君主アレヤとアグリッピッピーナ
アレヤは部屋で侍女に足を洗わせていた。背もたれに身を預けて目を閉じ、まるで眠っているかのようだ。しかし寝顔に安らかさはなく、差し込む朝日に照らされる顔は、どこか修行僧を思わせる静けさに満たされていた。
ふとアレヤは億劫そうに瞼を開ける。国民からどれほど神の如く慕われようと、結局はただの老いつつある人間だ。所作の節々からそれがにじみ出る。
侍女を下がらせ、独りになった空間で息を吐く。それに答える声がある。
「私が来たぞ、アレヤ。ああ、珍しく独りきりか」
「いつも独りよ。いらっしゃい、小さなアグリッピッピーナ」
当然のように『霧の道』を利用して現れるのは、呼ばれてもいない小さな客だ。アレヤは元々それを察していたので、特に驚くことなくそれを受け入れる。
「ケリュンがドラゴンを殺したよ」
「知っているわ。ふふ、どうしたの、いきなり」
「そして女王の暗殺も防いでみせた」
「……」
「勲章を二つも授けて、これからあいつをどうするつもりだ?」
珍しいことを聞くのね。分かっているくせに。そんなに彼が気に入ってるの?
昔、まだ無邪気な若さのあった頃であったら、そんなことを笑いながら尋ねていたことだろう。しかし今はもうその光景が遠い。
「ねえ、アグリ。ケリュンは優秀ね。私の予想を遥かに超えた働きをする。――私は当たりを選んだのかしら」
「いい駒を、見つけたと思うよ」
「あら。この前は、たいした奴じゃない、なんて言ってたくせに」
「撤回する。私が間違っていたよ」
「まあ。珍しく私の勝ちね?」
ピーナの項垂れるような声に、アレヤは綺麗に微笑んでみせた。目じりの皺が柔らかく寄って、花でも愛でているかのように優しげであった。
ピーナは、まるでそれが微笑ましいものであるかのように金色の目を細める。
「――アレヤ、君が昔、私に申し出たことを覚えているかい?」
「『私が悪辣無比の女王になったら止めてくれ』って?」
「ああ。そして私はそれを断った」
ピーナの言葉に、アレヤは、普段は決して表に出さない、くたびれた笑みを浮かべた。
「私は悲しかった。しかし今はそれを感謝している。――あのときの私は空想ばかりしていた。理想は叶うと、若さ故に無根拠に信じていた。実際の私は取るに足らない人間で、世の名望たる王になんて、とてもではないが肩を並べられない。大したことのない、できない、ただのアレヤに過ぎない」
かつて数多の歴史を振り返りながら、若いアレヤは夢を見ていた。誉れ高き君主になる夢を見ていた。全ての問題を解決できると思っていた。
はたしてそれが現実になったとき、全ての夢が朽ちていった。アレヤの手元には君主という現実だけが残った。鏡に映るのは、冠を被った、平凡な人間――だとしても、それをそうだと人々に思わせないのが、アレヤの成すべきことであった。
「……ただのアレヤであっても、出来ることは行わなければならない。大したことが出来なくとも、小さなものを積み上げて見せねばならない。私はただの王族もなければ、ただのアレヤでもない。私はこの国の君主、女王アレヤ。例え人の道を外れようとも、私には、行わなければならないものがあるのよ」
その揺るぎない声音に、口を挟める者はいない。
そして女王アレヤは、慈しむように目を細めた。
「アグリッピッピーナ。誰でもない貴女には分からないわ。私の強さ、私の弱さ。貴女には決して、決して分からないわ」
「……可愛いアレヤ。私のことなんて何も知らないくせに、知った口をきくね」
「知らないものでも、『分からないから言及しない』なんて私に許されるものではないわ。底知れなくとも、私は私の目で見極めるのよ」
彼女の言葉は断言的で、その張り詰めた横顔は、まるで自分を奮い立たせているかのようであった。
「ええ。誰になんと言われようと、ケリュンは近衛にするわ。これが私の見つけたもの、私の判断。これなら決して誰も辱めないわ。名誉なことですもの」
アレヤが見つけた、増長してきた騎士院の力を、できるだけ誰も傷付けぬよう削ぐ方法がこれだった。
何も問題はない。ケリュンの腕について、もはや文句をつける者はいない。身分が気になるとの言葉はあるかもしれないが、彼が得た二つの勲章と、吟遊詩人の広めた名声の前には無意味だろう。――まさか騎士院まで彼に勲章を授けるとは予想外であったが、結果としていい追い風になってくれた。
「それにほら、王族は命を狙われてしまったもの。だから強い方に守ってもらわないといけないでしょう」
「ケリュンに?」
「ええ」
「イレーヤを?」
確信めいた問いかけに、アレヤは優雅に微笑む。いつもと同じ朗らかな声。
「それのなにがいけなくて? 誰も不満になんて思うはずがないわ。ケリュンは飛び上がって喜ぶでしょうし、イレーヤがまさか文句を言うはずもない」
「うまく引き合わせた結果だな」
「あら、私は別に、恋までさせるつもりはなかったのよ。結果としてそうなったけれど、それは、ケリュン自身の意思に基づいてのことです。私たちが口を出すことではない。そうでしょう?」
ケリュンをクレアに会わせた。ロッカに、そしてイレーヤに、歳の近い順に会わせた。
下心を持たせる意図があった。否定はしない。
――田舎の健康な若者を、富も権力も持つ美しい姫君達に引き合わせる。
寧ろそれ以外に、どのような意図があるだろう。
野心でも恋でもなんでよい、少しでも王族に好意的になり、積極的な働きを煽れたら、と思った。結果としてケリュンは、最高に近い結果を出してくれた。恐らく彼はイレーヤに懸想をしている。
――しかし相手がイレーヤというのは、予想外であった。どんな運命の悪戯だろう。イレーヤ自身のことを考えると、母親としては喜ばしくも、複雑でもあった。
娘に幸せになってほしいと願う思いはさすがに嘘ではない、アレヤはそこまで器用な人間ではない――そこまでの人間であったならば、そもそも自身の器について考えを巡らせることもなかっただろう。
しかし不器用な人間でもなかったため、気付けば心を二つ抱えていた。女王としてのアレヤと、母親としてのアレヤだ。どちらも等しく、同じ肉体に存在している。
だから、娘たちを使うような手段だって取れる。
「だってこれが一番手早い手段だったのよ、誰だってこうするし私だってそうしたわ。……確かにケリュンには悪いことをしてしまったと思っているわ。だけど結果として、私は『牡鹿』を――ケリュンという人材を確保できた。彼は近衛になり、地位も名誉も手に入れたうえにイレーヤの傍にもいられる。誰にとっても悪いところがない、素晴らしい手じゃない」
「……ああ。いい手段だと思うよ」
ピーナは結局、そう言っただけだった。平坦な声で、こくりと一つ頷いただけだった。
彼女からの説教に身構えていたアレヤは呆気に取られてから、少し悲しくなって笑った。
「ええ、そうでしょう」
「私はアレヤのそういう、賢くて、いつも一生懸命に頑張っているところを評価しているんだ」
「ありがとうございます、アグリ。分かってもらえて嬉しいわ」
アレヤが少し明るい顔をしてみせれば、ピーナはまるで全てが済んだかのような雰囲気を醸し出す。
彼女にとっては、この程度なのだ。アレヤの、女王の存在なんてものは、この程度のもの。人の心をどれほど荒らそうとも、自分が飽きれば距離を取って終わらせてしまう。
時たま、そういう人間がいる。女王であれ王族であれ関係なく、己の価値観の中にいれてくれないような人。
そしてそういう人間にこそアレヤは好かれたいというのに、結局彼らは女王のことなんて置いて何処かへと行ってしまう。
(……いつだってそうだった)
昔、若いころはそれが耐え難い悲しみに思われた。
しかし今は違う。アレヤは納得している。まず君主という冠を除けば、自分にはそのような人間に好かれるほどの価値がない。また、策を弄し手を回し、このような所業を繰り返す自分にはきっと、相応しい結末というものがある。それらの離別は、その途上に過ぎないのだ。
気付けばアグリッピッピーナは、部屋からいなくなっていた。
アレヤは静かに目を閉じた。独り息を吐いても、今度は答えてくれる者はどこにもいなかった。
わりと諸悪の根源的なところある
次章の準備をするので少々お待ちください




