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ケリュンは目を覚ましてすぐ、イオアンナを助けにいかなければ、と思った。
時間がない。寝ている場合ではない。だって間に合わないではないか――と一瞬のうちにぐるりと考えて、すぐにはっと我に返ってその身を起こした。鳩尾が痛むが、それよりも恐れで心臓が痛い。
彼は立ち上がって、景色が荒れていく方へと走った。
それは思ったよりも近くで見つかった。
砕けた岩石の残骸と、へこんだ大地のちょうど中心地に横たわっている。
腹に穴を開け、倒れ伏すイオアンナンの姿だった。
死体だ、とケリュンの脳は判断したが、彼の足はそのまま駆けて彼女に飛びついたのだった。
しかしそんな体の忠誠に反して、咽喉だけは強張り潰れたようで、微かな震え声がこぼれる。
「イオアンナ、さま……」
果たして、イオアンナは生きていた。
「ああケリュン、起きたのか。ずいぶん早いな。特訓の成果か?」
澄んだ両目をぱっちり開けている、その部位だけ見ていれば彼女は元気そのものだった。
例えそこ以外の全てが、ドラゴンかイオアンナか、どちらのものとも知れない血に塗れていたとしても。
「ふふ、私もカッコ悪いなぁ。英雄なんてよく呼べたものだ。あれを最後に死ぬつもりだったんだが、人間、存外しぶといものだなぁ。こうして生きてしまっている。まあさすがにもう死ぬがな」
イオアンナが息をする度に、傷という傷から血が流れる。ケリュンが手の平や布でいくらそれを覆ったところで、流れ出すそれは止められない。
ケリュンは「やめてください」と零すが、イオアンナは熱に浮かれたように茫洋と言葉を紡ぐばかりだ。
「両翼をもいでやったら走って逃げていったぞ。はっ、アイツ、足はとろいと見える。腕も牙も、最後はなかなか治らなくてな――」
「俺は!!」
叫んだケリュンに、イオアンナは口を噤む。煩かったからではない、彼があまりにも悲痛な顔をしていたからだった。怒りにしては、あまりにも悲しげな顔だった。
「俺はまだ貴女に必殺技なんて習ってないし、貴女のことを何も分かっていない。助けようとして役立たずで? その本人に倒れされて? ――それでアンタは死にかけて! まるで馬鹿みたいだ! 俺は何しにこんなとこまで来たんですか!!」
「独り死ぬ私を看取りにきたんだろう?」
「違いますよ! ちがいます、そんなはずないじゃないですか……」
ケリュンは俯く。血の気が失せているせいで、彼の顔色はとにかく悪い。
死人みたいだ、なんてさすがに嫌な洒落だな、とイオアンナは内心思った。
「死んでほしくない死んでほしくない死んでほしくない、――死ぬなら、もしも死ぬなら、安心して死んでほしい……」
ケリュンはぐっと彼女の肩を抱いたが、イオアンナには既にその感覚もないのだった。
「安心して、安心してください、イオアンナ様。何も心配しなくて大丈夫です。国は俺が守りますしドラゴンは俺が倒します。強くなります。強くなる。死んだっていい、なんだって殺してやる。だから、貴女はなにも、心配しなくていい……」
言葉の途中からケリュンは俯いてしまって、その涙がぽたぽたとイオアンナの頬にあたるのだった。それは乾きかけた血痕をわずかに滲ませるが、それだけだ。
「安心、か」
イオアンナは呟く。そしてケリュンの瞳を見る。酒のように濡れて揺れる、琥珀にも近い茶色の瞳。
その向こうに王城を見る。はためく緑の国旗。英雄を慕う人々、英雄となった自分。はらはらと巡る景色を、イオアンナは擦れた吐息の向こうで追う。
マルテ王国を。王族を、貴族を、あるいは騎士院を。自分の主人、家族、仲間達を。
そして大切な友人、ロッカを――。
イオアンナは目を瞑った。すると瞼があまりにも重たくて、開くことすら億劫なことに気付いた。
それでも、眠るのが勿体ないという子どもの駄々のような気持ちで、イオアンナはそっと目を開く。彼女は最後までケリュンを見つめたいのだった。
「ケリュン。約束を守るよ」
「え?」
最後まで面倒を見てやる、とイオアンナは言う。
「私はお前の師匠だからだ」
理解が追いつかない、それでもイオアンナから目を離せないケリュンに、彼女はそっと続けるのだった。
「必殺技というのは、こういうときに伝えるものなんだ。――心を静かに、私の言葉にだけ耳を傾けなさい。これが最後だ。心得て聞きなさい。私の弟子」
「いお、」
イオアンナの手のひらが、ケリュンの頬を包み込むように触れる。ぬるりとした生温かい触感、落ちる命の感触だった。
しかしそれすらも、意識の外へ溶けてゆく。景色が、世界が変わる。ケリュンはまるで吸い込まれるように、ただ腕のなかの彼女だけを見つめる。
「いいか、ケリュン。剣に精神性を求める時代は、ここから遥かに遠い――。だからお前は、これだけを覚えておきなさい」
必ず殺す――必殺の技を、イオアンナは彼に伝える。
お前が強くなりたいと望むなら、何もかもを殺したいと願うなら、私がそれに応えてやろう。『今のお前』と引き換えだ。
ドラゴンを倒すと、国を守るなどとのたまうのなら、その一生を賭してもらおう。
だから、私の願いを叶えてくれ。
代わりに私はお前の生涯の師となろう。お前の頭の底にあるイオアンナという個人を捨て、ただひたすらに追うべき導となろう。
イオアンナは呪う。
「お前がいくら、どれほど強くなろうとも、私はお前より強かった」
だから生涯、私を追ってみせてくれ。
(だから私を忘れないでくれ)
そして最後。腕のなか、流れ出る血液、消えていく温もり。
――師匠。
繰り返しささやきかけるように呼ぶが、閉じた瞼が開くことはない。
もう二度と。決して。




