ。が、やはり鎧なので暑い。太陽の下を堂々歩くための格好ではない。
おまけに今日はどんな意味があるのか、ずいぶん遠くまで歩かせられていた。
無駄な仕事、という言葉が、熱にゆだった脳裏をよぎった。
「……ケリュンさん。少し休みませんか。この暑さですし」
「あ、はい、そうですね。じゃあ、そこの日陰にでも」
側にいた一人に小声で提案され、ケリュンは頷いた。彼の手を借りて鎧を脱いで、物陰になった地面に座り込んだ。
残る同行者二名もそれぞれ座り込んだが、彼らは異様に無口だった。それでも疲れているのだろう、うつむき加減でじっとしている。喋ってくれるのは、一人だけだった。
「やはり英雄は凄いですね。人気があります」
「こんな鎧でフラフラしてたら、そりゃあ皆興味持つでしょう……」
派手な鎧で数人従えた若者が突然通りを歩き始めたら、皆あれはなんだと視線くらい向けるだろう。英雄だからでなく。
ケリュンは現実逃避のように青空を仰いだ。
上司からの指示だった。近衛にも一応階級があって、新入りのケリュンは英雄といえどただの兵。言われたことに従わないわけにはいかない。
しかし、少し違和感を覚えたのは事実だ。
ハリボテみたいな鎧を着て、町を歩き回る? こんなことに人を割くからには、ただの嫌がらせではないだろう。では、なぜ? 本当にただの仕事だろうか。
「……このまま一度、戻りませんか?」
ケリュンは思わず、そう提案していた。
「これの意図が分かりません。戻って、これが本当に必要なことか、尋ねたいと思うんですけど……」
「そうですね。こう言っちゃなんですが、意味分かりませんしね。これ」
同行人の一人が零したぼやきに、ケリュンは強く頷いた。「じゃあ、」とそのまま腰を上げたところで、
「なっ、お前ら何を――がっ!!」
賛同してくれた青年が、悲鳴を上げて倒れた。
ケリュンは慌てて剣を抜く。足を切られ、血を流して倒れ伏す青年の側には、同行者であったはずの二名が、やたらと暗い顔で立ち尽くしている。
「……何が――いや、そちらの事情を聞いてもいいか?」
「いえ。それはできません。貴方には此処で、死んでもらわないと」
「俺が何かしたかな……」
英雄になって歓迎されたりされなかったりしたが、殺される程のことをした覚えはない。
ぼやくケリュンに、男二人は何も答えない。
――彼らは、二人だけ。他に仲間はいなさそうだ。たぶん。これなら負けはしないだろう。
それだけのことを推測して、そこでケリュンはふと疑問に思った。
――じゃあ、こいつらは何の為に俺に立ち塞がっているのか?
「この男を人質にとったら、貴方は大人しく死んでくれますか?」
「……いや、自分が死ぬってなったら、普通に見捨てると思うけど」
俺が死んだらどうせ殺されるだろうし、とケリュンが素直に答えると、「そんなあ!」と倒れている青年が悲痛な声をあげた。
致命傷でないのは見て分かったが、思ったよりも元気そうだ。足の怪我だから立てはしないだろうが、少しくらいなら死にはしないだろう。
できるだけ早く仕留める必要がある。
アレヤにとって、始まりは不意に訪れるものでなく、自らの力で作り出すものである。物事の流れは全て、王族を中心として、彼女の手の中で動いていかねばならなかった。それが当然であった。
体調不良による休養のため、自室で一人深く椅子に腰掛けていたアレヤは、来訪者に視線を向ける。
「あなたが、ここに来るのは久しぶりね」
熱のせいで力ない声に、返答はない。
来訪者はただ歩みを進める。
「お喋りをしに来たのではない? それは残念――誰か! 誰かここに!」
アレヤは鋭く声を上げる。いずれここにも、アレヤのための兵が訪れる。
しかし、それはすぐにではない。悟った独りきりの女王は、体から力を抜き、椅子にぐったりと凭れかかった。
「死をも恐れずに来たのかしら? だとしたら私、あなたを勘違いしていた。まさか、あなた如きに!」
呟きに返答はなく、アレヤの荒々しい言葉はまるで独り言の相を見せている。
アレヤに歩み寄る者の手には、銀に輝くナイフが握られていた。
「――愛しているわ。イレーヤ、クレア」
アレやは目を閉じた。最期の呟きは寂涼と彼女の胸に響いた。薄暗がりの夕暮れに、去る鳥を追って鳴る鐘のように。
最早、なにもかもが遅かった。
「グロウ先生、これで全部ですね?」
「おーおー、持ってけ持ってけ。評判落ちても文句言うなよ」
「またまたそんなこと言ってー。最初恋愛ものって聞いたときは確かに驚きましたが、これも絶対売れますよ! まさか今話題の――」
「おいおい、急いでんじゃなかったか?」
「そうだった! じゃ、先生、お疲れ様でした。また連絡しますんで!」
忙しない男の足音が遠ざかっていく。小さなウッカリさえ無ければもっといい編集なんだがなあ、と思いながら、ウグルト・ノベルは濃く淹れた茶を啜った。
スノウ・グロウ。それがこの新たな仕事で使われる彼の名だ。一切の露出無き謎多き作家。幅広く手がけてきたなかで、今まで手を付けてこなかった恋物語なんてものを書く羽目になってしまった。
「ま、彼女からの依頼じゃあねえ……」
白亜の城、その王座にあるだろう唯一の存在を思い出す。
いくら窓の外にやっても見えるのは周囲の民家ばかりで、まさか遠くの城が見えるはずもない。しかしウグルトはそれでも、ついついその方角の空を、窓から眺めてしまうのだ。
あの心身ともに擦り減る、福利厚生さえあったものじゃない前職に、まさか未練があるわけではない。だが――。
「っと、」
物思いに耽っていたせいか、ウグルトの指先から空のティーカップが滑り落ちた。安物のそれは他愛なく割れ、薄い破片が辺りに飛び散った。
ありゃ、とぼやいてウグルトはしゃがみ込むと、破片を片付けるためにその手を伸ばして。しかし、ふと、顔を上げた。
「――?」
窓の外、ウグルトの視界に映る空は高く、青いばかりだ。一筋の雲さえかかっていない。しかしウグルトはなぜかそのまま、青空を眺めたまま動けなかった。
早く片付けようと思っていたケリュンだが、結果から言うと、思いの外手こずった。
妙に翻弄するような手を使う相手二人だった。距離を広く取り、小さくフェイントをいれ、長い時間をとって相手の油断や披露を誘うような戦い方だった。近衛兵の戦い方としては、余りにもらしくない。
怪我人がいるから見捨てて逃げ出すわけにもいかず、ケリュンは結局、最後まで彼ら二人の相手をする羽目になったのだった。
「お、おれ、あなたはおれを置いて逃げるかと思って……」
ぐす、と鼻をすする青年に苦笑して、ケリュンは彼の体を起こした。
「彼らとはどういう関係だ?」
「普通に同僚……としか、言いようが……。喧嘩したことはないけど、別に仲良くもなかったし……ぐすっ」
「立つのは……難しいか」
「無理……ううっ、切りどころが悪かったら、おれ、死んでた……足は、怖い……」
確かになあ、とケリュンはしゃがみこんだまま顔を覆った青年を見る。足を通る太い血管が切られていたら、彼もあっという間に死んでいたに違いない。油断していたところを切ったはずなのに、敵がそこを避けたのはなぜだろう。
そもそもなぜ、英雄と呼ばれるケリュンを先に仕留めるのでなく、同行人を切ったのか?
確かにそのせいでケリュンは、彼らと真っ向から切り合うことになったが。
(それが目的?)
確実に勝てる、という見込みがあるわけでもない相手に、なぜ。
歩かせて、疲れさせて、鎧を脱いだから、それで勝てると? まさか。
確かに城から少し離れ、疲れていたが、その程度で――
「――城に戻らないと!」
「へ、な、どうしたんだいきなり」
「俺は戻る。適当に知り合いを呼ぶから、此処で待ってろ!」
「えっ、な、ま、待ってくれよ、おい――」
呼び止める声を無視し、ケリュンは走った。
「ピーナ!」
「どど、どうしたんですか、ケリュンさん……」
アグリッピッピーナの家の戸を叩くと、遊びに来ていたらしいエミネルが顔を出した。彼女に青年のいる場所を伝え、医者とともに救護に向かってもらうよう頼む。エミネルは驚いた顔をしていたが、ケリュンの言うことには素直に頷き、走って家を出ていった。
「ピーナ!!」
「なんだケリュン、騒がしい……」
「一番近い『霧の道』は!?」
「……城か?」
「ああ」
「案内する。近くだ」
テオドアとテギンが奥で怪訝な顔をしていたが、ピーナは何も言わずドアを閉めた。
駆ける彼女に先導され、ケリュンは進む。ややあって彼女が足を止めたのは、路地裏にある無人の、小さな民家だった。
以前ケリュンが、『霧の道』のために利用したことのある小屋だった。
「此処か……」
「知っているなら、使い方も分かるな。――私は、行かない。この体では、少し長生きをするつもりだからな」
「そうか。……なんだか、珍しいことを言うな」
本当にとても貴重な気がして、ケリュンは戸に手をかけたまま、思わず振り返ってしまった。
「ふふん。お前には特別に、この私の成長を見守る権利をやろう」
「はいはい」
胸を張るピーナに、ケリュンは少しだけ苦笑を浮かべた。
「ありがとう、ピーナ」
そしてそれからは振り返ることもなく、古ぼけた戸の向こうへと去っていったのだった。




