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「……ええと、その、つまり。この国がやけに読み書きとか、教育熱心なのも……」
「聖マルテの物語を、幼い頃から人々に刷り込むため。疑うまでもない物語であると、知らしめるため」
「この国で、あまり魔法使いが重要視されてないのも?」
「聖マルテのことがあってから、意図的に、触れないようにする――という消極的な方針ができたため」
言葉を失うケリュンに、イレーヤは説明を続ける。
「他にも、例えば……、『霧の道』は聖マルテとデヒムが作ったものだけれど、主にマリーダ達が隠れて移動するのに使用されていて……王族と、認められた者以外使用できないのは、そのためだと思うの。彼女達のことは秘密だったから……」
「……なるほど」
ケリュンは頬を掻いた。
聖マルテとデヒムの建てた城は全て、国の所有物とされている。例え実際にそこを使用している城持ちの貴族であっても、決して、勝手に造り替えてはならない。厳しい規定は、そのためだろうか。
(…………何やってんだ聖マルテぇ!!!)
駆け落ち!! 建国の!! 神の子が!!? もっと考えろよお!!
内心絶叫するケリュンの眉間の皺を苦悩と取ったのか、イレーヤはしゅんと俯いた。
「いきなり、こんな話をしてしまって、ごめんなさい。驚いたでしょう?」
「いえ。話していただけて、嬉しいです。ほら、あの、『アルクレシャの底に潜む、闇の神様の話』以来ですね。少し懐かしいです」
「確かにそうね。あの話もこの話も、王族ですら、知らない方もいる――という点では同じね。本当にどちらも、滅多に人に話さないことだから」
「それは、…………その、なんでそんな話を、俺なんかに?」
「……本当に、人生を賭けてでも信頼できる相手にだけ、この秘密を話していいと、母から言われていたから……だから、だから私は――」
イレーヤの赤く染まった頬に、ケリュンも釣られて赤くなった。あ、と咄嗟に何事か言おうとして結局噤んだ口の中が乾き、心臓が高鳴る、というよりやかましく暴れる。
この一瞬で、さっきまでの、常識全てをひっくり返るほどの真実がふっとんでいった。
――やはりイレーヤ様が至高であり唯一……。
ケリュンは心の中で、その事実を確認した。ケリュンにとっての、この世の真理である。
もしかしたら、聖マルテも、自分にとってのイレーヤのような人間と出会ってしまったのかもしれない。だとしたら、彼の全てを捨てて駆け落ち――という無責任極まる選択の理由も、分かる気がする。……いや、ケリュンも一応は社会人なので、身内関係者その他諸々全員に迷惑をかけるような選択は、正直どうかとは思うが。
でも、分からなくはない。
「一生を、」
「え?」
「一生を貴方に捧げる覚悟、貴方の全てに添い遂げる覚悟も、俺は、とうに出来ています。……でも、俺は、」
「ケリュン……?」
「俺は、ただの、庶民で。勲章はあるけど、権力も、土地もない。…………だけど、イレーヤ様。貴女にそう言っていただけただけで、俺は本当に、きっと死ぬまで、貴女のためだけに生きていける……」
イレーヤは悲しんだらよいのか喜んだらよいのか分からない、そんな顔をしていた。ケリュンもとてもではないが微笑む気分にはなれず、ただ彼女の目を見つめた。
ケリュンは本当にイレーヤのことが好きで、彼女と結ばれたいと願っている。しかし、それでもケリュンには、出来ることと出来ないことがある。
聖マルテがしたように、イレーヤが駆け落ちを望んだら恐らく叶えただろう。が、彼女がそれを求めるはずもないと、ケリュンは知っている。イレーヤは自らが王族であることに複雑な思いを抱いてはいるが、自分が王族であることに、疑いを抱いたことはない。その座から離れるという選択肢はきっと、彼女の中にはないのだ。
やがて、ケリュンがにこ、と口元だけで微笑むと、イレーヤも戸惑ったように笑みを返してきた。それが、今の二人の限界だった。
「……ふざけないでよ」
廊下に立ち尽くしたまま、ロッカは一人呟いた。ロッカはイレーヤに会いに行った。大した用ではない、以前の喧嘩のことを謝るなどして、いくらか話そうと思っていた。一人で部屋で静かにしていると聞いたから、ちょうど良いと思い、会いに行った。
言い訳をすると、イレーヤがケリュンを呼んだなんて知らなかった。
こっそり男を連れ込んで、と笑ってやってもよかった。しかも相手が、あのケリュン! 時の人、竜殺しの英雄だ。そして、ロッカの友人でもある。……ちょっとくらいの、恋の話なんてできたら、そしたらイレーヤ相手でも、会話を楽しめるかもしれない。
盗み聞きして、なんか面白くなってきたら、部屋に飛び込んでやって。それから、二人揃ってからかってやろう。それくらいのことは思った。
それが。あんな。
あんな話を。
「なんで……」
吐きそうな心地だった。不快さのあまり、内臓のあちこちが痛む気がした。混乱のあまり、自然と喉から呻き声が零れる。手足がうろうろと落ち着かない。狂人の有様だ。
部屋に籠もるべきだと分かるが、その方向が分からない。どっちにいったらよいのか、なにより、自分が何をするべきなのか、何も分からない。……分からない。
「知らない」
知らなかった。拳をきつく握る。気づけば足は動いていて、自分がどこに導かれようとしているのか分からない。そこまで意識が回らない。
『アルクレシャの底に潜む、闇の神様の話』をロッカは知らない。王族の真実を、ロッカは今まで知らなかった。
一部の、王族だけが知る特別な話。イレーヤが恐らく母である女王から伝え聞いた話。
その一欠片も、ロッカには知らされてこなかった。誰からも。……当然だ。ロッカにそんな義理を持つ人間はいない。盗み聞きなんて卑怯な手を使って、ロッカはそれを手に入れた。そんな真似をしなければ、この情報は永遠に手に入らなかっただろう。
自分でも気付かぬうちに、ロッカは泣きそうな顔になってどこかを彷徨っていた。弱い迷子のように、膨れ上がった不安に押し潰されそうになっている。
――いつかの、イレーヤの言葉。まるで一切の不幸を背負わされた、哀れな被害者であるかのような、あの、儚げな顔と声。
イレーヤが目の前にいるかのように、ロッカの脳裏はそれを繰り返す。
彼女はロッカにのたまった。「あなたにも分からないことがある」と。その時はよく分からなかった。負け惜しみのような、一片の自尊心が吐かせた台詞だと思った。……少し考えればすぐに分かったはずだ、あのイレーヤに、そんな感情があるはずない。
同じ王族といえど、立場の違うイレーヤとロッカ。二人には明確な差があるのだ。と、あのとき彼女はそう言っていたのだ。
どれほど能力が無かろうと、惨めだろうと、イレーヤは女王の娘だった。ロッカとは、異なる立場の存在だったのだ。
ロッカは廊下の壁に手を当て、深く、慎重に息を吐いた。壁にうつった自らの影だけを見ながら、無心で何度か繰り返した。心が落ち着くはずもなかったが、上辺だけでも冷静になるためだった。気分の悪い熱を吐き出し、冷たい空気を体内に取り入れる必要があった。
そうしてじっとしている彼女の背に、長く黒い影がかかった。
――誰か知らないが、まさか今、わざわざ振り向いてやる気力もなく。
「ロッカ様」
名を呼ばれ、ロッカは深く溜息を吐く。彼女にかかる影がかすかに揺れた。




