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マルテ王国史  作者: ばち公
二章:傭兵時代前編
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「誰だ?」


 険呑な声に、ケリュンは思わず足を止めた。


 普段足を踏みいれないだろう執務室のドアを開いたその向こう、山のように書類が重ねられたデスクが目にはいる。その奥から聞こえる声はもうすっかり聞き慣れてしまった、イオアンナのものだった。

 問題はそれがやけに、訓練時の十倍ほどには刺々しいということである。ケリュンを叱りつけているときでも、彼女はこれほどまでに張り詰めた、苛立たしげな声をあげたりしなかった。


「……」


 未だ用件すら告げない不躾な訪問者に、ん? と思ったイオアンナが首を伸ばせば、そこにはどう反応したらいいか分からず、変な顔をして待機するケリュンが突っ立っていた。思わず、いからせていた肩から力が抜ける。


「……なんだ、ケリュンか。何しに来たんだ? また雑用でも押しつけられたのか?」

「違いますよ。すこし聞きたいことがあって。それに最近忙しいようですし、大丈夫かなぁと……」

「ああ、なるほど。最近お前の訓練も見てやれてないな。自分から言っておいてこのザマだ、すまない――あ、そこの冊子を投げてくれ。黒いやつな」

「いや投げませんよ……」


 手渡すために近づけば近づくほど、積まれた書類の高さをまざまざと感じさせられる。途方もないほどの量だ。この山を崩すためにイオアンナはペンを走らせているようだが、この冊子もそのための資料なのかもしれない。


 と思って渡せば、案の定イオアンナはそれを受けとると開いて、なにやら手元の黄ばんだ用紙と見比べはじめた。ついで、はあ、と特大の溜息がもれる。

 眉間の皺をときほぐすようにぐりぐり揉む姿をみて、ケリュンは心底彼女が心配になった。


「これを全て、その、受け持っているんですよね?」

「そうだ。全部私の仕事だ。くそぉ、こいつが嫌で嫌でしかたなかったから、お前たちの担当をもぎとったというのに」


 なるほど、それでイオアンナのような高貴な人間が傭兵隊の隊長なんてやっているのかと、ケリュンはようやく合点がいった。

 しかし自分から志願したとは。

 手を握っては開くイオアンナをみて、ケリュンはその担当をもぎとられてしまった誰とも知らない奴の冥福を祈った。


「くっ。隊長なんて呼ばれて、しかしやっぱり部屋に籠るしかできないじゃあないか……」

「他に手伝ってくれる方なんて、あ、いませんよね。すいません」

「あたりまえだッ!!!」


 くわっと目を剥いてケリュンを振り返る。瞬間興奮のせいで手に力がはいったのだろう、触れていたペン立てがメキョッと音をたてた。わりと色んな道具が立てられているのにいいのか。

 しかしケリュンの冷や汗もよそに、睡眠時間二時間明けのイオアンナはとまらない。


「人はもちろん大勢いる! まあ脳筋ばっかだがな!!」


 ハハハと声だけで笑いながらも、その目はぎらりと据わっていた。


「隊長……(おいまたメキョッて。メキョッてどうなん)」

「ほら見ろよこの量を! 机に収まらず床まで占拠されているこのザマをなァ!!」


 イオアンナは、女にしてはずいぶんでかい手のひらで机を叩いた。あまりの力強さに悲鳴をあげる高価そうな机を、ケリュンは痛ましげに見つめる。

 ついでにそのせいで顔面に飛んできた書類をはがし、散らかったものも集めて元のところに戻した。


「すまないな」

「いえ、別に。というか隊長、ホントにだいじょ……ん?」


 ふと目にはいった書類には、イオアンナではない者の名が書かれていた――恐らく、イオアンナの筆跡で。


「これ……」

「ハハハぜんぶ私の仕事だ」


 仕事というかデスクワークがバンバン回ってくる。


「あいつら脳筋だからな」


 こちらに権限が無いはずの書類まで回ってくる。ちなみにだからといって給金が上がるということはない。


「ホント脳筋ばっかだからな」


 しかるべきところに送ってもまた一周して、しかも期限ギリギリになって戻ってくる。


「というか脳筋しかいないからな」


 地獄だ。

 進むも地獄、引くも地獄、ついでに言えば放置も地獄。


 ただひたすら事務をこなすしかないイオアンナは、その内心の表れのようにペンを机にポイと投げ捨てた。

 ふーと長く息をつき、強張った体から力をぬくように背凭れに体をあずける。イマイチすわり心地のよくない椅子がきしみ、豊かな金髪がさらりと流れおちた。


「大変ですね」

「まあな。くそー、長殿がせめて身を固めてくれればよいのだが……」


 彼女が長殿、と呼ぶのは騎士院の長(と称される)、ルダのことである。

 あの嵐のような初対面時から、ケリュンもいくどか言葉を交わしていた。どれも軽い挨拶からはじまって、現状報告するくらいの短い会話だったが、それにも関わらず目下であるケリュンに丁寧な対応をしてくれた。

 とにかく好人物だったように思う。地位も高く、愛想もよさげで、顔立ちもなかなか整っていた。

 少し喋りすぎるのが玉に瑕かもしれないが、それも彼特有の明るさだと思えば長所にかわるだろう。


 そんな男がなぜ? と思っていたのが顔に出ていたのだろう。イオアンナは気の抜けていた表情を、毒々しいものに一変させた。


「なんやかんやと理由をつけて拒むんだ。ケッ、男色なんじゃねぇのぉ? ――と、言いたいところだが。本人はぼちぼちせこせこ愉しんでいるようだからな。まあ私には長殿の考えなんぞは理解できんよ」

「ものっすごい好き勝手言いますね!」

「子を成してくれれば一応跡取り――次代の長が決まるわけだからな。祝宴は忙しないだろうが、それでも落ち着くものは落ち着く。周りの悩みも減るだろう――」


 イオアンナはそこでくくくと咽喉を鳴らせて笑った。目の隈と顔にうまれた鬱蒼とした影のせいで、その様はまるで狂人のようだ。

 仕事のし過ぎは人の精神を殺すのか、とケリュンは戦慄を覚えた。なるほど、城は魔窟とはよく言ったものだ。モスル村が恋しい。


「一度お前にも見せてやりたいな。あそこの侍従らの必死っぷりは見てて恐ろしいほどでな。それを全力で回避しようとする長殿もまた面白、いや、すさまじいのだ」


 ケリュンはなんと言うべきか迷った。ツッコミをいれるべきか流すべきか真面目に返すべきか。

 とりあえず思うがまま口に出すことにした。


「隊長寝て下さい。貴女疲れてるんですよ」

「寝てるよ、寝てるとも! たらふく食ってたっぷり寝て、そして死ぬほど仕事するだけの毎日だ! まさに無味! 無味乾燥!!」


 デスクワーク専門。一向に減らない書類の山と向い合うだけの、機械のような毎日。

 ああ、と嘆くようにイオアンナは天井を仰ぐ。


――私の本分がペンを握り室内に籠ることであったならば、まだ受けいれられた。だが違う。私は騎士、誇り高き騎士院の一員なのだ。


「仕事の合間に剣を振るう……それだけが、今の私の心のオアシスだ」

「いややっぱり寝て下さい隊長。貴女疲れてるんですよ」


 ケリュンはとにかくイオアンナが心配だった。はっちゃけ過ぎなのはこちらとしては別に構わないのだが、明らかにテンションがおかしい。頭から何か大切なものが飛んでいってしまったかのようだ。わりと飛んでいってはいけない物が。


 このままでは体調にまで不調が生じる可能性も、いや、もう出ているかもしれない。


「寝たらどうなる。答え! 紙が溜まる!」

「適当に戻してきますよ。俺に手伝えることがあったらしますし。まあ一見したところ、明らかに無いですけどね……」


 無学な平民の限界である。イオアンナに言われたこともあってコツコツと勉学にまで手を伸ばしているものの、さすがにここまで責任が重く高度なものにはまだ手が出せない。


 イオアンナは子どものように唇をとがらせた。


「役立たずめーっ」

「はい、隊長にしかできないんですよ。体はもちろんですが、心も壊しちゃダメです。ほら、騎士院が回らなくなってしまいます。だから休んでください」


 ことさら口調を落ちつかせて労わるように言えば、机に顎を乗せたままイオアンナはケリュンを見上げた。

 その表情は疲れているだけでなく、どこか不満げにみえる。気に障ることでも口にしてしまったのだろうか。


 なにか言われると覚悟したのだが、イオアンナは意外にも溜息を一つついただけだった。


「全く、お前の言う通りだな。休みか――うん、そうだな。すこし、休むか」

「そうですそうです」

「お前の話はいいのか?」

「はい。いつでも大丈夫です」


 打って変わって顔から強張りがとけ、穏やかな雰囲気になった。大義名分を得て気が楽になったのだろう。本当に真面目な人だ。


 イオアンナはごろりと机に頭を乗せたまま、動こうとはしなかった。

 このまま休むつもりなのだろうか。その体勢は辛いと思うのだが、しかし本人は気にした様子もなく、ただぽつりと呟いた。


「起きたら書類は増えてるんだろうなぁ」

「えーっと、そうですね」

「減ってはないよなぁ」

「まあ、そうですね」

「否定してくれんのか」

「え、すいません」


 本人も分かりきっていることだろうから、そのまま素直に相槌をうっていたのだが。


 しかし咎めるような内容に反して、その声音は優しかった。その調子の通りイオアンナは頬をゆるめて、「お前はあほだなぁ」と笑った。言われていることはともかく、まあ隊長が笑えているならなんでもいいか、とケリュンも「すいません」と笑った。

 イオアンナは何がそこまでおかしいのか、くすくすと小さく笑い続けていたのだが、ふとその声も止んだ。目の醒めるような青色の瞳が、すっかり瞼に隠されている。


 もう寝たのか、とケリュンがそろりと部屋から出ていこうとしたところ、唐突にその唇が薄く開かれた。


「……剣だけ、振るっていられたらいいんだ。私にはそれだけでいいと言うのに――」


 ほろりと零された本音は、それ以上続けられなかった。寝息は聞こえないので、眠ったわけではないだろう。

 しかしケリュンは何も言わず、静かにドアを閉じて、その場を後にした。




 好きなことだけして生きていられたら、どんなにか幸せだろう。しかし、それを出来るのが数限られた人間であることを皆が知っている。


 しかし不思議なことだ。イオアンナは地位があって富があって名誉も実力も揃っているというのに、こうも仕事に縛られている。


 比べれば他の皆はどうだろう。

 自由、で思いついたのはまずピーナとジョアヒムであった。あれだけ奔放に生きている二人には、富も名誉も実力もある。まあその背後をよく知らないジョアヒムに富があるのかは不明だが、吟遊詩人の大半が働く必要のない金持ちのボンボンであることから鑑みるに、そこそこの財産はあるのだろう。しかし現在、どちらにも縛り付けるような地位や立場というものはない。


 やはり地位のある人間というのは大変なのだな、とケリュンは城に来てから何度目かしれないその思いを新たにした。

 ……何一つそろってないくせに、結構好きなことばかりして生きている自分が、そんなことを考えるのも無意味かもしれないが。




 結局午後の特訓もなくなって暇となったケリュンは、ぶらりと外に出ることにした。


 先ほど、様子見がてらイオアンナに尋ねてみようとしていたことは、レナート――というより、かの義賊『青鳥』についてであった。

 あの逃走劇から七日ほど経過していた。

 彼女に関しては一応の疑惑も晴れて、(元々たいして熱心に調査されていなかったこともあるが)国が追いかけることはなくなったらしい。

 それなら今、その義賊についての調査はどうなっているのか、そこらへんを詳しく聞きたかったのだ。


 まあ結局目の死んでいるイオアンナに問うことはできなかったのだが、


「あー。久しぶり、か?」


 その必要はなかったようだ。

 ケリュンが首を傾げると、その顔を隠すスカーフ以外、何一つ変わったところのないレナートが苦笑した。


「久しぶりだね、ケリュンくん」

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