墓参り
ウグルト・ノベルという物書きの家からの帰り道。ケリュンはふらりと墓地に立ち寄った。石畳が窓枠のようになって、墓と墓をきっちり区切っている。
片隅に、ケリュンの両親の墓があった。ざらついた色合いの墓石に、名前と、村名だけが記されている。
ケリュンは村でそうしていたように膝をついた。下が石であるせいで、膝は痛かった。なんだか意外な気がしてしばらくそれをぼうっと見ていたが、すぐ我に返ってきっちり祈りを捧げた。
綺麗なものだ、とケリュンは墓を見つめてぼんやり思った。何もかも、石でできている。草も蔓延らなければ、泥の飛沫の跡もない。砂やなんかは墓守が払ってくれるのだという。何度足を運ぼうとも、まるで新品のように綺麗だった。
昔はこうはいかなかった。落ち葉にまみれて、何が何やらさっぱり分からなくなっていることもあった。トカゲの赤ん坊が、迷子みたいにちょこちょこと墓の上を歩き回っていることもあった。誰が植えたのか自分で飛んできたのか、何かの種がささやかな花を咲かしていることもあった。ケリュンはそれを見る度に払ったり、引っこ抜いたり、そのままにしておいたりしたものだった。
今ではそんな必要もない。
ケリュンはなんだか知らないが泣きたくなった。今この場所で、少しだけ涙を流しておきたくなった。しかし理由が無いので、そういうわけにもいかなかった。
せめて雨でも降れば、と空を仰ぐが、ただ曇天が覆いかぶさるだけだ。
いつからだろう。ケリュンは思う。いつから自分はこうして、素直に涙一つこぼせなくなったのだろう。理由が無ければ何をしたらいいのか、分からなくなってしまったのだろう。
イレーヤ様に会いたいと思った。
思っていると本当に、輝かんばかりの彼女の姿が、実際に目に浮かぶように現れた。もちろん現実ではないのだろうが、それでもケリュンには十分だった。
――ああ綺麗だ。綺麗だ、イレーヤ様。本当に美しい。恐らくこの世でケリュンにとって最も価値のあるものは彼女だけだ。
うつくしいひと。
それだけでいい。貴女はそれだけでいい。それだけで自分はいくらだって跪いてみせる。死んだっていいし殺してくれたっていい。
どうして彼女はこんなにも美しい人間なのだろう?
「それは君が空っぽだったからだよ」
「空っぽ?」
「君はそれをイレーヤで埋めてしまった」
続けて「君は利用されたのだ」と頭の中で男が囁く。あるいは悪魔か。ケリュンにとってはどちらでもよかった。
それは闇の底、ケリュンの目すら届かぬこの地の奥深くから響いてくる。
「ひどく可哀想なことだね。大切なものは全て取り上げられたのだ。君は自分のもの、全てをなくしてしまった。幼かった君の心の柔らかな部分を傷つけたままの、親の死、それを埋めた墓。それだけが君の心の傷を癒してくれたのにね」
「ちがう」
「その二人から受けついだ畑。君を引き留め続けた幼馴染。全部どこかへいってしまったね。引きはがされて、浮いてしまったね。そうなってしまったら、たった独りぼっちの君が、ろくに生きていけるはずもないのにね」
「そんなことはない。俺には家だってあったし、畑だって大したことはされてない、村の奴らは親切で、墓はただ、安全になって、」
「スゥは?」
「スゥは、」
とそこで言い淀んだケリュンを押しつぶすように言葉はまざまざと降りかかる。
「全部君を便利な手ごまにしたいからって、驕った女の我が儘じゃないか。その理由ったって単純で、君の名前が『ケリュン』――牡鹿だったって、それだけだろう。昔、何があったのか知らないが、親しかった手ごまの名前が『ウグルト』――白馬だったからって、それだけ。そんな吹けば飛ぶようなゴミみたいな理由だよ」
「そうかもしれないけど、それは、俺はケリュンて名前だったけど、だけど別に」
「可哀想になあ。可哀想になあ」
「………吐き気がする」
「嘘ついて傭兵にして呼び抱えて、村に居つけなくして全部大切なものを切り離してさぁ、次は空っぽの君に、きらきらしたものを見せる番だよ。きれいなきれいなお姫様だよ。クレアにロッカ、それからうつくしいひと。イレーヤ様だよ」
いつかのピーナの言葉がケリュンに突き刺さる。
「『蜘蛛の巣にかかる蝶々以下』」
捕らわれた蝶々でも、羽ばたけなくなった時点で自らの立場を悟るだろうに。
「みんな利用されたんじゃないか、全部あの女の手の内さ。娘だって便利な彼女の駒に過ぎない。家族であれ、その美は便利なものに過ぎない。いくら尊んでひれ伏したところで事実は変わらないのさ」
男は憐れむ。
「それはひどく可哀想なことだよ」
ケリュンにできることは不敬にもほどがあるその声を黙らせるために、手元にあった石を握りしめ。そいつ目がけて叩き付けるように、何度も振り下ろすくらいであった。
しかしいくら叩きつけても、それはまるで目の前に広がる暗闇そのものを切っているかのように手応えがないのだ。
おまけに声はケリュンの足元底深くから響いてくるので、心底頭がおかしくなりそうだった。もうおかしくなっているのかもしれない。
光が欲しい。ケリュンの立ち尽くすここはあまりにも暗く冷たい。孤独だ。それこそ息の根すら止められるほどの孤独だった。濡れた睫毛すら凍りつきそうなほどの。
「しかし台本通り走り抜けるだけの人形であったとしても、それで思いもしない地位も力も……女も手に入れられるのだから、それでいいだろう?」
ケリュンはイレーヤの言葉を思い出す。
光りが好き。きらきらと輝く物に心惹かれる。ランプ、お日さま、明るくあたたかいもの。
ケリュンは答えた。
朝の木漏れ日。
――あの森に、最後に足を踏み入れたのはいつだった?
「普通であれば一生かかっても届かないものをあなたは頂けたんですよ。人が夢か物語にしか見れないようなものですよ。いやあ羨ましいなあ」
ケリュンはおかしく思った。
己の夢か妄想か、恐らくそれに近いものの中だというのに、まるで腸が炙られるような殺意を覚えたからだった。
ほざく口に、手元で弄ぶスプーンでもフォークでも突き立ててやりたかったのだが、咄嗟に手に取った銀のスプーンに、傭兵仲間であったジョーが思い出されて。
滑稽になって、止めた。
はっと我に返ると、人気のない墓地のままだった。
手元に石もなければ、当然銀のスプーンもない。
なにもかも、ケリュンの病じみた妄想だったのだろうか。考えても答えはでない。確かに、どれも想像の域は出ていなかった。
……全てが、何一つ現実と関わりのない、妄想?
(そんなはずもない)
そしてケリュンはふと、以前イレーヤが語っていた物語を思い出した。アルクレシャの底に潜む、闇の神様の話――。
ケリュンは頭を振った。考え事をするには、疲れ過ぎている。
固まった膝や腰を徐々に伸ばし、ゆっくりと立ち上がった。冷え切った体に血が巡っていく。まだ自分には、歩く力がある。帰って、部屋でくつろぐ自分をイメージすることもできる。美しいイレーヤ様の姿も。
帰ったら温かい、美味い茶を淹れて、一人だけで飲もうと思った。




