明暗
イオアンナの出立後、ケリュンが出会ったなかで、最も様子がおかしいのがロッカであった。
いや、他の人々が楽観的に構えるなか、涙に暮れていそうなのが彼女だけであった、と言うべきか。
ケリュンはイレーヤに会いに行った。時おり様子を見てやってくれ、と女王に伝えられたのもあるが、それ以上にただ彼が顔を見たかったからだ。
ケリュンにはどうしても、確かめておきたいことがあったのだ。
いつものとおり『霧の道』を使い、相変わらず少し変わった場所に出されて、それでも道は把握しているから進んでいく。
その道中であった。
「あああああ!」
女の叫声に驚いて、ぱっと身を隠した。
人気の薄い建物の影、そこにはどこぞの貴族に泣きすがるロッカの姿があった。ケリュンからは背中しか見えないが、あの水色の髪はよく目立つ。
彼女をなだめる、恐らく文官だろう男の顔は見たことはないが、その衣装からして高い身分の者であるには違いなかった。
ロッカは彼の胸を掴んだまま、垂れた頭を震わせている。
「だってイオは強いから……。これからもこの国のために、戦い続けるんだって、分かってたから……だから、私。私……!」
再度泣き声が響く。
――見てはいけないものを見てしまった。
ケリュンは咄嗟にそう思った。ロッカの泣き暮れた姿と、密会する貴人の男女という、二つの意味で。
彼はその存在を悟られぬよう、足音を殺してその場を後にした。
「お怪我などはないんですね? でしたら安心です。ご苦労様でしたね、ケリュン」
「ありがとうございます。俺なんかには、勿体ないお言葉です」
イレーヤが自分に微笑んだ。それだけで頬が熱くなる。そこに血が通っていることを鮮やかに実感する。まるで世界の変わったようだ。
なんといったって王族である。清らかな美しい現人神だ。
そんな彼女を、自分のように見ている者なんていないのだ。
彼女への想いは、憧れだとか敬愛だとか、もっと清らかたるべきであって──、そこまで考えたところで、己の俗悪さ加減に打ちのめされた気分になって、ケリュンは項垂れた。
ケリュンはまったく自分はまともなのだと信じていたし、それは一般人であるということへの自負でさえあった。一般的なバランス感覚を保っているからこそ、どこにだって溶け込める──まだ年若いケリュンが得た、数少ない経験則に裏付けられた処世術であった。なのに、今となっては、それすらも無意味だ。
そうして自身の思考に打ちのめされているケリュンの暗い顔を、イレーヤは彼が疲弊しているためだと勘違いした。
「大丈夫ですか? 疲れているときって、どんな食べ物がいいんでしょう。ここにはクッキーくらいしかなくて……。こんなものでよければ、召し上がってください」
「いえ、とんでもない。甘いものは最近食べられないので、ありがたいです」
「まあ、どうして?」
「ドラゴンがきたせいですよ。人がアルクレシャに集まるので、物ももちろん集まってくるんですけど。それでも足りないんですよね」
「大変なのね。それなのに私ったら、のんきなことを――」
「止めてください、俺なんかに謝るなんて。あっ! これ、こちらのクッキーもいただいていいですか? ナッツが好きなんです」
「ええ、もちろんです。いくらでも召し上がって下さいね」
イレーヤは微笑む。
まるで別世界の人だ。彼女にとっては、何が現実なのだろう。ケリュンとは違うものが見えているに違いない。
たおやかで穏やかで、優しく凪いだ世界に住んでいるかのようだ。
ケリュンはナッツのクッキーを口内に押し込んで、
「……」
ふと、荒れた感情の波に支配されたロッカの姿が、彼の脳裏を横切った。
――イレーヤとはまるで対照的な、あの姿。
ロッカのそばには大抵誰かがいると言う意味でも、イレーヤとは反対だろう。しかしあのときのロッカは、それでも独りに見えた。不思議なことに。
ケリュンは咄嗟に口を開いた。
「あの、イレーヤ様。ロッカ様は、」
と、問いかけて、そこで動きが止まる。
彼女の様子がおかしかった? 当たり前だ、友人が死地に向かって未だ帰ってこないのだから。
大泣きしていた? まるで告げ口のようだ。まさかあの貴族のことまで話すわけにはいかないのに。
そもそも自分は何を言うつもりだったのだろう。ケリュンにも自分がよく分からなかった。
しかし、あのロッカの姿がどうにも焼き付いて離れない。不思議な予感があったのだ。
(これは不安にも似ている)
自分の中の思考をうまく処理できず口籠るケリュンに、イレーヤはきょとんと首を傾げる。
「……ロッカが、どうかしましたか?」
そんな無垢であどけない仕草に勝手に気圧されて、ケリュンは開いていた口を閉じた。
「――いえ、なんでもありません」
彼は力なく首を振る。
イレーヤは
「そうは、みえません」
と零したが、それはあまりにも小さくて、これほどまでに静かな部屋でもケリュンの耳にはうまく届かないほどだった。
イレーヤは苦笑してそれを誤魔化したのだった。
その夜、マルテ王国に、「選抜隊苦戦」の報が届けられる。
この情報は、王国民には限りなく隠匿されることになる。
その伝達はさらにこう語る。
――剥いだはずのドラゴンの鱗が一瞬で生えそろった。
――もいだはずの腕が気付けば復元されていた。
――いくら魔を吐かせた、暴れさせたところで疲弊した様子が見受けられない。
まるで『不死身』のようだ、と。
まさか選抜隊の戦力に不足があるわけではない。彼らは倒せるに違いないと見積もって編成された。武勇に満ち、人々の期待に背を押されている。
そして、イオアンナ・イリニ・ユースチスに率いられている。
英雄譚を歩むべき、むしろ今現在歩いていると評してもよい、勝利すべき者達だ。
しかし、どれも人間だ。
――まさか不死身を殺せるはずもない。
マルテ王城はよりいっそうの暗雲に満たされ、光という希望は隠れ、闇と影はよりいっそうその濃さを増していくのだった。




