『魔物の波』はこわい
普段の訓練のあと、一人居残りで腕立て腹筋素振り走りこみをこなしたケリュンは、ふらふらしながら同じ班の四人――ザックとジョー、ゼファー、ゾインの元へ向かった。彼らはケリュンを待っていた、というより、班なので待たなければならなかった、という方が正しい。
「お疲れ。水飲むか?」
ケリュンは力なく首を横に振った。無駄に喋ったら内臓が酷使された筋肉に押し出されてとび出てきそうだった。とりあえずそれくらいしんどかった。
ここまでくると身体が先に壊れるのではないか、と思わなくもなかったが、そもそも自業自得であるし、正規兵の皆がやってるなあと微笑ましい目線を送ってきたので何も言えなかった。体は鍛えれば鍛えるほどいいのだそうだ。分からなくもないが、やっぱり騎士院は少しおかしい気がする。実際のところがどうなのか、ケリュンには分からないのであるし。
ケリュンの息が整い、全員が一度部屋に帰って身支度を直したところで、外の食堂で夕食を取ることとなった。以前来て青鳥騒ぎに巻き込まれた、例の店である。あの時と異なり、今回は何故か軽く装備を整えた客が多かった。それぞれ革の脛当てや、腿覆いなんかを身につけている。こういった人々が集まっているのは、この店が軽度の武装なら認めていることもあるのだろうが――ルダが流入してきたと言っていた、冒険者や傭兵の類だろうか。
また、それに加えて、ケリュンには気になることがあった。
「なんか最近、訓練の雰囲気変わったよな? 前は対人と半々くらいだったのに、魔物討伐の戦闘訓練ばっかしてるしさ。あ、俺、芋とチーズのオムレツください」
「俺もそう思ったな。雰囲気もぴりぴりしてやがる――あ、こっちにもオムレツ一つ」
「あ、俺も。……お前ら本当に知らないのか? 最近こそこそと、それについての噂話ばっかりだぞ」
「待って、君らほんとにオムレツしか食わないつもりなの? なんで?」
「うるせぇオムレツ食えよ」
ゼファーが困惑するのも無理はない。ケリュンもザックもジョーも、前回ここでオムレツを食べてからすっかりその味の虜となっていた。別に酒の進む味付けがされているわけでもないのだが、滋味深いといおうか、優しげな味わいで食べていると心まで癒されるような気になる。
訓練で汗と血と暴力に塗れた後だ、たまにはこういうのもいいだろう……なんて言いながら、毎回頼んでいるのだった。
「ジョー、突っかかるなよ。お姉さんが驚くだろ。ごめんね、ところで貴女の名前は?」
唐突に給仕の女性を口説き始めたゾインを、全員で止めた。そしてそのまま注文を取りつけて給仕の女性を解放し、再び本題へと戻った。誰も彼も自由すぎるあまり、話がすぐ横道に逸れる。
「で、えーっと、何の話だった?」
「近ごろ様子がおかしいって話。ケリュンとジョー、本当に理由を知らないの?」
嫌味でなく首を傾げるゼファーに、二人は揃って頷いた。ザックもゼファーもゾインも分かっているようで、それぞれ呆れたような、困惑したような仕草をしている。ただゾインだけはにやついて、どこか芝居がかったように咳払いをしてみせた。
「魔物を狩るための奴らが来たり、対魔戦闘が増えたり、なんだったり、そんな理由は一つだろ」
ゾインは声を潜めた。
「――『魔物の波』だよ」
「えっ、は、うそ!?」
「バッカ声でけーよケリュン」
「どどどど動揺し過ぎだろ、オムレツ食って落ち着け」
「俺そこまでオムレツに依存してねーよ」
まだきてもいないし。
落ち着けなんて言ったジョーもずいぶん衝撃を受けたようで、懐からスプーンを取り出してひたすら握り締めていた。何やらぶつぶつ呟いているが、婆ちゃんやばいぜとかなんかそんな感じだったので、皆放置しておいた。いずれ落ち着くだろう。
「それホント? 情報どこ? なに? いつきた? さっき? マジで?」
「触んな。まあ、ただの噂だけどな。なんとなーく察してる奴もいるってぐらいのさ」
「そもそも僕たち傭兵隊なんかできたのも、それに備えてだって言われてたんだ。んでそれもあって、陛下もまだ公表なさらないけど、多分そろそろだろーってことでさ」
「俺なんか最初からそいつ目当てでこの国まで来たんだぞ。もし波がきたら稼げるだろって思ってな」
唯一の異国出身者であるザックに、はあ、とケリュンはぼんやり呟いた。
――『魔物の波』、
と称されるそれは、現象自体は至って単純で、魔物が突発的に大発生することを指す。波のように群れた魔物が人の地を襲い、命を根こそぎ薙ぎ倒していくその様から、波と表されているのだ。その規模は場合によって異なり、あまりにも爆発的な数になると、ただの波から『魔物の海』と呼ばれるまでになる。
しかしそれほどまでに被害が甚大となるのは極稀で、当然ながら頻度も低い。人間からしてみれば、忘れた頃に起きる災害のようなもの、あるいはこっちの命をそのまま奪い取りにくる蝗害のようなものだ。
つまり割と死活問題なのだが、
「でも陛下がなにも仰ってないってことは、違うんじゃないか?」
神の子聖マルテの子孫、マルテ王国が王族――その中でも王座についた者にだけは、その発生が予知できる。とされているし、ケリュンも恐らくほとんどの国民も実際にそうだと信じている。
魔物の生殖どころか生態についても未だ人知は及んでおらず、その異常なまでに個体数が増加する原理は不明だ。学者は星見をしたりその他状況を見計らったりして、魔物の波の襲来を確かめようとするが、それでも予測は立てられない。どんな占者、呪い師も、それに関する未来を測ることはできない。
現在それができるのは陛下だけ、王国民らが頭上に掲げる我らがアレヤ女王陛下ただ一人である。そしてその通り、今までも魔物の波のタイミングは全て、王の予告、お触れとなって国民に知らされてきたのだ。
(そういえば、ピーナはどうなのだろう)
ケリュンの脳裏にふと浮かんだのは、あの『神の耳目』と称された占い師アグリッピッピーナだった。不可解も通り越していっそ珍妙な奴だが、時たま親切だし、ケリュンからしてみれば一応友人だ。未だ底知れない彼女でも、魔物の波は視られないのだろうか?
「おい、じゃあ、あの本隊が出て行ったサイクロップス退治なんかも、その波の影響か? あの湧いて出た鬼百体をアルコダルクスの谷に叩き落とすとかいう、意味分からんクソみたいな仕事……」
俺なら絶対やりたくない。ジョーの身もふたもない言い草に、ケリュンはなぜか物悲しい気持ちになった。
「お前クソとかいうなよ。正規の奴ら意気揚揚と出てっただろ……。重要な仕事じゃんか……」
彼らの向かったアルコダルクスの谷は、常闇の谷である。一筋の光すら射さないそこは、その不気味さながらも一応マルテ王国が管轄下にある。というのも、そこの地底には灯りとなる光る杭が打ち込まれているのだが、それは遥か昔聖マルテがその地に巣食った不浄の者どもを追い払うために用意したものなのだとか。そんな伝説が残っている以上、国も放置するわけにもいかないのだろう。といっても、その谷底に下りて行く手段は人にはなく、その杭の灯りはなんとなく地上から見える程度に確認されているだけなのだが。だからその扱いも、サイクロップスを叩き落とされる程度には軽かった。
「確かにこれも異常発生といえばそうだよな。どうなんだ?」
「どこからが魔物の波なのかとかは知らないが、あれは関係ないだろ。陛下が何も仰ってない以上、そもそも魔物の波の噂なんて、こっちが勝手言ってるだけだし」
「あまり気にしない方がいいよ? どうせたいしたことないさ。なんたって、陛下が予め知らしめ給われる、それに従えばいいだけなんだし」
「予め知る、なに?」
ザックが慣れない言い回しに眉を潜めている。ゼファーが古めかしい印象さえ受ける尊敬語について説明するのをよそに、ケリュンは肩の力をがっくり抜いた。
「ああー嫌だなぁ。あれがくると、毛皮も肉も、なーんにも売れなくなるんだ。父さんが言ってた。肉はこっちで食うにしてもさぁ、爪も牙もだぞ?」
以前、父が若い頃にも魔物の波がきた、というのを彼が死ぬ前に聞いたことがあった。波がきてしばらくはあらゆる素材を安価で買い叩かれる日々が続くらしい。逆に希少なものなんかは普段の倍以上で売れたらしいが、ケリュンの故郷モスル村周辺にそんな獣がいるはずもない。父としては、とにかく市場が落ち着くまで待つしかないので、ただただ歯がゆかったと言う。
「まあ馬鹿みたいに獲れるしな。実際、それ狙いの奴も多いし。逞しいよな」
「なんだよケリュン、お前狩人なのかよ?」
「兼業のな。まあ基本なんでもやるけど」
なるほど、その流れで傭兵か、と言われたのでケリュンは頷いておいた。詳細を喋るわけにもいかないし、まあ実際そんな感じだった。
ゾインとジョーはしげしげと物珍しげにケリュンを眺めた。聞けば二人とも、初めて狩人なるものを見たらしい。そこで逆にケリュンが驚いた。多少の腕前の持ち主が、そこらで獣を狩っては生活費の足しにするのなんて、珍しくもなんともない行為だったからだ。専門でやるには許可もいるが。
大港フォルレ出身のジョーはともかく、ゾインまで、と思って見やれば、のんき気ままな彼にしては珍しく苦笑していた。
「俺の郷はトネーデンの近くだから、土地も豊かなんだ。農業だけで食ってけるぜ。山もあるけど、お偉いさんの私有地だから出入りがしんどいんだ。肉も買うか交換した方が速い」
「お前なんで傭兵やってんだよ」
「俺、三兄弟でさ。そこまで土地がでかい訳じゃねーんだ。まず兄ちゃんで、次が俺で、それから弟って分けられるんだけど、そいつあんま身体強くなくてさ。だから出てきた」
「今の話いいな。モテるぜ。さり気なさに女はぐっとくるに違いない」
「ああ。いつも使ってる」
「おっどうだ、きてるか?」
「一瞬だけ一気にばーんと上がって、そこから喋ってるうちにどんどん下がってくる感じかな……。もういっちょ盛り上げる小話が必要かなって最近考えてんだ。仕送りのことを話すとかどうだろうな」
ここまでくれば完全にケリュンの知る、いつものゾインであった。彼とジョーが真剣な目付きになるのは給金日と、後はこんな時くらいである。その度にいつも、この班内では比較的真面目なゼファーが呆れた顔になる。
「そういう下卑たことを言ってるから駄目なんじゃないかな……そりゃ誰でも引くよ」
「全く、知らしめ給うぜ」
ザックは特に意味も無く、さっき覚えたらしい言い回しを使っていた。雑そう
な外見に反して、彼はそこそこ勉強家だった。彼曰く仕事だから一応やってるという、それだけらしいが。
ケリュンは話題があちこちに飛んでいく雑談に耳を傾けながら、今度ピーナに会いに行ってみようと決めた。それからジョアヒムに会ってもいいかもしれない、吟遊詩人だけあって、魔物の波だとかそういったネタには事欠かないだろう。本好きのエミネルも詳しいだろうな、そういえば、彼女ももうすぐアルクレシャへ引っ越してくるとの手紙を受け取っていた。彼女は字が下手だった。
――なんて取り留めもなくつらつら思い返せば、ここしばらく、面倒事なんかも多かったが、同時に人との出会いも多かったことに気が付いた。
まずはまさかの女王アレヤ、その娘で王女のクレア、それからその従姉妹のロッカ。恐いレイウォード。おさげのエミネル。吟遊詩人ジョアヒム。子ども占い師ピーナ、その知人テオドアとテギンの夫婦。この班を同じくする傭兵四人と、上司であるイオアンナにルダ。偶然出会った青鳥レナートとラズール。
そしてなにより、麗しの第一王女イレーヤ。綺麗な人だ。本当に綺麗だ。ケリュンには彼女が、この世で最もうつくしく思えるのだ。その姿を思い浮かべるだけでも照れくさくなって、ケリュンはぶんぶん首を振った。
しかしながら、彼らとの出会いと、ケリュンに嵐のように降りかかってきた厄介事はどうしても切り離せない。例えば借金。続く幼なじみスゥの唐突な嫁入り。親の墓のまさかの移動。あとこれはついでだが村人らの手によって、畑に化け物みたいなものが植えられていた。
何故か持ちこまれる有り難くも厄介な陛下からの依頼。魔物使いの男との対面、ケリュンは彼の相棒を殺した。ケリーという狂人との戦い、その後には不穏な物だけが残された。
それから、それから。
「……いや、これからかぁー」
溜息を吐くケリュンの背中を、何やら長話をしていたザックがばしばし叩いた。
「おおそうだぜ。これからが、大変なんだ。おらっお前ら、のめのめ。我らが麗しのマルテ王国ばんざーい、いえーい」
「おっ、国歌でも歌うか? ああー我らが神の子聖マルテー、その血を引く尊い御方様方ああー」
うるさいぞ、とケリュンが止めようとするが、存外周りの客らもできあがっているのか、ジョーの音痴にのりかかり始めた。
ああ我らが神の子聖マルテ、その地を引く尊い御方様方
あなたのための玉座を頭上に、我らはその名誉のもと、栄光と幸福を享受する
ああ我ら集いし王国民、玉座に集いし王国民
我らはその名誉のもとで、栄光を享受する
祝福されしこの土地で、幸福を享受する
歌えている者もいれば、曲を知らずがなり立てている者もいた。恐らく後者は外から来たのだろう。きっと、魔物の波を予想して。
ケリュンは今後のことを思い、運ばれてきた酒をぐっと煽った。
ザック・ザーラン、ジョー、ゼファー、ゾイン:ざじずぜぞ。仲間。
サイクロプス▽
凶暴な 一つ目の鬼。
攻撃力の高い おそろしい魔物。
倒すには 熟練の技が必要だ!▽




