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マルテ王国史  作者: ばち公
三章:傭兵時代後編
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安心して死んでいいからね

 ケリュンは夢をみている。

──幼い「俺」が色のない顔でベッドに縋りついている。狩りのための出で立ち。帰ってきたばかりで砂埃に汚れたままの頬を、母さんの青白い手が撫でる。氷のように冷たいのに、何故か熱く感じた。涙のようだ。


「ごめんね」


 母さんは、許してね、と囁いた。最後に。

 するりと滑り落ちていく手を握ると、あまりに細かった。苦痛を凝り固めたかのように節ばった、冷たい手だった。そういう病だった。


「……母さん」


 謝るのは俺の方だ。

 ごめん。ごめん母さん。いくらだって謝る、もう置いていったりしない。父さんのこと、話したいこといくらでもある。まだ、ただいますら言えてない。俺の言葉、何一つ耳にいれてないじゃないか。

 だから、そんな顔して逝かないでほしかった。

 そんな不安げな顔で。


「俺は、ただ、」




──そこで、はっと打たれたかのように目が覚めた。

 静かである。自分の呼気を耳障りに感じるほどだった。月明かりもしんと眠っているかのように、ただただ柔らかく差し込んでいる。


 イビキのうるさかったレナートは、何故か腹の上に辞典を積み上げられうなされている。エミネルは読んでいる途中に力尽きたらしく、まるで倒れ伏したような奇妙なポーズで眠っていた。ピーナだけがいなかった。

 ケリュンは二人を起こさぬようそっと起き上がると、その場から抜け出した。




 澄んだ月明かりの夜だった。吐いた息すら沈黙してしまうような、稀に無く美しい夜だった。

 ベンチの上でぽつんと胡坐をかく小さな人影。ピーナは一人瞑想に耽っていた。彼女の周囲をきらきらと光の欠片が踊り、黄金に輝いている。それを包みこむ夜闇ですら彼女のローブに惑わされて、紫に色づいているようだった。


「ピーナ」


 ケリュンに気づいていたらしく、無言のままピーナは振り返った。かといって話題があるわけでもないので、取り敢えずケリュンは一息置いてから、


「何をしているんだ?」


 と見て分かることを尋ねた。


「瞑想だよ。月の光を浴びている……」


 そこで彼女は、まるで気を取り直すかのように悪戯っぽく声をはずませた。


「魔女っぽいだろ? こうしていると透明になれる気がするね。引き寄せられて、浮いていくような気がしないか」


 ケリュンは『魔女』という言葉に、ふと身を引く。


「しないな」

「お前は感受性が鈍いから……ん? だから強いのかな?」


 ピーナは年寄りがよくやるように、独り言のように話す癖があった。だいたいが些細なことである。

 しかしそのぼやかれた言葉の衝撃に、ケリュンは息を呑んだ。


「強い?」

「そうだね。自分を持って、自分で分別つけて物事を判断するだろ。驕慢に気をつけられれば、それは強さだ」

「分からない」


 ケリュンの即座の答えは強張っていた。


 ピーナはふぅんとだけ呟く。さすがに驕慢の意味が分からない、というわけではないだろう。ケリュンは見た目と普段ののんきさはともかく、割りとしっかりした男だ。動揺だってそう面に出さない。

 なのにこんな態度でいる時は、ちょっとした道標を欲している時だ。

 ピーナは腐っても占い師で、しかもそんじょそこらのインチキとは年季が違う。そのためこういうのを察するのは得意であった。


「強さに興味はない?」

「まさか。俺は強くなりたいよ」

「なぜ?」

「――小さな願いはどれ一つ叶わない、そんなことがないように」


 ケリュンは思い出す。彼の過ごしたモスル村での日々を。

 ケリュンは孤児で、村民からは受け容れられてこそいたが、こうして離れて生活していける程度の距離感もあった。それでもケリュンはモスル村が好きだ。

 村でいつも通った両親の墓、残された思い出の詰まった家、小さいが大切な畑。唯一いた幼馴染に、猟師という技術。

 今はどれも、彼の手元にはないものだった。


「俺の願いが何一つ叶わなくても、いつかの、誰かの、一つの願いくらいなら叶えられるように」


 いくつもを手放してきたケリュンだが、それでも彼の心、内面に蔓延る願いは、脈々と息づいている。

 寧ろケリュンを支える他が薄れた分、より一層その勢いを増しているだろう。


「――今の俺の手の中にあるもの、全てを、もう取りこぼさないように」


 ケリュンはそう言ってマメの潰れた掌をぎゅっと握ったが、

(あれ、俺の持ってるものって一体なんだったか)

 とそんなことを考えて、しかし彼には一片も思いつかないのだった。


 こういう時、ケリュンにはイレーヤの姿ばかりが浮かぶ。綺麗な人、美しい人。世の流れとは無縁の静寂とした女性。

 それから傭兵という職だとか、手持ちの金だとか、新しい剣の技術だとか、そういうものが続く。

 イオアンナが授けてくれた必殺技――あれはまだケリュンには、己のものである自覚がない。


「お前は、その『いつかの誰か』に、何かをしてあげたいんだな。で、昔、お前は誰かに何をしてあげたかった?」

「……分かってほしいことがあった。俺はそれをずっと願ってた」

「よし。じゃあ墓に行って、それを伝えたらいい。いくらか楽になるはずだ」


 ピーナの軽い提案に、ケリュンは陰惨たる表情のまま、力無く首を振る。


「もう意味がないんだ。言葉だけじゃ意味がなかった」

「何を言いたかったんだ? 私には別に言わなくっていいぞ、興味無いし。だから、そこらに向かって喋ってみろ。私に話すとかじゃない、ただ自分で言葉にするんだ。きっと気が楽になるよ」


 ケリュンは己の両耳をきつく、まるで潰してしまうかのように抑えつけた。

 聴覚というのは不思議だ、手で覆っても透けて音が伝わってくる。目も、鼻も、塞いでしまえば大抵のことはどうにかなるというのに。



「安心して死んで」



――安心して死んでほしかった。貴女が死ぬことは知っていたから。母さん。イオアンナ様。

 だからせめて、心安らかに過ごしてほしかった。最後の一瞬まで。


 しかしそれは難しいのだろうと、ケリュンでさえ知っている。

 死にゆく人はどうしたって心を騒がせてしまう。時には恐れに負け、気を逸したような言動を取る者もいる。臨終の悪魔と、よその国では言うらしいけれど。


 だからこそケリュンは、死んでいく人が安らかであれるためならなんだってしたいと、願うのだった。

 それがケリュンの祈りだった。


 ピーナは頬を掻いた。


「……お前も大概病んだ男だよなぁ。いや、病むというより不安定というか。それより問題は、お前、自分のこと至極真っ当で一般的な人間だって信じてるだろ」

「違うかな」


 不安げに見上げるケリュンに、ピーナは微笑みかけた。


「前まではどうだったか知らないけどね。人は変わる、忘れる、成長する。多分、結構変化してると思うし、それを自覚した方がいいんじゃないかな。お前はもう、村の狩人ではないんだから」

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