神様は時にいたずらを仕掛ける
「拓実~これ見てこれ」
聡美が雑誌を開きながら、近づいてくる。まだ仕事中の午後3時であるにも関わらず、室長としての行動などお構いなしとでも言いたげに、笑みを浮かべていた。
確かに、この時期は急激に仕事が減る時期だった。夏のボーナスを使い果たした人間は秋にはお金を使うことをためらうらしい。俺には解らない感覚だが。
その為、皆デスクに向かってはいるものの、やることと言えば、どうしたらお客を呼べるかの企画を考えることくらいで、要は時間を持て余していた。
「なんだよ、室長様」俺は精いっぱいの皮肉をこめて聡美をそう呼ぶ。聡美は一瞬眉を寄せたが、まぁまぁとなだめるような声を出して持ってきた雑誌を手渡した。
「フリック・スタークがまた個展開くんだよ。見に行こうよ」
聡美が指差した記事には「新進気鋭デザイナー」「再来日」などの活字が躍っていた。
フリック・スタークは、今世界中で売り出し中のインテリアデザイナーで、風変わりだが違和感のない作風を、俺も聡美も気に入っていた。一昨年に来日した時は意気揚々と見に行って、二人ともまんまと作品を買ってきてしまった。それにしても、いつも気難しい顔をしているな、と大きく載った写真を見ながら、人柄は好きになれそうもないな、と思った。
「あほか、お前は」俺はそう言ってあごで隣のデスクに座る山田を指した。
「今回は山田と行けよ。わざわざ俺と行く必要はないだろう」
「え?」と二人同時に声を上げる。そして同じタイミングで顔を見合わせて、計ったように「なんで?」と同時に訊ねた。
「俺より岩さんの方が詳しいでしょ? 聡美さんについて行ってあげてよ」
「そうだよ、啓輔はあんまりフリック・スタークには興味ないんだって。だからさぁ、付き合ってよ」
そして半ば強引に押し切られた形となった俺は、次の休みである今日なぜか聡美と個展に来ているという状況なわけだ。
「なにぶつぶつ言ってるの? 先行っちゃうよ」
「俺はここに至るまでの説明を――っておい待てよ」
はやる気持ちを抑えきれないのか、一人でスタスタと先に行く聡美を仕方なく追いかける。
個展会場は大型ショッピングモールのイベントホールに設けられていた。恐らく明日になれば多くの客でにぎわうのだろうが、今日は平日、それに午前中ということも手伝ってか、客入りはまばらだった。
入口に受付が立っていて、テーブルの上にはフリック・スタークの本がずらりと並んでいる。これを買えば、本人にサインしてもらえるというわけだ。俺はもちろん買うつもりはなかったが、聡美は迷うことなく本を手に取った。
「やっぱりさ、せっかく本人がいるんだもん、サインしてもらわないとね」
会場に入ると、本を片手に聡美は嬉しそうに奇抜なインテリアの数々を見てまわった。太陽の形をかたどったウォールデコレーションやら、バオバブの木をイメージしたコートハンガーやら、アマゾンをイメージしたテーブル、なんてものもあった。
その中に見覚えのある椅子を見つけて、俺は思わず「ほう」と声を上げた。
その椅子は一昨年に俺が買った椅子にとてもよく似ていた。恐らく改良版なのだろう、若干フォルムが違う。俺はしげしげと椅子を眺めながら、リビングに置いてあるこれとよく似た椅子を、野島が気に入っていたことを思い出した。
引っ越しの際、「コレちょうだい」と本気で言うほどの気に入りようだった。さすがにン十万もした椅子を簡単に手放すことはできず、「ふざけんな」と一蹴したが、あの時の野島の落胆ぶりを思うと、あげても良かったかな、と少し後悔した。
「このイス、気になりますカ?」
出口付近でサイン用のテーブルに座っていたはずのフリックに突然声をかけられて、失礼ながら、少々身を引いた。あわてて取り繕う。
「あ、ああ、一昨年に来日された時に、これと似た椅子を買わせていただきまして」
「オゥ! そうですカ、それはそれハ、ありがとうございまス」
フリックは流ちょうな日本語を駆使して、とても気さくに話しをする。写真で見るイメージとは大違いだった。アレはカメラマンが下手なのだろう。
「このイスは、ワタシの奥さんの為に作ったモノなのでス。奥さんにはいつもきれいでいて欲しイ。ダカラ、このイスは、完成することがないのでス。奥さんがよりきれいになれるようニ、ワタシいつも手直ししてまス」
「へぇ~そうなんだ。良い話ですね」いつの間にか横に来た聡美が感嘆の声を上げた。
「お前な、音もなく忍び寄るんじゃねぇよ。びっくりするだろうが」
「別にそんなつもりじゃないんだけど。拓実がフリックさんと話をしてるからあたしも混ざりたかったんだよ」
「それはお前が一人ではしゃぎまわってるからだろう、まったく……少しは室長らしくして欲しいもんだ」
「悪かったね、室長らしくなくて」
聡美はフンと鼻を鳴らしてべろを出した。付き合いは長いが、こういう所はいつまでたっても子供だな、と苦笑する。聡美のこういう所は嫌いじゃなかった。
「オゥ! ケンカ良くないでス。日本のことわザにこういうのありまス『夫婦ゲンカは犬のクソにもならない』夫婦は仲良くしないとダメですヨ」
俺たちのやり取りを聞いていたフリックが突然的外れなことを言い出して、思わず吹きだした。聡美も笑っては悪いと思っているのだろうが、こみあげてくる笑いをこらえるのに必死だった。
「フリックさん、それを言うなら『夫婦喧嘩は犬も食わない』ですよ。それに使い方も間違ってます」
「オゥ、そうでしたカ? 日本語難しいですネ~」
「フリックさん、サインもらえますか?」
聡美が持っていた本を差し出してお願いすると、フリックはもちろんでス。と言って聡美をテーブルの位置までエスコートした。
本にサインをしてもらいながら楽しそうに会話する聡美を遠巻きに眺めながら、ぼーっと立っていると、思いがけず後ろから声をかけられた。
「よ、デートかい?」
突然現れた声の主にあわてた俺は動揺を隠すこともできず、ようやく絞り出した声は裏返っていた。
「の、野島? どうしてここに?」
「相変わらずモテるんだねぇ岩崎君は」
「ば、バカそんなんじゃねぇよ。アレはうちのオフィスの室長。俺はただの付き添いだって」
慌てふためく俺の様子を見て野島は冷たい目を向けた。顔は笑っているが目が笑っていない。ちょっと待て、何か勘違いをしているぞ、っていうか何で俺はこんなに動揺してるんだ。山田が変なことを言うからだ。と責任を山田に押し付けてみるがそうしたところでなんの解決にもならない。
「な~に慌ててるんだか、あたしはね、このショッピングモールに新しくオープンする店舗の新人育成の為に一日だけ来てるんだ。たまたま通りがかったら岩崎君が見えたから、ちょっと寄ってみたんだけど……お邪魔かしら?」
「そんなことねぇよ、そうだ、ホラコレ、家にある椅子と似てるだろ」
何とか動揺を鎮めようと、野島の注意をそらすために、椅子の話を持ち出す。が「お待たせ~」とやってきた聡美の登場で、目論見はあえなく頓挫した。
「あたし、そろそろ時間だから……じゃね」
くるりと踵を返して、足早に立ち去る野島は明らかに苛立っていた。顔には終始笑顔が張り付いていが、営業スマイル丸出しだった。
神様の気まぐれに俺は頭を抱える思いだった。別に付き合ってるわけじゃないんだから誤解されたって構わないだろ。と囁く頭の中の俺も、やはり動揺を隠しきれていない。
変な誤解をされちまったな、と後味悪く会場を後にした。隣でフリックにサインしてもらった本を大事そうに抱える聡美に少し、苛立ちの視線を送りながら。
携帯を耳に押し当て、長いコールをただ黙って聞いていた。リビングには目の端にノブナガの姿が見えるくらいで、音もなく静まり返っていて、命令をもらえないテレビが恨みがましく画面をコチラに向けている。時刻は22時を10分ほど過ぎていた。
フリック・スタークの、あの椅子がリビングの隅で床に置いた間接照明の光を浴びて、ひっそりと影を落としていた。そう言えば買ってからほとんど座ったことがないなと、あの椅子に座って『これ良いね!』とはしゃいでいた野島の姿を思い出した。
もしかしたら出ないかもな、と諦めが顔をのぞかせた頃、「もしもし」と小さい野島の声が聞こえた。
「お、おう。起きてたか?」
「うん」
「そうか、いや、何してるかなと思ってさ」
「別に。何もしてないよ」
「そうか」
「うん」
野島の声は抑揚がなく、取り付く島もない感じだった。どう切り出したものかと迷う。
そもそもなぜ電話をしたのかさえあいまいだった。妙な誤解をされたままでいることが釈然としないだけで、だからと言って誤解をとかなきゃいけない理由にはならない。
「あの――」
二人同時に声を出した。不意に声が重なって妙に気まずい。
「どうした?」
「あのね……あたし謝ろうと思って」
野島は明るい声を出した。それはとても自然な声だった。
「今日、あたし態度悪かったね。ゴメン」
「別にお前が謝ることじゃねぇよ」
「通りから岩崎君が見えたから声かけようと思って、近づいたら女の人と楽しそうに笑ってるのが見えて、あたしなんだかわかんないけどちょっとイラッとしちゃってさ。気がついたら嫌味言いに行ってた。よくよく考えたら、岩崎君が誰と付き合おうと、あたしが気にすることじゃないのにね」
野島は言い終えると、力なくあはは、と笑った。
「ごめんね。今日は全面的にあたしが悪かった」
「そんなに謝るなよ」
意図せずに口から零れた言葉は、自分でも気付かないくらいの小さな声で、野島は「え?」と訊き返した。「何か言った?」
小さく舌打ちして息を吸い込んだ。何やってんだ。俺らしくもない。と意識して大きい声を出す。
「結構迷ったんだぜ、電話かけるまで」
ホントは2時間携帯を握ってた、と自分を嘲笑う。
「さっきも言ったけど、あいつはうちのオフィスの室長で、あいつの好きなデザイナーが来日したから、どうしても行きたいっていうから俺が付き合ったんだ」
言いながら、これも言い訳がましいなと思った。野島は信じてくれるだろうか。
「あいつとはもう5年の付き合いだからな。仕事仲間としても、友達としても。話をするときは、笑顔にもなるさ」
「そう……なんだ」
「それに……これ言ったら信じるか?」と少し含みを加えて「あいつは山田と付き合ってる。もう一年前からな」と言うと、野島は「え?」と驚いた声を上げた。
「山田くん、彼女出来たんだ。それも同じオフィスの室長と?」
「ああ……お似合いだよあの二人。あいつに彼女ができたときはそりゃあ嬉しかった」
山田から正式に付き合うことになったと報告を受けたときのことを思い出した。照れて赤くなる山田の顔が幸せに満ちていて泣きそうになったときのことだ。
「そっかぁ。あの山田くんに彼女がねぇ……」
野島も昔を思い出しているのだろう。不自然に語尾が伸びている。
「野島のあの顔は効いた」張り付いただけの笑顔を思い出して苦笑いする。
「え? 何のこと?」野島はまるで自覚がないようだった。
「さっきの顔だよ。営業スマイル。いつものお前の顔と全然違かった」
「嘘、結構自然と笑えてたと思うんだけど」
「初対面の客ならともかく、あの顔で俺を騙せると思うなよ。あの顔で来られたらそりゃ動揺するよ」最後の方だけ小声になった。
「もうあの顔は勘弁してくれ」
野島は「ふ~ん、あれが岩崎君の弱点かぁ」と、今度はいつもの調子であはは、と笑った。
つられて笑いがこみ上げる。
もう切るぞ。舌打ちまぎれに言い放つ。
「誤解は解けたのか?」と頭の中の俺が訊いてくるが、そんなことどうでもいい。と黙らせた。
「じゃね、バカ岩崎」
「うっせ、バカ野島」
続く