最期
あの雄叫びから始まった幾たびの剣戟のあと、先に地に伏せたのはドラゴンだった。
おびただしい失血後の満身創痍で、よくもまあこれほどもったものである。
ドラゴンは骨の剥き出しになった翼をいくどか揺らしてみせたが、それきりだった。手指の先すら動かさず、沈黙とともに眠るように大地に伏せている。
すでに立ち上がる気力はないようだった。
ケリュンは呼吸を整えながら、その様子を見ていた。今までと異なり、どこか安らかささえ窺える敵の様子を。
またいきり立って襲いかかって来ないかとしばし待ち。
やがて、ケリュンは構えを解いた。
「いないっ……!」
テギンは舌打ちをする。
此処は農作物を貯めておく穀物庫や、家畜を収納するための小屋ばかりがずらりと並ぶ区画だった。朴訥とした建物の並ぶ、恐らく見知った人間ばかりが通行するような通りだ。
そのためフレイヤの目撃証言だけは調査したが、まさかこんなところに彼女がいるはずもない、と、綿密な探索は行う予定のなかった場所である。
あの二人は何処に行ったのか。家畜小屋だろうか。こんな人目もある真昼間に侵入したのか。
自分には無理だ。見つかった場合のリスクが大き過ぎる。自分達のことはともかく、フレイヤのことだけは、絶対に誰にもバレてはいけないのだ。
だからといって、まさかわざわざ一つ一つ、方便を以て中に入りたいと説明するわけにもいくまい――。
テギンは逡巡し踵を返した。優先すべきはフレイヤだった。この場を離れて、フレイヤの居場所の調査を再開することを選んだのだ。
時間をかなり稼がれて、おまけにこんな場所にまでうっかり追い込まれてしまった。早く戻って、テオドアに合流して――。
じりじりとした焦りに汗をかくように回る思考が、ふと、何か表現しがたい感覚に捉われた。何かが途切れたかのような違和感に、テギンはふと顔を上げる。遥か遠くに見える、塔のような建物に目が留まった。
足環が鳴る。以前フレイヤに贈ったものとお揃いの、金の足環が。
どこかでドラゴンが鳴いた気がした。
うす明るい家畜小屋。モウモウなく牝牛が飼葉を食み、そこでのんきに足を擦っていた蠅が慌てて飛んでいった。そして何をするでもなくのんきに立っている仔牛に近づいていっては、揺れる小さな尾に追い払われていった。
そんなのん気を体現する空間で。
エミネルとレナートはひっくり返って、ぜえぜえと疲弊した呼吸とともに肩を揺らしていた。
「も、もう無理……むり、まじむりぃ……オエッ」
「…………ケリュンさ、は、ど、なった、でしょう、か?」
「さあ……」
最早物事一つ碌に考えられない。頭に酸素が回っていない。
半ば吐きそうになりながら倒れ込む二人に、
「大丈夫か、レナとお客さん」
呆れているのか心配しているのか、若干困った顔で声をかけたのはラズールだった。
「だ、だいじょぶ、だいじょーぶ。しばらくほっといてー」
「あ、あの、その、いきなり、すいません……」
二人が逃げ込んだのは、アルクレシャに設けられたレナートとラズールの避難先であった。彼らの臨時の牧場、というより、家畜を収納するための小屋である。
火事場の家畜泥棒を殲滅するために、飼育者以外は立ち入り厳禁とされている。これこそが、レナートの選んだ逃げ場だった。
「まあいい、ゆっくりしていきな」
ラズールは何も聞かず、また家畜の様子を見るのに戻った。
心配性な父、ラズールだ。色々と気がかりなことはあったが、何より『娘レナートが同じ年頃の少女と一緒に行動している』という、その一点がなによりも嬉しかった。他のことは全て押し退けられてしまうほどだった。
――とうとう娘に友達が。しかもウチ(ではない)に連れてきた……!
ラズールは潤む目頭をそっと抑えつつ、一瞬の早業で仔牛に寄りつこうとする蠅を打ち殺した。
エミネルとレナートは、そんなラズールの様子にも気付かずしばし呼吸を整えることにだけ集中していた。それも徐々に落ち着いてくると、エミネルは一度、溜息を吐くような深呼吸をした。
「……フレイヤ様は、どうなったんでしょうか」
「死んだんじゃないの? っていうか、そうなってくれないと困るんだろうけど……。ま、ボクらはもうやることはやったんだし、後はどうでもいいじゃん」
他人事のようにごろんと寝転がるレナートと対照に、エミネルの表情は暗い。
「でも、あたし達が手を出さなければ――」
「細かいなぁ。この広いアルクレシャで、夫婦二人だけで探し人を見つけるなんて、もともと不可能だったんだよ。もっと協力を募るとか、助けを呼んどけばよかったのにさぁ」
「でもそれは……」
「そ。それが出来なかったのは、フレイヤ様が悪いことをしてたからでしょ? 自業自得だよ」
テオドアとテギンは、誰かに助けを求めることもできた。しかし、誰に?
影で国難級の災いを引き起こしているだろう貴族の娘の捜索願を、いったいどこに、誰に出せと言うのか。
そしてフレイヤも、恐らくそれを望んでいなかった。生き延びるつもりは毛頭なく、そして家に迷惑をかけるつもりもなかった。だからこそ無言のまま家を出たのだろう。
「……そうだとしても、あたし達の行いが正当化されるというわけではないと思います」
「ま、そうだけど。……早く納得できるといいね」
レナートの他人事のような、それでも労わるような声に、エミネルが小さく頷く。拍子に彼女の顎を汗が伝い、ぽたりと一粒落ちた。
熱と疲労に浸るように、二人の間に沈黙が落ちる。しかしやがて、どちらともなく顔を上げた。
遠く、かすかに聞こえるのは。
「ドラゴン……?」
魔物の断末魔にしては物哀しい一陣のそれは、風とともにあっという間に掻き消えた。
「るるるるる」
咽喉の歌うように鳴いた、その爬虫類の目に智慧の光が灯る。理性の片鱗、それにしては虚ろな、いや、澄んだ瞳だった。青空のように。
それはドラゴン。悠遠なる空の王者、マルテの国難、貴族の繰り人形、そして師と仲間の仇――。
あらゆる物事の打ち払われた静寂の中、ケリュンとドラゴンは相手を見合う。互いの瞳に互いの姿だけが映り込む。
初めて、それ自身を見た気がした。対峙するモノ、ただそれだけの存在として。
胸に澱みのような感情が浮かび上がり、ケリュンの顔を歪ませた。しかし彼は腕を振り上げ、ドラゴンは身動ぎすらしなかった。
ただそれは微かに顔を上げ、最期に一つ、高らかに鳴いたのだった。
そうしてケリュンはドラゴンに勝利した。
師と仲間の仇を打ち果たした、未だ年若い青年。いずれ流れる英雄譚に、この刹那の交感は決して語られることはないだろう。
雨が降っていた。不吉な色と臭いを運ぶ、灰色の雨だった。
がちゃがちゃと忙しなく行き交う荷馬車が、何度となく道端の泥を跳ねては通行人にがなり立てられていた。
国難たるドラゴンは消え、人々は徐々に元の生活へと戻ろうとしていた
ピーナは建物の暗がりに凭れ掛かり、フレドラ行の相乗りの馬車が来るのを待っていた。しかし乗り場一帯の人混みを見るに、やはり今日も諦めた方がよいのではないかと思われた。
大雨とこの人いきれにも関わらず、彼らの顔にはどこか明るさがにじみ出ていた。常に付き纏っていた不安げな色は消え、ひそひそと囁かれていた噂も最早遠い昔のものとなっている。
ピーナは息を吐いてローブを翻し、己の住処に戻ることにした。小柄な身で一人、通行人の波に逆らい進んだ。
幼げな彼女と擦れ違い、驚き振り返る者や、気遣いを見せようとする人間もいくらかはいたが、その全てをピーナは気難しい顔で無視した。彼女には考えることがあった。
今回の事件で、最も得をした存在は誰か?
それはケリュンだろう。
魔を払う大業は、この国では大きな意味を持つ。聖マルテが建国時、国土からあらゆる魔を払ったという伝説が残るためである。それは名誉と栄光を与え、今後彼の背を後押しするだろう。いったいどれほどの吟遊詩人が、彼の物語を歌うことか。
しかしこれはあくまで、個人単位で見たら、の話である。
大きな目で見て、最も得をしたのは誰か。あるいは、どこか。
ピーナが擦れ違う庶民らの喝采は、いったいどこに向けられている?
「今回のルダ様の手腕といったらなかったな。百体のサイクロップス討伐と、もちろんドラゴンが現れたときのアレさ」
「英雄イオアンナ様の最期、どれほど勇壮だったことだろう。ああ口惜しいなぁ」
「知ってるかい? 今回ドラゴンを倒したのは誰か。騎士院に属している、ただの傭兵だそうだぜ」
ケリュンは知らない。彼の行為の意味を。その人々への影響を。
(分かっているのか、ケリュン。お前自身がどれほど厄介なことに巻き込まれているのかを――)
――「とうとう竜殺しじゃないか。姫君に一歩近づいたな」
帰路の途中。疲弊からくる沈黙を振り払うように、ピーナは笑いながらケリュンを茶化した。すると彼は達成感の欠片も無い、くたびれた顔で口角を上げた。笑顔にしては愛想しかないとピーナは思った。
「嬉しいよ。これで安心して死んでもらえる」
「イオアンナに? ずいぶんな忠義者だな」
「忠義――、もちろんそれもあるけど、それだけじゃない。馬車でも言っただろ? 俺は俺の想う人に、死ぬときだけでも安息を得てほしい。そして力があったらそれが出来る。だから、それが嬉しいんだ」
「……」
苦い顔で押し黙るピーナにも気付かず、ケリュンはそら明るい声で続ける。
「ピーナには世話になったよ。本当に。……ほんとうに、ありがとう。お陰でイオアンナ様の墓標にいい報告ができる」
「私は、お前の味方になると決めた、それだけだよ」
「いや、それだけのことが俺にとってどれほど――」
言いかけて、ケリュンはやがて口を噤んだ。いくつもの言葉の代わりに、彼は今までになく柔和な顔でピーナに微笑んだ。
「ドラゴンが殺せたのはお前のお陰だよ」
「お前は本当に変わったな。いや、深い意味は無い。強くなったってだけだ」
「あはは、なんだよそれ。まあ俺がどれだけ強くなっても、イオアンナ様の方が遥かに高みにあるんだろうけどな。あー、ほんと、先は遠いよ」
愛しの、憧れのお姫様に近づきたいと、そんな単純な思いで動いていた青年は――他愛なく照れ、はにかんでいた彼は何処へ行ったのか。
『――お前はもう、村の狩人ではないんだから』
いつかの自分が彼にかけた言葉が、ふと脳裏をよぎる。
思い詰めたように歩いていたピーナは、やがて力無くその歩みを止めた。俯いていた顔を上げる。恐らくケリュンの居るだろう、女王が座する白亜が見える。
遠くマルテ城は灰色の雨に沈み、しかし普段と変わらず優雅に聳え、アルクレシャの街並みを見下ろしている――。




