『特別』
イレーヤとケリュンが言い合った後のことだった。イレーヤの部屋の前、第二王女クレアは二人の笑い声だけを耳にし、静かに己の部屋に戻った。
クレアはぼうっと、チェストに飾ってある猫の置物を見つめた。ケリュンから貰った物だ。この王城内では珍しい飾り。自分の為の、『特別』だ。
もしかしたら自分は内心、姉を見下しているのかもしれないと、クレアは時たま自問する。義務を全て免除されいてる姉。なにもできない姉。それを全て許されている姉。そして、その『特別』を羨ましがる自分――。
クレアはその横にある花瓶に飾られた薔薇を、砂糖菓子のような白い指先でつついた。ふくりと丸い朝露が溜息のようにこぼれ落ちた。
その薔薇の花は朝焼けを染めた色をしている。幾重にも重なる花びらは、高貴なレースのように薄く繊細で、絹よりもずっと柔らかい。見かけ通りに貴重な薔薇だった。 名はアレサという。女性名だ。聖マルテの名付けた薔薇で、「朝焼け」を意味する。
クレアはあまりこの花が好きではない。少し綺麗過ぎると思う。整えられ過ぎている。棘の薄いところも、潤沢に布地を使ったドレスの裾のような花びらの群れも、生える土を選ぶところも、匂いまで強くなく程よいところも。
幼いころ、品種改良という妙技を知った時には、あまりの不可思議さにぞっとしたものだ。形質の選択、未来の多様性。クレアはいくらか考えて、目を回しそうになったほどだ。
イレーヤはただ微笑んで褒めていた。単純にその美しさを、未来を賛美していた。
(……わからない)
クレアは、『特別』であることに慣れていた。それが当然であった。生まれつきの王族で、美貌と才覚があった。全てと渡り合うことができた。重圧のような義務も、懸命に果たしてきた。別に女王の座を狙っているとかでなく、ただ、そうするべきだからその通りに頑張った。嫌になることもあったが、いつだって愛想が良く聡明な、第二王女として振る舞ってきた。誰だってクレアに惹かれたし、自分はそれに相応しい働きをしているという自負もあった。
にも関わらず、第一王女である姉は、何一つまともに動かない。人々の何気ない小さな声に傷つき、恐れ、部屋に籠もり、またそれでひそひそと噂され、余計に籠もる。そのような愚かなことを繰り返していて、そして、それを母親に許されている。女王が許せば、それを表立って責める者はいない。
クレアはそれについて、ずっと、拗ねたように思っている。なぜ、義務を果たさない姉が特別扱いをされているのか、と。
――ケリュンという、少し特別な青年に初めて会ったのはもう随分前のことだ。母の手が、まるで駒を操るように此処へ運んできた、普段会う者とは全く違う人間。少し、特別な存在。
彼の言葉は素朴で、飾り気のないものだった。値踏みしたり、侮ったり、下卑た目でクレアを見ない。年若く、顔貌も良く、愛想が良くて話し上手。
クレアが好意を寄せなくとも、人は彼女に好意を持つ。つまりクレアが好意を寄せれば、その相手はクレアに好意を持たないはずがない。そう思っていた。
なのに、今、イレーヤの部屋の前で聞いた、穏やかな笑い声は。幸せを体現したような、あのくすくすと波のように響く、二人の笑い声は――。
「クレア様? そろそろお時間では――」
ドアのノックと、躊躇いがちな侍女の声に我に返った。クレアはいつものように明るく返事をし、卓上の鏡で、自分の微笑みを確認した。朗らかで自然な、何時も通りの笑顔だった。
絹を裂くような悲鳴がクレアのものだと先に気付いたのはイレーヤだったが、真っ先に部屋から飛び出したのはケリュンであった。
走り抜けた廊下の先、クレアは腰を抜かして座り込んでおり、その前方には小柄な不審者らしき人物がいた。顔は布で覆われていて不明、武器らしき物をその手に握っている。
「クレア様!」
「ケリュン様……!」
不審者はケリュンの存在に気づくと、素早い身のこなしで逃げ出した。ケリュンがクレアを抱き起こすと、彼女は彼に軽く抱きついてから、感謝に柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、ケリュン様」
本当に恐怖を感じていたのかも分からないほど、美しい笑顔だった。
クレアはこのとき内心、恐怖と喜びに胸弾む感覚を愉しんでいた。もちろん遊びでないのは分かっているし、暴力への恐れもある。が、このような場で自分が死ぬはずがないという、自分の運命への確信があったのだ。
そんなクレアはケリュンにとって、美しい友人のような存在だ。彼女の王族らしさは好ましく映る。しかし、イレーヤに比べると、この態度は少し、物足りない。……彼はそのような考えを自覚しているわけではないが、クレアが彼にとって恋愛対象に成りえないことは事実だった。例えイレーヤが彼の特別でなかったとしても、それは変わらなかっただろう。
怯え、側にいてほしいと言うクレアを宥めながら、ケリュンは先程の不審者について考えていた。彼にはなんとなく、その正体が推測できていた。
「ピーナ! レナートはいるか!」
ノックもせずドアを勢いよく開けると、そこはピーナの家――のはずだが、まずケリュンを出迎えたのは、見たことのある大柄な男だった。そして、線の細い彼の馬――フレドラでピーナと出かけた先、クレアのため猫の置物を買った店の店主、テオドアとテギン夫婦である。
商売の話かと思いきや、どうやら二人はこの家に滞在しているらしい。
「で、レナートは?」
「知らんなあ。いるって証拠でも?」
「さっきエミネルって子に聞いたんだよ。此処に泊まってるって」
「……」
テオドアは気まずそうにテギンと目を合わせた。
エミネル、ピーナ、レナートは以前のごたごたから友人となっていた。その三人の集合場所は、いつも広く快適なピーナの家だ。ケリュンも彼女らの友人なので、それくらいは知っている。
そしてケリュンはつい先程、偶然エミネルに会い、レナートなら先日からピーナの家に泊まっているらしいという情報を得たばかりなのである。
だから来たのだが、まさか彼らがいて、しかも立ち塞がってくるとは――
「長引いてるみたいだがどうし――、なんだケリュンか。そいつはいいぞ。通してやれ」
「ピーナ。俺は何がなんだか……」
「今から説明するから、変な顔せずさっさと上がれ。……おい、ケリュンが来たぞー!」
ピーナは奥に声をかけた。彼女に付いて奥に進むと、そこには居心地悪そうに目を逸らして愛想笑いするレナートがいた。分かりやすすぎる。
「やっぱり来たね、ケリュンくん……」
「お前、なんで城に侵入なんてしたんだよ!? なんであんな――親父さんは知ってんのか!?」
「秘密だよ、もちろん」
「な、にやってるんだよお前……」
はー、とケリュンは大きな溜息を吐いた。自分を捕まえる側の人間が目の前にいるのだと、彼女は分かっているのだろうか。深く考えると倒れそうだった。
ピーナは椅子で胡座を掻いたまま、ケリュンを見て、「お前苦労症だなあ」と笑っていた。
「てゆーか、よくボクだって分かったね」
「そりゃお前以外いないだろ! パチンコなんか装備した侵入者――。で、足の速さも体格も同じくらいって……ちょっとは隠せよ!! 気付いたときの俺の気持ち分かるか!?」
「あはは、ごめんごめん……結構いい武器なんだけどね、アレ」
とにかく、何故あんなことをと、問い詰める必要もなくレナートは答えた。
あの後、レナートはフレイヤに関心を持った。レナートと同じように養子として引き取られ、何不自由なく幸せに、大切に育てられ、何故あんなことをしでかしたのか。
――なんてことを考えつつ、いつもどおりピーナの家で寛いでいたある日、テオドアとテギンが現れた。元フレイヤの家庭教師。一時期は、レナート達の敵だった相手だ。
聞かされたのは、フレイヤの背後にいただろう存在、そしてそれに関わっていたらしいケリー・レネの名前。レナートはもう、この問題について無視できなくなっていた。
「だからちょーっと侵入してみたんだよ。答えはきっと王城にあるはずだからね」
「お前軽々と侵入って……どうやったんだよ……」
「忘れた? ボクは元義賊『青鳥』! 変装もメイドのお仕事も出来るんだよ! 合わさればホラ、ね?」
彼女が掃除も料理もできるのは、娘に平凡な生活を送らせたかった親心だったはずなのに。ケリュンは心底ラズールを哀れに思った。
「まあ、本格的に動くぞーって顔隠したところで、お姫様を驚かせちゃったわけだけど……。てゆーかクレア様、ほんとにちょー美人だよね、びっくりしちゃった。見惚れちゃって動けなかったもん。同じ生物とは思えないんだけど。妖精の血とかはいってない?」
「不敬どころじゃねえぞ!!」
過激派がいたら殺されていただろう発言だが、レナートはごめんごめんと軽く笑っている。ケリュンは溜息を吐いた。妙に怒る気になれないのが、レナートの不思議なところだった。




