策謀の灯火
「テギン!」
テオドアが彼女の気配を追い、やっと辿り着いた穀物庫の最上階。
饐えた匂いのするそこには、フレイヤの死体を抱き締め、嗚咽するテギンの姿があった。彼女らの足元、床一面には目の回るほど緻密な魔法陣が描かれている。もしこれ程のものが発動している最中に、準備一つ無く足を踏み入れていたら。恐らくあっという間もなく発狂していただろう。
間に合わなかったのだった。
テオドアは全身の力が抜けてしまったような感覚に襲われ、がっくりと床に両腕をついた。しかしやがてのろのろと立ち上がると、二人の傍らに膝をついた。
フレイヤは薄い瞼を閉じていたが、とても眠っているようには見えなかった。
衰弱に浮かんだ隈は青黒く、ひび割れに白くなった唇には浮いた血が固まっていた。顔色はぞっとするほど青い。まるで凍えて亡くなったような色だった。
テオドアはそっと、彼女の自慢であった髪を手で撫でた。するとそれは蜘蛛の糸のようにあっさりと切れ、ぱらぱらと床に散った。
戦慄く手をきつく握り締め、テオドアは己の腕に顔を埋めた。
彼女の活き活きとした赤橙の瞳が開くことはもうない。教える魔法一つ一つに深く集中するあの目、テオドアとテギンの惚気に呆れたように細まるあの目。そしてどこか遠く、誰かを、夢見るように眺めていたあの目。
「私、許さないわ」
テギンは呟く。
「この子をこんな目に遭わせた奴らを。ぜったいに、ぜったいに、許さないわ」
テオドアとテギンは、断腸の思いでフレイヤの死体を回収しなかった。
フレイヤを裏でここまで追い詰めた奴らが、きっとこの場を片付けにくるだろうと思ったからだ。フレイヤが人目に付かぬようにと、こんな場所まで用意していたのだ。まさか放置するはずがない。
テオドアとテギンがこのことに気付いたことを、敵に察されてはならない。
これからの二人にとって、それは足枷になるだろう。
身を潜め。機会を窺い。可視不可視問わずあらゆるものを駆使して、テオドアとテギンは敵を追い詰めなければならない。
敵が可哀想なフレイヤをここまで追い詰めたときのように、今度は二人が彼らを追い詰めるのだ。
どこまでも。永遠に。
――そうして彼らの察したとおり。
その後フレイヤの死体は密かに回収され、露見しないよう速やかに焼かれ灰となった。
彼女の家族は、事件事故両方の面から未だにフレイヤのことを捜索しているようだが、恐らくいずれ、ドラゴン騒ぎのなかで死亡したとして処理されるだろう。
「かわいそうな幼なじみ二人」
貴族として幸せに暮らしている幼馴染――フレイヤの真実を暴露すると脅され、望まない依頼をこなし、パートナーたる魔物を奪われた男。
――分かった。なんでもしよう。ただし、彼女にだけは手を出さないでくれ。
そう絞り出すように答えながら、己の右腕のミサンガに、優しく包み込むように触れていた。
彼はよくやってくれた。『リード村の護衛』という立場を得ていた厄介な男を、見事殺してくれた。
良心の呵責にでも耐えかねたのか、あっという間に捕まったが、生きている彼の役目はここまでであった。
彼は村から引き渡された後、すぐさま口封じも兼ねて殺された。挙句肉体を無残に傷つけられ、物言わぬ死体として、大切なフレイヤの前に晒された。
結果、彼女の終わりに一役買ったとすれば、あの無表情はどれほど歪むことだろう。
何も知らず、その男を殺した者への復讐になると嘯かれ、己の命を以てドラゴンを召喚した女。
恐らく少しおかしくなっていて、彼の為になるのならばと、こちらの嘘八百をあっという間に信じたのだった。
――私が彼の為にできることはもうこれしかないの。
そして微かに握り締める、その手の中には鮮血に染まった、以前はピンクであったらしいミサンガがあった。
聡明で美しい貴族の姿は既になく、あとは繰り人形として、虚ろな赤橙色の目を鈍く輝かせるだけだった。
衰弱死したフレイヤの肉体の脆さ儚さといったらなく、自慢であったらしい豊かな髪はぼろぼろと千切れ落ち、唇は青白くひび割れていた。
渇いた涙跡は、最早何も語らなかった。
「不相応な望みを持って、自業自得だ、引きこもっていれば良かったのに」
「責任転嫁はいけない。悪いのはこちらじゃないか」
片方が言えば、もう片方は肩を竦める。
彼らはドラゴンを呼びたかった。そして呼ぶことができた。
運良く貴族として成功していたフレイヤと、そしてその大切な幼馴染たる、魔物使いの男のお陰で。
二人の遺灰は同じ墓に眠っている。この一片の優しさに感謝する者はいないだろう。
やがて沈黙が落ちた。揺らめく燭台の灯火に、二人分の人影が踊る。
首都アルクレシャに響く鎮魂のための鐘の音も、この場所までは届かない――。
「やはり騎士院が増長してきました」
聞くまでもないことを、相変わらずの無表情で報告するレイウォード・レーンに、女王アレヤは小さく頷いた。
当たり前のことだった。この度のあらゆる栄誉が彼らの手にあるといっても過言ではない。
しかしもうそれを活かし手を伸ばしてくるとは。普段圧せられている者の特徴か。
「さてどうしましょう?」
アレヤは思索に耽る。レイウォードは恭しく目線を伏せたまま口を噤んでいる。
あの騎士院が増長して、まさか良い影響があるとは到底思えない。ルダなどの一部を除いた彼らの多くは、閉口するほど短絡的で、精神論にばかり身を置いている。どれも今この社会には必要のないものだ。
おまけに、事務仕事一つまともにこなせる者さえ少ない。出来ないからと嘯いて、英雄イオアンナに影から仕事を押し付けていた者までいたという(イオアンナ自身は否定していたが、恐らく事実だろう)。
しかし、貴族のどれほどが向こうに擦り寄ることか。王族への信仰より、純粋たる利潤に頭が占められている者も今では少なくない。
アレヤが、王族が心から信頼できる貴族は、『城持ち』である五家だけだった。
――対抗手段。騎士院の勢いを削り、しかし貶め過ぎてはいけない。
決して彼らの評判を落とさず、誰も不快にさせないような、そんな手段はないものか。
アレヤはティーポットを眺める。乳色の陶磁器に、この国特有の、なめらかな彩色が施された麗美なそれを。
レイウォードに目配せされた侍従の女が、ポットに手をかけ、彼女のコップに澄んだ紅茶を注ぐ。琥珀色の液体は流れる宝石のように艶やかに光る。
この国特有の――聖マルテの四神獣が配された、荘厳ささえ見られる絵。
白馬、小鳥、青色の蜥蜴。そして、牡鹿。
アレヤは微笑んだ。




