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ケリーはそれからもそこそこ経験を積んでいき、順調に仕事も任せられるようになっていった。忙しくなった分、元々少なかった友人ら――といっても大体がラズールであったが、彼と顔を合わせる機会も減っていた。ケリーの仕事は主に、外部からは秘匿されているガラス工房の警護だったのだが、時たまならず者らしい仕事も回された。
今回もその一つであった。馬車を襲い、全滅させ、荷物は指定されたもの以外は全てこちらが得ることができるという、それだけの仕事だ。
さすがにそれだけの報酬が期待できる仕事を、完全に任せてもらえる、ということはなく、指導役の男が一人ついて来ていた。
山奥でさっさと馬車を襲い、護衛を始末し、逃げ去った奴らをケリーは追った。
草木をかき分け、先に進んで行った指導役の男の軌跡をたどる。開かれた場所に出れば、一人、壮年の男が転がっていた。召使いだろうそいつは当然生きてはいない。血が水たまりのように広がり、その奥にはなんということもない繁みが広がっている。しかし、ケリーはそこへ近づいてしまった。誰かいると思って、はっきり知覚していたというのに、それでも近づいて行ってしまった。
「あっ」
この状況には相応しくない、間の抜けた、小さな声だった。
その繁みの中には、ケリーが意識していた通り、子どもがじっと身をちぢこめて座り込んでいた。死体のすぐそば、その密集した枝や葉の奥には、うまいこと空洞が出来ていたらしい。素晴らしい。奇跡の産物だ。それも、ケリーが棒でかきわけたせいで台無しになってしまったのだが。
「……」
子どもの表情はよく分からない。怯えているというよりも、じっとケリーの顔を観察しているといったほうが正しい。胆が据わっているというより、現実が捉えられていないのだろう。彼は、自分の召使いが腹から流した血だまりの中に座っていた。
――この子どもの靴は、何色をしていたのだろう。召使いの血だまりのせいで、赤く染まっていたそのつま先の、本当の色は――。
本当の問題は、もちろんそんなことではない。ケリーがそのとき茫然と考えていたのは、この子どもをどうするかということだった。
この子はケリーだ。あのぬかるんだ地面、尻にしみる水、深い土の匂い。怯えて息を殺して、じっと延々と――そう、延々と眺めつづけた靴のつま先。どれをとっても、ケリーは確かにこの子だった。
ケリーはこの子どもを殺したくなくて、いっそその手を取って何処かへ共に逃げ出したいとさえ思った。そう、何処かへ。
ふと頭によぎったその考えはあまりにも鮮烈だった。しかし鮮烈な一瞬の、その先のことは何一つ思い浮かばない。
「……」
どれほどの時間が経ったかは分からなかった。ケリーにとってはあの惨めなケリーが大きくなるまでの十数年であり、その子どもにとっては一生以上の時間でもあった。
そして。
ふっと音も無く現れた、今回の指導役の男。子どもにろくに目をやることもなく、ただひらりとその銀の刃をひらめかした。それだけで十分だった。
しまわれたナイフと同時に、声もなく促された。任務完了ということだった。だからあとは、ケリーもこの男も、あそこへ帰るだけだ。
(――雨が降っていたら、きっと助けていただろう)
ケリーは頭のなか、まるでくたびれた老人がする言い訳のように、そんなことを深く思った。
――だけど、今さら何を言っているんだ。いくつもいくつも人を、命を潰してきたこの手が、それを、こんな、バカな話あるだろうか。まるでくだらない御涙頂戴にあやかろうなんて、そんな、まったく、畏れ多いことだ。
その子どもを殺した指導役は、なぜかケリーを酒に誘った。暇だったケリーはついて行くことにした。
町の端っこにあるうらぶれた酒屋は油と酒の臭いがこもって、お世辞にも清潔とは言えない有り様だった。しかしケリーのような人間にはお似合いの場所なのだろう。こぼした酒をきちんと拭いていないに違いない、べたべたするテーブルの表面を眺めながらそんなことを卑屈に思う。
その指導役――彼が自称したのにちなんで、『先輩』とでも言おうか。彼が頼んだのは、昔々、北国から渡海して伝わってきたという酒だった。この酒は有名だがその理由は味でも香りでもなく、手軽に酔うためには、最高のお供であるためだった。ともすれば消毒に使えるほどアルコールの度数が強いくせに、とにかく安いのだ。
ケリーはケチ臭い野郎だと内心呟きながら、すすめられるままに酒をあおった。こもるようなアルコールの匂いと、一瞬ですべりおちていく咽喉を焼く感覚。変に水っぽい風味さえ気にしなければ、この酒は嫌いじゃない。このような職業で、そこそこ長い間訓練を受けた身としては、酔えるはずもないが。
先輩は、ケリーが一杯飲みほしたを見届けると、自分もぐっとグラスをあおった。そしてそのままの、自棄のごとき勢いで口を開いた。
「ああしてさ、子どもを殺しておいた身でなんだがな、いいか。ああいったチビたちには将来がある。ほんと俺の言えた義理じゃあないが、そう、例えばだな、俺があいつを逃がしたとする。そうすると数年、数十年か、もしかするとあいつは、いやあいつが勤勉であったらの話だが、国に仕える役人なんかになったりするかもしれない。そうしたら法を厳しく、悪を取り締まるようになるだろう。うん、俺らみたいなのが生き辛くなる、いい世の中だな。んで、巷の安全にあのチビが貢献するわけだ、俺が命を奪わなかったおかげでな。いや奪ったが、まあとにかく、そうすると俺はあいつを殺さなくてよかったばかりか、こうして、遠回しに国家の平穏――俺はこの言葉好きじゃないがね、とりあえずそれに貢献できるってわけだ。俺みたいな日陰者にできる、唯一の光ってやつだ。まあ殺したが」
先輩は、ケリーの相槌や反応も待たずぺらぺらそう喋りたてた。薬でもやって神経が切れてしまっているのだろうか、酒に酔っているはずもないくせに、目の焦点が定まっていない。彼の語ることが支離滅裂なのもそのせいだろう。
ケリーが愛想の一つも向けないのにも構わず、先輩はさらにいくつか適当なことを喋った。しかし口が回らずぼそぼそとした調子で、何を言っているのか完全に分からない。結局独り言だと思って無視していると、先輩はなにやら口を動かしながらテーブルにつっぷしてしまった。
ただ、その際発した言葉だけはやけに明瞭だった。
「ガキは悪くねェよ」
「……」
「ガキは悪くない」先輩とやらは、何故か二回呟いた。そしてそれきり、特に話題となるようなこともなかった。
彼とはそれから数度顔を合せたものの、数カ月後にはさっぱり音沙汰もなくなって、詳しく聞けば任務中に亡くなったらしい。
まあ、それきりの縁だった。
生まれ持った性なのか、商人の家で苦労なく暮らしてきたためか、もしくはそれ以外の要因か。分からないが、とにかくケリーは自分を否定することができない。そんなこと、己に賭けてしてはならない。ケリーはいつだって、その瞬間の己を肯定する術を探している。
ある日、久しぶりにラズールと顔を合わせた。いや、ラズールと、彼の抱いた赤子に会った。
聞けば山の中、のたれ死んでいた母親の腕のなかで眠っていたのを、こっそり連れてきたらしい。――その時、ラズールが見つけてしまった赤土は、くすんだ暗色の髪、薄汚い布で包まれて、あまり見栄えの良い子ではなかった。しかし、その瑠璃色の瞳は美しかった。今や地に伏せて顔すら分からぬ女譲りだろうか。状況一つ分かっていないだろう赤子は、じっとラズールを見て、笑った、ということもなく、べそべそ泣き始めた。そこで咄嗟に手を伸ばして、抱き上げてしまったのだ。
ケリーはどこか他人事のような相槌を打ちながら、その話を聞いていた。時折浮かび上がってくる、重苦しい、避けようのない憂鬱が、深く心の中を覆った。それはケリーにとって、突き刺されているように思えるくらい辛い話だった。だからうすぼんやりと霞の向こうにある出来事だと、自分を誤魔化そうとした。
しかしそれも、ラズールの次の一言で胡散した。
「子どもなんて育てられんのかな。俺はもともと、貧民街の産まれだから」
産まれてからずっと死に物狂いでなんとか成長してきた、そんな人間が子どもを育てるなんてできるのだろうか――とかなんとか未だラズールは呟いているが、ケリーにとってはそれどころではなかった。『貧民』というその単語に、ケリーは金槌で頭をかち割られたような衝撃を受けた。貧民窟出身の同業者などなにも珍しくはない、ケリーの周りにもいくらだっていた。しかし同期らにはどこも、ケリーより優れた点はなかった。ケリーは元々裕福であったこともあって生き残ることができて、みすぼらしい奴らはどれもはっきり言って愚劣な、格下だったのだ。
それが。
自分と似通った人生を経て、このろくでもない職業に就き、同じような場面に出くわして。ケリーはそれを眺めるだけで、ラズールは手を伸ばしたというのだ!
「二束三文で親が殺されちまうような、そういうのは嫌だよなぁ、」
うちの親ははした金のためなんかじゃない、商品丸ごと奪われて、そのために殺されたのだ。ケリーはそんなことを口走りかけて、その突飛さに我がことながら驚いた。突然押し黙ってしまったケリーをラズールは不思議に思ったが、赤ん坊がぐずり始めたので別れを告げてその場を去った。もうこの仕事に関わることもないだろう、と最後に言い残して。
ラズールは赤子と出会うより以前から、というより最初から、この稼業を長く続けるつもりはなかったらしい。その為に長いこと準備をしていて、もうこれをいいきっかけに抜けるのだとか。
彼の語る言葉全てに打ちのめされて、ケリーはまるで逃げだすようにその場を後にした。
ケリー・レネはその後、とある組織の代表として名を馳せるようになる。




