崩壊の日
アレヤ女王に引き合わされてからしばらく経ったが、ケリュンは平穏な毎日を過ごしていた。
畑を耕し、獣を狩り、郵送のバイトからは少し距離を置いている。あれからマルテ城どころか首都アルクレシャにすら向かわないようにしていたのだが、何の音沙汰もない。
そのまま怯えと焦りをまねく危機感は次第に薄れていき、結局またいつものモスル村での生活に落ち着いていた。
……しかしその一方で、あの日の出来事はケリュンの頭の片隅に、まるで澱みのように居座り続けていた。日々の平穏のなか、ふとした瞬間に浮き上がってはケリュンをひどく不安にさせるのである。
溜息をつく回数が増え、なんとなく塞ぎがちであるケリュンを励ますため、そして彼が他の友人達のようにこの村から出て行くのではないかという心配とも相まって、スゥは今まで以上に彼の元へ足を運ぶようになっていた。
ケリュンは徐々に前のような明るさを取り戻していったが、それでもたまに重苦しい表情で考え事をしている。
このきっかけを作ったであろう配達先で何が起こったのか、ということを根掘り葉掘り尋ねたけれど、ケリュンは何も教えてくれなかった。
ただ苦笑して何でもない、と答えるだけである。
何か彼の気分をがらっと変えるような出来事はないか、と悩んでいると、スゥの元にある報せが届いた。
行商人が、このモスル村を訪れるというのである。
「というわけよ、ケリュン。さ、出かけましょ!」
スゥはケリュンの返事も聞かず、彼を家から引っ張りだした。
「なんだよいきなり! あのさ、俺にも一応今日の予定ってもんがあってだな……」
などケリュンはぶつぶつ言っているが、「しょうがないなぁ」とすぐに笑って許してくれることをスゥは知っている。
彼はスゥに弱い。そのことが、『彼がお人よしだから』、『スゥが幼馴染だから』というだけではなく、自分の親に世話になっているという弱みから来ていることも、彼女は知っている。そして、彼が決して自分に甘い想いを抱くことはないということも。
「広場でお店をひらいてるんですって! 何かいいもの、あるといいわね!」
憂鬱げなケリュンの元へ通うのに、男の傷心につけ込むといういやらしい気持ちがないとは言えない。しかしその努力は報われないだろう。
スゥはケリュンに明るく話しかけるものの、腕を引くばかりで振り返らなかった。なぜか、彼の顔を見たくなかった。
広場には出店が五つほどひらかれていたのだが、その内の一つにケリュンは興味をひかれた。
他の店は食糧やスパイス、町の服など無難な商品を売っているのだが、その店の店頭に飾られているのは、なめらかな乳白色が艶めく細身の壷だった。高価な工芸品を扱っているらしい。
なぜこのような村に来たのかと思ったが、看板を見るに買い取りをメインにしているようだ。モスル村に眠るお宝を発掘に来たのだろう。ないだろうが。
ケリュンはその店に飾られている陶器などを眺めたあと、違う場所に行こうとスゥに声をかけようとした。その時だった。顔はよく見えなかったが、この村に回ってきた行商人だろう男が、背中にぶつかってきた。
バランスを崩しよろけるケリュンに、おざなりに謝罪の声をかけながらその男は去っていった。
「危ないなあ、全く……」
こんなとき、人よりも少し小柄な自分が恨めしい。木登りする際には身軽でいいが。
ぶつぶつ考えていると、カシャンと何かが砕ける音がした。途端「ああっ」と甲高いスゥの悲鳴もあがる。
振り返る前から、さーっと血の気が引く音がした。
とにかく、地面の上に粉々に散らばった白い破片は、そんななりでも美しかった。
「ちょ、スゥ、おま……何やってんだよ……」
スゥは息を飲んで呆然と立ち尽くしていた。店主が飛ぶようにやってきたが、それでもおろおろとしている。
「なんてことしてくれたんだ!!」
「ご、ごめんなさ、私、台にあたってしまって、それで」
「この作品は若干不安定なんだ、おまけに厚さもないし。だからこそ美しいわけだが……。とにかく、弁償、してもらうしかないね」
「あの、私、私……」
土下座から逃走まで、頭の中で様々な考えを今までにない勢いで飛び交わせていたケリュンだが、そこでぱっと二人の間に入り込み、震えるスゥを背に隠した。
「ごめんなさい! 俺、不注意で、俺がやって、その……弁償します!」
店主である男は不審げな表情でケリュンをじろじろ眺めた。
「弁償するったってねぇ、お兄さん。あんた本当に払えるのかい?」
「い、一応、少しなら」
アレヤ女王から受け取った報酬が全てつまった皮袋を、店主に渡した。本当は自分の物をいくつか新調したり、スゥになんか買ってやったりするつもりだったのだが。
男の目の色ががらりと変わる。皮袋の中身は全て銀貨だったが、それでも袋一杯詰まっているのだから相当な額になるだろう。
「なんだ、一括でこんなに出せんのか。一体何者だい? ――でもこれじゃ、かなり足りんよ」
店主は手慣れた様子で銀貨を十枚ずつ並べて行き、計五つの塔をつくった。
「あとこの塔三つ分、つまり金貨三枚分の金が必要だな。あるか?」
ケリュンは弱弱しく頭を振る。金貨一枚あれば、ケリュン一人なら二ヶ月は暮らしていけるだろう。そんな大金あるわけない。
「だろうね、」と店主は鼻を鳴らした。しかし別段不快げではない。店主の目は獲物を狙う鷹のようにぎらりと輝いていた。
「ま、最初にこれだけ払ってもらえりゃ上等だ。稼ぐ宛はあるんだろう?」
「は、はい! だから待っていてください。ひ、一月以内になんとかしてみせます」
だから差押えたりするのは止めてほしい。ケリュンの渾身の訴えに、店主はひょいと肩を竦めてみせた。いつの間にやら、先ほどの恐ろしい雰囲気はなくなってしまっている。まあ、その変わり身の早さが恐ろしいが。
「払えるならいいのさ。じゃ、ちょいと書類作るから待っててくれよ」
いそいそと去っていく店主を見送ると、か細い声がケリュンを呼んだ。
「あの、ご、ごめんなさい。わ、わたし……わたし……」
蒼褪め、震える唇で謝罪を告げるスゥに、「気にするなって」と笑いかけ、頭を撫でてやった。ただ、うまく笑顔をつくれている自信はなかった。
スゥに、「今日のことは絶対内緒にしろよ」と言い聞かせ分かれた後、ケリュンは何十歳も老けたような気持ちで家に戻った。
店主から受け取った、たった一枚の書類が重い。返金に遅れるごとに、畑と家、それからケリュンの順に差し押さえられていくらしい。
両親の残してくれた、全てを。
溜息をつきドアを開けると、足元で何かがカサリ、と音を立てた。
緑の装飾美しい、白い便箋。
アレヤ女王からの依頼だった。
ケリュンは「女王の依頼2」をてにいれた▽