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マルテ王国史  作者: ばち公
三章:傭兵時代後編
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イオアンナ・イリニ・ユースチス

 ドラゴンとの戦いのあと、ケリュンは病で寝込んでいた。

 怪我の悪化から入院する羽目になった仲間のため、ちょくちょく立ち寄っていた医院で、あっさりと風邪をうつされた。

 部屋から荷物を運んでやったり、伝言を頼まれては伝えにいったりしていたので、しかたないと言ったらしかたのないことだった。彼はあまり病気をしない性質であったため、完全に油断をしていたのだ。自業自得である。

 滅多にかからない風邪の苦しさにケリュンは倒れ、気絶するように眠り続けた。時おり医師や看護師と話すこともあったが、彼らは穏やかでささやかな話題だけをケリュンに提供した。

 その間、彼は完全に、まるでうずくまる野生動物のように、外界から遮断されてしまっていた。


 彼がやっと、人間らしい知覚を働かせられるようになったのは、その三日後。あの戦いの終わりからは、既に七日は経ってからだった。


 手狭なベッドから体を起こすと、ケリュンは世話になった医師や看護師に挨拶に向かった。

 ここはアルクレシャ中心区の端にある診療所だ。ケリュンは病状が軽かったため、比較的手の空いている場所に回されたのだった。


「あら、ケリュン。元気になってよかったですね! だからって、あまり激しい運動はしちゃダメ、ですよ?」

「できるだけもう来るなよー」


 朗らかな笑い声が聞こえる。簡素な施設だが清潔で、皆親切な人間であった。

 ケリュンが騎士院の傭兵であるという理由で、優しくする者も多いが、そうではなく、ただ己の仕事に丁寧に向き合っている、そんな温かな診療所であった。

――だからこそ、だろう。

 ケリュンが最大限に心も体も休めるよう、よそからの情報を出来るだけ与えてこなかったのは。


「ああ、それでその、ドラゴン退治。前に騎士院のイオアンナ様が向かったそうだよ」

「え?」


 何気ない、雑談としての話題だった。

 ぽかんと固まるケリュンが、まさかイオアンナに特訓をつけてもらっていただなんて、この医師が知るはずもないのだから当然である。

 医師がカルテを書く音が、どこかぼんやりと遠くに聞こえる。ただイオアンナについて語る彼の声だけが、とつとつと響く。


 サイクロップス退治に出ていた本隊の一部が、ルダ様の英断により帰還。ルダ様の評判が高まっている。

 その本隊の一部を率いて、ドラゴンを討ちにいく、その隊長に選ばれたのが、我らが英雄、イオアンナ・イリニ・ユースチス。


 ケリュンはがーんと頭を殴られたような衝撃で茫然としていた。

 何一つおかしなことはない。

 この国で最も強いイオアンナが、精鋭だけを率いて、恐ろしいドラゴンを退治しにいく。

 傭兵隊をあっという間に蹴散らした、あのドラゴンを。ザック・ザーランを殺した、あの。


 ケリュンは気付けば、診療所から飛び出していた。


「おい! 激しい運動は控えろと――」


 背後の怒鳴り声に振り返りもせず、ケリュンはただ全力で両足を動かした。




「さすが英雄、安心感が違うよ。彼女ならやってくれるに違いないさ」

「英雄イオアンナ、逞しいマルテの精鋭を率いてドラゴンを討て!」

「見たかい、あの雄々しい姿! あれぞこの国の誇りだねぇ」

「ママ、私だっていつか、イオアンナ様のような騎士になりたいのー」

「マルテ王国、万歳!! これもきっと我らが王族のおかげだ」

「イオアンナ様を讃える物語を聞きたければ是非こちらへ……」


 ケリュンは駆けた。


 周りは浮かれている。皆が笑っている。

 誰もあのドラゴンを、目にしたことがないからだ。想像上の恐怖は、あっという間に幻想のような希望に上塗りされてしまう。『英雄』、『強者』、『騎士』。

 イオアンナは強い。人並み外れて強い。ケリュンの知る限り最強の人間だ。


――人間、なのだ。


 殴られたら死ぬし怪我をしたら死ぬし、ドラゴンより遥かに小さい、彼女だって人間だ。

 よく動き、周りを鼓舞し、たまにムッとして拗る。誇り高く美しい、マルテ王国の宝。イオアンナ・イリニ・ユースチス。

 彼女はいくらだって伝説を残してきた。しかし、まだ物語以外で、ドラゴンと戦ったことはないはずだ。『竜殺し』の称号は未だ彼女のものではない。


 人々の浮かれた声と喝采のトンネルをかいくぐり、まっすぐにアルクレシャの南東、軍区域近くを目指す。


 息を切らせて駆け回るケリュンを、周りの人間はどう見ていたのだろう。彼は知らない。

 彼が病上がりの身体で、目で、ただ必死に探しまわったのはイオアンナの影だけだ。

 もちろん彼女がどこかにいるはずがない。イオアンナは名前だけ使わせて自分は後ろに引っ込んでいるような、そんな人間ではないからだ。

 代理として傭兵隊を率いるのは、彼女の部下となっていた。彼女の執務室では、別の人間が代理として書類を整理していた。よく彼女が周囲の人と立ち話をしていた場所には誰もいない。

 イオアンナとケリュンがいつも特訓をしていた場所も、がらんどうで。


「……約束、したじゃないですか」


 ケリュンはぽつりと呟く。

 必殺技を教えると、ケリュンにイオアンナは笑ったはずだ。見たこのない、底知れぬ笑みを浮かべて。


(自分はまだ貴女のことをきっと半分も理解できてないのに)


 ケリュンは眩暈にも似た、黒い悲観に脳裏を塗り潰されて俯く。


 だってあれほど強い彼女が元気で帰還してくる絵が、自分には何一つ思い浮かばない。


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