王族
マルテ王国は「聖マルテ」によって建国された、議会制の国である。
王族から成る「王族院」、貴族から成る「貴族院」、軍部から成る「騎士院」――以上三つの機関によって議会は開かれ、この三権は平等であるとされている。
しかし最も権威を持つものは、聖マルテの血をひく王族である。
建国の父たる聖マルテは、全てのマルテ王国民の信仰の拠り所である。
聖マルテがその尊い力(本曰く、「我らが父聖マルテ、嘆き悲しみ手を振りあげた。すると木々が生え森が成り、魔物はこちらへ来られなくなった」などの天変地異を引き起こすレベルのパワー)でこの周辺の争いを収める建国の物語は、マルテ王国の住民なら誰でも知っているものだ。もちろんマルテ王国の辺境モスル村出身のケリュンもそうである。
つまりケリュン含む庶民にとって王族は神の子孫であり、目にするのも畏れ多い存在なのだ。
ぴっちり結い上げられた白髪まじりの栗毛の髪は、薄緑のケープに覆われている。そしてその上に輝く繊細な造りの冠が、この国の君主の証である。目にするのこそ初めてであるが、この女性がアレヤ女王なのだと、さすがのケリュンにも分かった。
そして女王の視線がケリュンを射抜く――ケリュンは緊張に潰されるように平伏しようとしたが、
「よい。表を上げなさい」
という絶対的な響きに阻止された。女王の側に控えている門番(右)に視線をやると、彼は真顔のまま頷いてみせた。
それでもしばらくもたもたしていると、
「ケリュン」
と名を呼ばれて肩を竦めた。静かな調子なのにまるで叱責されているようだ。
とにかく、一度(あちらからの不意打ちとはいえ)真っ向から顔を合わせているのだ。そう思い気を引き締めれば、再び視線を合わせてみても大丈夫だった。目が潰れるということも起きない。
「ほほほ、やっと目を合わせましたね」
こうして改めて、愉快げに肩を揺らすアレヤ女王を見ると、当たり前の話だが彼女はケリュンよりも背が低かった。
(人間の目とは不思議なもんだ。先ほどはあんなに大きく見えたのに)
そしてなんとなく凛々しい美貌を想像していたものの、女王は存外かわいらしい顔立ちをしていた。ぱっちりとしたエメラルド・グリーンの瞳は優しげで、赤く塗った唇は小さく、子どものように愛らしい。初雪のように白い肌にはシミ一つない。さすがに老いからくる皺はあるものの、娘が二人もいる年齢には見えなかった。
打って変わってまじまじ眺めていると、女王の大きな瞳が猫のように細められた。ケリュンはさすがに失礼だったかと慌てて下を向いた。
「ケリュン……古代語で鹿という意味でしたか。ずいぶん博識な方に育てられたのですね」
「もったいないお言葉です」
「俺が産まれた日ちょうど行商人がモスル村に来ていて、そこで売りに出していた古代語辞書を父が立ち読みして決めたんです!」とは言えなかった。
ちなみに父がその辞典を読んでいなかったら、ケリュンの名前はディアになっていたらしい。(村の老人曰くどこか遠い国の言葉で鹿を意味するらしいが、恐らく適当だとケリュンは思っている)
「縁起のいい名前。聖マルテの使役する神獣にも牡鹿がいたとか。我が国の国旗にも、鹿の角が描かれているのですよ」
そういえば国旗の片隅に、茶色い引っ掻き傷のような文様があったような気がする。あれだろうか。
「ふふ、無駄話が過ぎたかしら。歳を取ると、どうしても話が長くなってしまって。では本題に入りましょうか。……ケリュン、この度は真にご苦労様でした。こちらがお礼になります。レイウォード」
女王が声をかけると、控えていた門番(右)ことレイウォードが袋を乗せた盆を両手で持ち、前に出た。
促されて袋を手にとると、ずっしりと重い。硬貨の音が鳴る。思っていたよりも、ずっと大金のようだった。
「ケリュン、貴方の迅速な対応には目を見張るものがあります。――再び、ここへ来てはくれないでしょうか。また、別の仕事を頼みたいと思います」
断ろうと思うが、アレヤ女王の朗らかな視線と未だ槍を握りしめているレイウォードの手前、そうもいかない。
ケリュンは渋々――だが決してそうは見えない態度で――“お願い”を受けた。
「光栄です。女王陛下」
女王は鷹揚に頷くと、レイウォードに視線だけで合図した。男は頷き、どこからともなく地図を取り出した。どうやらこのマルテ王城の地図らしく、つまりは国家機密である。
ケリュンの頬を冷や汗がつたった。
「いいですか、ケリュン。この部屋は外と通じています。いわゆる隠し通路というやつですね。私は使ったことがないのですが、ふふふ。ワクワクしませんか?」
寧ろゾクゾクが止まらなかった。
ケリュンはそれから、ぼんやりとしたままモスル村に戻ってきた。
マルテ王国でのことに、全く現実味が湧かない。白昼夢でも見たかのような、狐に化かされたかのような、そんな気分だ。
しかしこれは現実だ。地図も大量の報奨金も手元にある。そして空恐ろしい、嫌な感じも。何やら自分は、蜘蛛の巣に片足を突っ込んでしまっているらしい。……もしかしたら蜘蛛の巣でなくて棺桶かもしれないが。
面倒なことになりそうだ。平穏無事に暮らしていきたいというのに。そうだ、それならいっそ、
「引っ越そうか」
家にあるものを全部抱えて、この村から、いやこの王国から逃げ出してしまおうか。あてはないが、獣を狩って魚を釣って暮らせばなんとかなるだろう。
そんな夢物語みたいなことを一瞬本気で考えた瞬間、
「ダメよ!」
家の窓から姿が見えたケリュンを、出迎えに来たスゥだった。普段のどことなくすました言動もどこへやら、子どものように取り乱しケリュンに縋りついた。
「ケリュンがどこか行ってしまうなんて、私そんなの嫌よ! みんな反対するに決まってるわ。それに私、まだ町にも行ってないのよ。それに畑やお墓はどうするの? お願いよケリュン、引っ越すなんて言わないでよ……」
今にも泣きだしそうな声でスゥに懇願されて、ケリュンははっと我に返った。
そうだ、自分が守っていこうと決めたものは、家だけではなかったではないか。
「ごめんな、スゥ。引っ越すなんて嘘だよ。な? だから泣くなよ」
ケリュンがいくら言い聞かせても、スゥはしばらく涙を止めることができなかった。
そのためケリュンは彼女を宥めるのに必死で、背後の森の木々が不審に揺れたのに気付けなかった。
ケリュンは報酬をうけとった▽
ケリュンは王城の地図をうけとった▽
門番右の名前はレイウォードです。