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夕暮れ時。しかしその光も碌にさしこまぬ薄明の森の向こうから、ぬらりと影を纏って現れたのは背の高い人間だった。濃紺色の外套に、フードで顔まで深く覆って、性別さえよく分からない。
ただ、膝丈の柔らかなブーツが足音一つ立てないのは、やはり異常だろう。
鼻歌でも聞こえてきそうな軽やかな足取りであるが、ケリュンはイヤだなぁと内心ぼやいた。友人の為でもないのなら、例え全財産払ってでも相手にしたくない手合いである。
――もうこれ絶対気付かれてるよな、奇襲できないし、砂かけてもあの服で払われるだろうし、ほんとどうしようか。レナート一人なら逃げ切れるか。そういや他にも雑魚っぽいやる気ない追手がいたけど、あれってこいつの部下なの?
ケリュンはぐるぐる考えて、それでも一息でも長く生きるため声一つ発さなかった。レナートも同じように固まっていた。
ケリュンが、相手は暗殺者っぽいし正面突破なら案外いけるかも、と別の方向で算段を立て始めたところ、その人物は唐突に足を止めた。
「出てこないの?」
声は、女にしては低いが、男だと言い切れる程でもない。造ったような声音に、出てくわけねーだろ、と内心悪態を吐きかけたところで、それが別人に向けた言葉だと気付いた。
その不審な人間のさらに向こう、静かに立ち上がる一人の姿があった。
「久しぶり、ラズール」
「ずいぶんだな、ケリー」
父親の姿をみた瞬間、飛びだしそうになったレナートを押さえつける。彼女は暴れ出さない程度には冷静だったが、それでもその手にきつく握られたナイフは、今にも手前の誰かに投擲されそうだった。
ケリュンは落ち着くよう意味も込めて、そっとレナートの肩を叩き、「知人?」とできるだけ短く尋ねた。レナートもかるく首を横に振り応える。ならばあいつは貫録こそ首領クラスだが、ケリュンが想像した、レナートを不幸のどん底に叩き落としたい誰かとは違うのだろう。恐らく。
「なぜ、おまえがここにいる?」
「……ふふ。殺しに来た、と言ったら笑う?」
「なぜだ? 俺は何もしていないだろう」
「何もしていない!?」
突然の激昂に、隠れているケリュンですら思わず背をのけぞらせた。ケリーとかいうらしい不審者はふふ、と狂気混じりに機嫌よく、おぞましく笑う。
「何もしていないか。組織を抜け、子どもを拾い、育てあげた。そんな素晴らしいことをして、何もしていないとは。いやぁ、お見事。あのね、私はね、……あっははは」
「お前クスリに手ェ付けてんのか?」
訝しげなラズールにも構わず、そいつは身を屈めて忍び笑いをしている。明らかに、まともじゃない。
ケリュンの背筋がざわつく、服の下では鳥肌が浮かび上がっていることだろう。彼はレナートの腕をきつく掴んだ。
「レナート、逃げるぞ」
「なんで」
「あいつはお前を苦しめたがってるかもしれない。俺がここに呼ばれたのは、お前の目の前で虐殺されちゃうためかもってこと。予想だけど。詳細は後で話す。逃げようすぐ逃げよう」
「どういうこと、いきなり言われても分かんない、待って、」
「待たない。理由は今言った。違うかもしれない、レナートを憎んでるのはあいつじゃないかもしれない。でも俺は俺の直感を信じる。逃げよう」
「あんな変な奴とパパを二人にしておけって言うの!?」
「なんで今そんな大声あげんの!?」
二人はまるでコント劇のように揃って立ち上がった。降って湧いたような沈黙のなか、ざわりと樹冠が揺れ、森全体が歪んだ気がした。
ちなみにラズールは娘とその友人のあまりの愚かさに、手で顔を覆った。
「役者がお揃いで。あはは、いいじゃない」
誰も彼も既に影のなか。それでもケリュンには、そう言い放ったケリーがにんまり、三日月のように笑んでいるのが分かった。ぞおっと背筋が粟立った。
ケリュンはこういう、元来まともであっただろうに、自ら狂気に突っこんでそれを辺り一面に撒き散らすような、そういう類の人間が心底苦手であった。理解ができないのだ。マルテ王国が、国外の輩から『気狂い宗教国家』と呼ばれている(らしい)ことくらい理解できない。心底意味が分からない。
ケリュンは恐る恐る、その未だに性別すら不明の奴に声をかけた。
「あの、ケリー、だったっけ。その、なんで、ラズールさんとかですね、レナートとか憎んでるんですか? レナはそちらと、その、初対面だって言ってるんですけど……」
絶対何か意味の分からないことを言うと思ったが、ケリーは存外素直に答えた。
「初対面か。あはは。赤ん坊のときに一回、会ったことがあるけどね」
「一回? って……それで、目の前で友達を殺してやろうとするくらい、憎むのか?」
ケリュンが思わず素で問い返すと、ケリーは目を見開いて、それからげらげらと腹を抱えんばかりに哄笑した。
「気付いてまだこいつらに付き合ってるのかよ! 頭が使えるだけの馬鹿かよ! ひ、ひひひ!」
「すいません……」
敵の意図に息を飲むレナートも、ひたすら壁を作って慎重に接するケリュンも、ケリーには見えていないようだった。ただひたすら笑っていたが、ふと、まるで幕が落とされたかのようにいきなり黙って、それからじっと巌のように微動だにしなかった。そして、なにを、と皆が疑問に思いかけた途端、ケリーはまた一方的にべらべらと捲し立てた。
「その、その男。そいつはね、私のやり遂げられなかったことをやってみせたんだ。ハハ、素晴らしいじゃないか。だからね、そいつ、その死がないと、私の今後の世界はないんだよ……。逆に言えば、ラズールを殺せば私は救われる。だから彼は私の救世主だ。生贄、犠牲かもしれない……」
こいつ本格的にやばい。ケリュンは唾を飲みこんだ。今まで変な人間は腐るほど見てきた。女王を崇拝し過ぎて盲のようになる者、意味の分からない黒魔術的な薬に嵌るもの、一人の女性を狂ったように追いかけて捕まり処罰される者……。
このケリーは、どれとも違うおかしさ――単純に、飛んでしまったかのような狂気だった。
「レナート!! あとケリュン! 逃げろ!!」
そう叫ぶラズールを完全に無視し、短刀を構えるレナート。それでもその立ち姿が怖気づいたように強張っているのを見て、ケリュンは溜め息を吐いた。
「だから俺逃げようって言ったじゃん」
「ケリュンくんさっきからなんか小物臭いよ! 根性見せなよ!!」
ケリュンは剣を抜き、その刀身をぽんと片手に乗せた。覗けば背後の景色が映り見える。大体しか分からないが、恐らく異常はない。手下が囲んでいるかと思ったが、それも今のところはないようだ。ぐるり、と肩間接をほぐすよう大きく回した。
「まあ、そうだな。どんだけ発言がおかしくて怖くても、殺せば黙るもんな」
「今のはなんか悪役っぽいね。あっ、合わせたら悪役小物になっちゃう……!?」
「お前結構余裕あるな」
「ほんっとそれだけはケリュンくんに言われたくない……。狙われてるの、ケリュンくんが一番なんだよ? 根性出してよ。君が死んだら、ボク、やだよ……」
ぎゅうっと眼元に力を込め、なさけない表情になるのを堪えるレナートに、ケリュンは鼓舞するよう軽く微笑みかけた。
「大丈夫。俺は死なないよ。まだ、やるべきことが残ってる。……お前は? これが終わったらなんかすることある?」
「ボク、ボクは……そうだね、ケリュンくんに美味しいご飯、ご馳走しないといけないもんね! 絶対死なないよ!」
二人は顔を見合わせて頷くと、前方のケリーを見据えた。
なにやら独りでぶつくさ喋っていたケリーも、奥でケリュンらの様子を窺っていたラズールも、二人が戦闘態勢に入ったことに気付けばあっという間に懐刀を取りだして構えていた。
小物臭い発言という死亡フラグを心配するレナート