アルフレド
ケリュンは本当に久しぶりに頼まれた配達の仕事に、気合をいれた。
――宛名の人物に会うことが、ひどく楽しみだった。
幸運にも、とんとん拍子に物事は進んだ。場所は近くアルクレシャの街中、家屋が立ち並ぶその住宅地のその一つである。
なんの危険性も感じられない……のだが、うまくいかなかった。
配送先の男が、それを受け取ろうとしないのである。
「俺宛の荷物? そんなわけないだろ。俺に荷物なんて来るはずないからな」
それだけ言って、ドアを開けようとさえしない。初めてのパターンだった。
ケリュンは間違いではないことを確認する。もちろん、この場所に間違いはない。
何度となくドアを叩き、呼びかけ、やっと再びドア越しに応えてもらった。
「俺に荷物なんてくるはずがない。間違えてないか?」
「しかし、あなた宛で間違いないのです」
「誰からのものだ?」
「それは……ご存知では、ありませんか?」
「あったら聞かねぇよ。ほれ、誰からだ?」
「それは、言えませんが……」
ケリュンの声から急に力がうせた。彼自身、確かにかなり怪しい、と思ってしまったためである。
そんな折れかけの意気地を見通したかのように、男はふんと鼻で笑った。
「んな話があってたまるか」
「ですが、」
と、それでも食い下がるケリュンに、男は
「じゃ、誰宛か言ってみな」
まともに取り合わない、揶揄するような声だった。ケリュンは宛先の書かれた紙を見た。流れるような美しい筆跡。色味の美しいグリーンのインク。
ケリュンが以前耳にした名前。
「アルフレド、と」
そこでぴたりと会話がやんだ。しばらく肌のざわめくような沈黙が続くなか、ケリュンはじっと耐えて待った。
「……ちょっと待ちな」
「はい」
どれだけ厳重に鍵をかけていたのか、しばらくの間大きくガチャガチャいわせたあと、やっとケリュンの前のドアが開いた。
「ま、入んな」
現れたのは、気だるげな表情を浮かべた、少々無精な猫背の男だった。
「お邪魔します」
招かれた空間は薄暗く、天窓からの日光には白い埃が輝いていた。
ケリュンはなぜか懐かしさを覚えた。どこかで嗅いだ、独特の匂いが漂っていた。悪くはないが、どこか鼻に籠るような――そうだ、図書館の、あの匂いだ。エミネルの家で嗅いだものとよく似ている。しかしそこよりもインクの香りが強い。
男は、いつ淹れたのかもしれない冷めた茶を、椅子に座ったケリュンの前に置いた。紙や置物で雑然としたテーブルで、ケリュンは慎重にそのカップに手を伸ばした。男は、自分は飲まないらしかった。
「れ、恋愛小説ぅ!?」
手紙に目を通した瞬間、男が頓狂な悲鳴をあげた。ケリュンは口にしかけた茶を吹きかけた。
男はぼさぼさとした頭をかき回したが、やがて諦めたように溜息をついた。
「な、なにか?」
「いや、ちょっとね。……面倒くさいが、はあー……昔馴染みたっての頼みなら、しかたねぇ」
男は手紙を無造作に衣類のポケットにつっこんだ。
そんな女王からの手紙を雑に、とケリュンが内心ハラハラしていると。
「お前はアルフレドか?」
唐突な問いに、ケリュンは問題の意味を飲み込み損ねた。文は理解しても、やはり意味は分からなかった。
以前も似たような質問をされたこともあった。あれは、『アルフレドを知っているか』というものだったけれど。
「……いや、それはあんただろ?」
「なんだ、何も知らないのか? かわいそうにな。お前の名前は?」
何度か覚えのある、哀れみの視線だった。居心地の悪さを覚えながら、ケリュンは自分の名を告げる。由来は言わない。
「そうか、お前がケリュンか……」
彼はしみじみ呟く。
本人をよそに一躍有名となった名前だから、知られていても当然だが。
「俺が何か?」
「この手紙に、ちょっとな。……そうか。お前は、『ケリュン』って名前なのか」
急に男の態度が柔和になった。テーブルの端にあった菓子入れを、ケリュンの前に押しやってきた。乾ききったビスケットが入っていたが、ケリュンは手を伸ばさなかった。
「俺の名前はウグルト・ノベル。しがない物書きだ。昔、女王に雇われていたこともある。辞めちまったがな」
「なぜ?」
「飽きたのさ。『全ては女王陛下の御心のままに』。やってられねえよ。今じゃただの青春の一ページ、ってね」
『全ては女王陛下の御心のままに』――。その言葉には、確かな聞き覚えがあった。アルフレドという名とともに。
「……教えてください。アルフレドとは、一体どこの誰なんですか。嫌なときに耳にする名前です。そして、俺がソイツと間違えられることもあった。いったい、彼は――」
「そんな名前の人間はいない。どこにもね。ただその存在を、女王はよくよくご存知だ。勘違いされてもしかたない、お前はきっと、陛下の秘密の頼みのため、あちこち走り回ったんだろう?」
「なんでそんなことを――」
「それがアルフレドだ。アルクレシャとフレドラ、二つの都市の名前を合わせたものだ。王族のための、王・あるいは女王のための存在だ。俺は――俺たちは『アルフレド』として、彼女に仕えていた。だいたいが、俺みたいな奴らだったな。一般庶民、大した縁故がない、多少運動はできるが、目立つこともなく、平凡。そんな奴らばーっかり。……なんだ? 思いあたる奴がいたか? はは、まあいい。そして彼女は、俺たちの美しい人だった。それだけ。……まあ、俺にとっては昔の話さ」
ウグルトの会話のなか、ケリュンの脳裏によぎったのは、かつてのケリュン自身だった。平凡な髪と目の色をして、家族はいない。狩人をしていたため多少は動けた。変な信仰も知識もない、特筆すべきところのない、平凡な村人――。
それが偶然、ひょんなことから、王城とかかわることとなった。
しかし、そんな偶然があるだろうか?
そんな、偶然が――。
「……」
「おい……おい、大丈夫か? 飲めよ、それ。落ち着くぜ? 美味くはないが」
「なぜ」
「ん?」
「なぜ俺にそんなことを教えたんだ。なんで、あなたは――」
「お前があまりにも、無知で、可哀想だからさ。俺にだって人情はある」
ウグルトは目を細めた。彼は本当に、ケリュンに心底の憐憫を寄せている。
「お前の名前、古代語で『牡鹿』だろ? 何度かそんな話をされただろ」
「どうしてそれを――」
「大したことじゃない。俺の名前ウグルトは、古代語でな、『白馬』って意味なんだ。ちょうどよく現れたお前は『牡鹿』。それだけの話さ」
マルテの四神獣。白馬、小鳥、青いトカゲ、そして、牡鹿。
それは偶然と言い切るには、ケリュンはあまりにも――。
「話しすぎたか? まあいい。じゃあな、牡鹿くん」




