イレーヤの話
イレーヤは軽んじられている。
幼いときから口下手であった。体は弱く病気がちで、発育も悪い。よほど手のかかる赤子だっただろう。皆によく世話してもらったに違いない。
しかしそれはあくまでも、イレーヤに物心つく前である。彼女の記憶には残っていない。
クレアはイレーヤより五つ年下の妹である。イレーヤの記憶はだいたい彼女とともにある。
クレアは可愛らしい子どもだった。赤子の頃から手がかからず、愛想もよく、見る者の心を和ませるところがあった。
発育よくすくすくと育った。美しく、そして健やかだ。花も恥じ入るような、薔薇色の頬を緩ませ笑う。
なにより彼女は賢かった。なんであれよく覚えた。あの奇妙な『霧の道』でさえ、彼女は頭の中に地図があるみたいにあっという間に理解してしまった。それを利用しよく出歩いたが、その無邪気さは人の気を惹く明るさに恵まれていた。
人に愛される子どもだった。イレーヤとは違った。
だいたい王族の女の教育係といえば、貴族や王族の婦人で、彼女たちはイレーヤのことを軽んじていた。
イレーヤはあまり物覚えのよくない子どもであった。ある程度反復すれば身に付けることができたが、生来の内気さがそれを邪魔した。人の目線を感じると、つい気が縮こまってしまい、自己主張ができなくなる。うまく動けなくなってしまう。
王族はその血筋故か環境故か、才ある人材をよく輩出した。権力まで持つそのような一族に生まれたというのに、その態度だ。イレーヤが周りの目にどう映ったかなんて、察するまでもない。
おまけにイレーヤには妹のクレアがいた。比較されないはずもない。美しいクレア。いざとなれば明朗に己の意見を述べ、明るく人を和ます笑顔を浮かべ、日々健やかに生きている。
クレアはイレーヤより特別な教育を受けたというわけでもないのに、姉と異なり、物事を論理立てて計る能力がある。視界にいれ、耳にしたものについて、深く思考する能力がある。
比べればイレーヤはあまりにもみすぼらしかった。歳だけは上だ、そして長女である。しかしそれだけだった。
イレーヤとクレアの教育係が、家で、社交の場で、二人の王女についてどのようなことを話したのか。取り巻く人々の視線がそれを語る。
大人しい姫。能無しの姫。冴えない長女で、恐らく女王にはならないのであろう姫。
自覚がある。自覚は、ある。
だから、イレーヤの名を呼んで微笑むケリュンは、控え目に言ってもおかしいのだ。
彼は英雄だ――英雄になった。イレーヤですら分かるほどその名は広く轟く。クレアなんて浮かれて、まるで歌うように彼の素晴らしさをイレーヤに語ってくれたほどだ。
なのにケリュンは相変わらず、イレーヤの前では隙無く、恭しくへりくだって、そして、
「イレーヤ様」
と、まるで宝物のようにイレーヤの名を呼ぶ。
彼に英雄の自覚がない――はずはない。既に勲章まで授けられているし、彼は人々の視線に、賛美の言葉に、義務を果たすように応えている。そしてそれに、時たま困った目をしている。
以前、クレアにケリュンの功績とその意義を語られた後。イレーヤは労いとして、ケリュンに控え目な言葉をかけた。彼は一瞬きょとんとして――そうすると本当に幼い顔になる――、心底嬉しそうに顔を輝かせて笑って、その後すぐ我に返って焦っていた。
ぺこぺこ頭を下げるケリュンが、イレーヤには分からなかった。英雄なのに謙虚、というよりも、自尊心が低いように見える。事情全てを知るわけではないが、彼には苦労ばかりが降り掛かってきたように見える。あの謀略好きの母、アレヤ女王のせいでもあるのだろう。
(……穏やかに、嫌なことを避けて、静かに生きて、死にたい)
そう思い流されるままのイレーヤとは、まさに正反対の生き方だ。
かつて一瞬、彼は自分のことを好いているのではないかと、思ったことがある。しかし、クレアもいるのに――恐らく彼女も彼を慕っている、愛か尊敬かは分からないが――まさか、自分がそんなはずがないと、愚かな自惚れを恥じたものだった。
ある日現れたのはロッカだった。珍しいことに、イレーヤの部屋にまで訪れて、わざとらしく優雅に微笑んだ。
「イイコト教えてあげる」
先日の夜会のときとは打って変わって、彼女は上機嫌だった。
イレーヤは一瞬、聞かないでおこうか、と思った。用事がある――実際にこの後、ケリュンに会う予定がある――と言って、この場を離れてしまおうかと。
「ケリュンのことよ」
そう言われるまでは。
ロッカの去った後、イレーヤは独り静かに俯いていた。
イレーヤは聡くない娘だ。自覚をしている。物覚えは悪くないが、頭は大して回らない、それくらい分かっている。
それでも、察すべきことはできる。
彼女は母、女王アレヤが背負う謀略の影を、彼女の隠し持つ黒々した部分を恐れていた。妹クレアと違い、それに怯えていた。だからこそ常に、母の謀略に気を張っていた――。
イレーヤは俯いたまま、胸の辺りに手を当て、ケリュンのことを考えていた。唯一、イレーヤのことを見つめる人のことを。
――彼が可哀想でならなかった。
ケリュンは相変わらず、内心そわそわしながらイレーヤの元へ向かった。やはり好きな人だから、会えるとなればいつでも浮足立ってしまう。
イレーヤは静かに座っていた。いつもどおりである。……しかし、何かが違う。いつもであれば、もう少し穏やかで、居心地の良い空気である。しかし、今日は――。
「今日は、あなたの話が聞きたい。あなたが、ここに来ることになった、その理由を」
彼女の凪いだ目は、まるで憐れむようである。
彼女に従わない理由はない。ケリュンは己のことを説明する。
若者も二人だけとなったド田舎モスル村。ケリュンは平和に暮らしていた。農業と狩りと、たまに配達の仕事も受けた。
そして一度目の女王の依頼。ある日届いた不審な小包。王城に関する依頼であった。ケリュンは墓石代目当てに受け、それが全てのキッカケとなる。
時は経ち、行商人が村に来た。幼馴染スゥが商品を割り、己がその罪を被り借金を負った。
そして二度目の女王の依頼。リード村でエミネルと出会って、フレドラに行きピーナと出会った。一言では言い表せないほど色々あったが、お陰様で無事つつがなく終了。ありがたい褒美に、借金を返せた。両親の墓を作れた。……ただし村ではなく、首都に。
戻れば幼馴染スゥはいなくなっていた。急に嫁ぎ先が決まったとか。呆気に取られて、村に帰った。
そして三度目の女王の依頼。王女の命が狙われている。――そこでケリュンは、イレーヤに出会った。そして傭兵になる道を選び、かくかくしかじかあった末、今に至るというわけだ。
ケリュンが話すにつれ、イレーヤの顔がどんどん曇っていく。自分が口を動かせば動かすほど憧れの人が嫌な思いをしているらしい。気付いたケリュンは焦ってあれこれ話したが、それでもイレーヤの表情は変わらなかった。




