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イレーヤは理解してしまった。自分は決して聡くはない人間だが、物事を悲観的に捉えるのは得意で、今回はその思考がうまく働いてしまった。
ロッカの言葉を思い返すと、唇が震えてしまうのを隠せなかった。
――ケリュンは、あんたのことが好きよ。おっかしいわよね。だって、よりにもよって……ねえ?
――理由? 知らないけど、あるんじゃない? いや、無いはずがないわね。ほら、なんとなく分かってきた? あはは、あんたには分からないか。
――ヒントあげる。あいつが一生懸命働いてるのは、誰のせい? 誰のため? 誰の仕業? ……誰が、きっかけ?
ケリュンは、自分を慕っているらしい。イレーヤもそんなことを考えかけたことはあるが、ありえない、とすぐさま思い直した。
しかしロッカにそのことを突きつけられ、深く考えると、否が応でもたどり着くところがある。ケリュンの話を聞いて、確信した。
――ケリュンの想い、それ自体が、母の謀略だと知る。
母親だ、アレヤ女王の考えていることはなんとなく分かる。ケリュンがどれかの姫君に恋してくれたら、手足のように使えるし、頑張って働いてくれるのではないか? 人を駒のように見る人だから、きっとそんなことを考えたのだ。
思い出せば、ケリュンは、クレア、ロッカ、イレーヤの順番に、顔合わせを受けていた。年が近い順、或いは明るく美しい順だろうか。母がそうした理由は分かるが、とイレーヤは暗い気持ちで思う。――結局は、一番自分に期待していなかったということではないか。
「イレーヤ様?」
「ケリュン、貴方はここに来るまでに沢山のものを無くしたのね……」
「手に入れた物も多いですけどね」
借金を負った。家を無くしかけた。幼馴染は嫁に出ていった。守ってきた墓は首都に移った。
そうして空っぽにされたところに、イレーヤという存在が、すとんと入り込んだ。
ケリュンが自分に恋したのは、母の謀略によるものだったのだ。
「……ケリュン」
「はい」
「貴方が私を愛しているとしたら、それは――誤りです」
「え!? 愛っ、とか、なにを…………、誤り?」
「ええ。それは間違った恋です。私は貴方に謝ります」
「……何を?」
「この呪いのような嘘の縁を、私は貴方に、謝らなくてはなりません」
ケリュンは何がなんだか分からない間に振られるのか!!? と心底震えていたのだが、イレーヤの話はそういったものではなかった。
色恋の話なんてしていないかのようなひどく真面目な顔で、イレーヤは静かに彼女の考えを紡ぐ。
曰くケリュンの人生をひっくり返したあらゆる出来事全てが、女王アレヤの策略に基づくものでした、と。
偶然、とてつもない借金を負ったのも、恐らく女王の手のものが動いた結果だろう。偶然、幼馴染のスゥにひどく都合のよい求婚者が現れたのも、女王が手配したに違いない。
「根拠は?」
「偶然がこうも何度も続くとでも? ……それは最早呪いでしょう」
その言葉を笑い飛ばしたいケリュンの脳裏に、ウグルト・ノベルの『アルフレド』という単語が浮かぶ。ウグルトは『白馬』、ケリュンは『牡鹿』――。
ケリュンはそれでも、傭兵になったのは自分の意志だと伝えたが、イレーヤは寂しげに微笑んだ。ケリュンが傭兵になった理由――イレーヤの命を狙う存在なんて、まさかいるはずもない、と。長女であるというその一点を考慮しても、クレアを差し置いて、イレーヤの命が狙われるはずがないのだ。イレーヤはお飾りの存在にすらなれていないのだから。
それだけなら良かった。ケリュンも納得できた。
しかしイレーヤは、ケリュンが彼女に一目惚れして落ちた恋すらも、女王が考えたものだと言うのだ。
「貴方は私を愛しているわけではない。お母様の謀略に嵌まっただけ。空っぽのところに私がはいってしまっただけ」
「違う。謀略でも偶然でも呪いでも奇縁でも、それはただの恋でした。それは俺が生きるための目的になりましたし、俺にとっては運命で、」
「違う、逆よ。生きるためにあなたは恋をしたの。それは運命でも宿命でもあるはずない、だって私なんかが選ばれるはずない、だって私にそれがつとまるはずないの!」
自己を卑下するようにイレーヤは叫び、後ずさった。ケリュンはそれを追うように一歩踏み出す。
「それでも俺にはあなたしかいない。あなたのためなら死んでもいい」
「そんなこと言わないでッ! これが奇跡だったらあってはならなかったのよ、だからお母様も、私とあなたの出会いを最後にしたに違いないのに」
ケリュンは墓場での、何かの言葉を思い出す。
『みんな利用されたんじゃないか、全部あの女の手の内さ』
『娘だって便利な彼女の駒に過ぎない。家族であれ、その美は便利なものに過ぎない』
イレーヤは、自分が怒鳴ったことが恐ろしいと言わんばかりに俯いている。
「そう、ですか……」
ケリュンは、誰に対してでもなく呟いた。
しかし、自分でも意外に思うほど、ケリュンの内面は凪いでいた。いくつもの事実をぶつけられても、動揺しないどころか、それらに対しての余裕さえあった。
既に自分なりにそのことについて考えていたせいもあるが――なにより、彼にとってはこれらの衝撃の事実よりも、目の前のイレーヤに距離を置かれる方がよっぽど恐ろしかったからである。
「…………まるで、陛下が謀略しか頭になかったみたいに考えるんですね。気持ちは、分かりますが」
「……あなたも私も、あの人に巻き込まれたのよ」
「そうかもしれない。それでも陛下は、あなたを愛しているはずです。人間には、一つの面しかないわけではありません。良いことだけじゃないですが、悪いことだけでもない。そう考えると、少しは救いになりませんか?」
ここに至るまで、ケリュンは多くの人間に出会ってきた。一筋縄ではいかない者ばかりだった。優美に見える白亜の王城内ですらも、それは同じだった。
華やかに聡明な第二王女クレア、明暗の顔を持つ前王の娘ロッカ。娘を愛す母であり、策を弄す女王であるアレヤ。
そして、今こうして激情を露わにする第一王女イレーヤもそうだ。初めて見たときも、それから幾度か会話を交わしたときも、彼女にこのような一面があるとは思わなかった。
イレーヤは目を伏せたまま、訥々と語る。
「私にとって人間の内面の複雑さは、とてもややこしくて、面倒で、恐ろしい。それは母であっても変わりません」
「少し自分の事からはなれて、陛下自身のことを思い出してみて下さい。どういう話し方で、どういう雰囲気か。……ちょっと謀が多いかもしれませんけど、それを含めて見ても、ほら、そこまで恐ろしい人ではないと、そう思いませんか?」
「……なんで、あなたは、そんなことが言えるの?」
「今は守りに入るよりも大事なことがあるみたいなので」
「自分を守って何が悪いの? どうせ短い人生よ、自分を大切にして何が悪いの。……私が取るに足らない存在だなんて、自分で一番よく分かってる。でも私はそのくだらない自分を守って、精いっぱい快く過ごしていきたいの。――ただそれだけなのに、それを願って何が悪いの?」
「悪くはないですけど、……それで貴方は、穏やかに過ごせているんですか?」
ケリュンの問いに、イレーヤの顔が怖ず怖ずと上がる。彼女の目は揺れていた。
狭い世界で暮らすのもいい。イレーヤが幸せであれば、そしていつか穏やかな死を迎えてくれるのならば、ケリュンには他はどうだっていい。
だが、こうも狭い世界で一人、閉じ籠もりがちに生きていた彼女が得たのは、母親を恐れる目と、自分を卑下する言葉だ。ならその世界はきっと、彼女には相応しくないのだろう。
「外に出ましょう。いえ出なくてもいい。少し外に目を向けて下さい。ここはあまりにも狭い、俺の故郷の村と比べても、あまりにも狭すぎる。
自分を見つめるのも結構です。ただ、鬱屈としてつま先ばかり眺めていては腰が曲がってゆくだけです。
……あなたは素敵な人です。だからあまり、自分を卑下しないでください。だってあなたは、俺みたいな奴に全部話して、謝ろうとしてくれて……真っ直ぐに向き合ってくれるような、そんな強い人なんですから。きっと誰かと触れあえば、自分を見つめ直せるはずです」
その誰かが自分であればいいが、自分でなくてもいい。ケリュンが様々な人間に会い、様々な出来事に触れて、やっとイレーヤに出会えたように。そして、
「だからやっぱり、俺はあなたが好きなんです」
こうして想いを伝えるところにまで至ったように。
イレーヤにもいつか、そのような幸運が見つかればいい。
「…………あなたって、本当に……おかしな人」
しばらくの、半ば唖然とした沈黙のあと、イレーヤはぽつりと呟いた。
「そうですかね。でも、これだけは言わないといけないと思って」
「そう……私もなの」
「はい」
「私、はじめて人に怒鳴った……」
ケリュンは光栄ですと言いかけて口を閉じた。純粋な彼女に、自分が被虐嗜好だと勘違いされたら困るからだ。ふざけるように軽く流せばいいのだろうが、やはりイレーヤの前では慎重になってしまう。こうも喚きあった後だというのに。
二人はなんとなく気まずいような、気恥ずかしいような空気のなか、目を合わせ、それからどちらともなくくすくす笑った。ひどく不思議な気分だった。
その後、ケリュンはしばらく、
(これ俺ほぼ振られたんじゃねぇかな?)
という思いと、
(いやまだ直接振られてないからセーフ!)
という思いを、自分の中でせめぎ合わせることとなった。ついでに酷い寝不足になって実に十年ぶりに風邪を引き熱を出した。ただイレーヤがドア越しにだが見舞いに来てくれたので、結論としては良かった、ということになった。




