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涙の前に男は無力になる




「あ」と言って野島の顔が一気に曇った。

 今の今まで、お皿に盛られた『米沢牛フィレ肉のステーキ・夏野菜のソース』を食べながら「おいしい!」とはしゃいでいたのに。ナイフの動きを止めたまま、何かに目を奪われていた。


 野島がこないだのお礼にレストランに行こうと言い出したのは3日前だった。大人気お笑いコンビがやっている、料理の値段を当てる番組を見ている最中に「ここに行きたい」と目を輝かせたのだ。

 もちろん、当然の報酬を断る理由もなく、その場で予約をして、今ここにいると言うわけだ。


「どうした? おいしくないのか?」

 そう訊ねると、野島は我に返ったように瞬きをして「う、ううん……おいしいよ」と引き攣った笑顔を作った。思い出したようにナイフを動かす姿はあからさまに何かを隠していた

 その後も、話しかけても反応が無かったり、スープをすくったスプーンを冷ますわけでもなく宙に浮かせたり、しまいにはワインの入ったグラスを取り損ねて落としそうになったりと、野島は何かが気になって仕方がないようだった。

 一体何に気を取られているのかと、さりげなく視線の先をたどると、2つほど離れたテーブルに座るカップルにたどり着いた。


 そのカップルは、言っちゃ悪いが、あまりにも不釣り合いに見えた。女の方は、高そうなアルマーニのスーツを違和感なく着こなすメガネ美人で、洗練された振る舞いと、さりげなく飾った貴重品も手伝って、全身から高貴なオーラを漂わせているが、男の方はと言うと、スーツはどう見ても、某格安紳士服チェーン、2着で1万円と言った感じだし、安っぽいシルバーの指輪に、そこだけ頑張ってみましたといわんばかりのロレックスの腕時計がなんともミスマッチで、どう見ても女のオーラに負けていた。

 ただ、見てみると、男が頑張って女に合わせている、と言うよりは女のほうが男に惚れているように見えた。男がどんなに不器用なテーブルマナーをしようが、優しく見守っていると言った感じだ。

 視線を野島に戻すと、まだあのカップルに釘付けで、まるで俺の存在を忘れているかのようだった。

心ここにあらず、な野島が少々腑に落ちない。「うまかったな」と笑顔で声をかけたが、やっぱり返事は無かった。


 レストランから駅までの帰り道、ホームでの待ち時間、電車の中、全てにおいて野島は黙ったまま俯いていた。

 駅を出て、マンションまでの道のりを俺は隣を歩きながら考えていた。野島のあの変貌ぶり。考えられる理由は一つしかないように思えた。

 訊くべきか、訊かざるべきか、悩んだが、とぼとぼと歩幅せまく歩く野島を見かねて仕方なく口を開く。

「……さっき、離れたテーブルに座ってたカップル」と言うと、野島は一瞬ビクンと体を震わせて、不安げな目を向けた。

「あれ……元彼、だろ?」

 その言葉を聞くや否や、野島は足を止め、力なくうなだれた。


 街路灯の灯りが暗闇に小さく野島の影を落とす。いつの間にか鳴きだした鈴虫の声がかろうじて静寂を拒んではいたが、重苦しい雰囲気を打開するほどではなかった。

「あいつ――」しばしの沈黙の後、野島は呟いたが、それは鈴虫の声にも負けそうな限りなく小さい声だった。「あんな高級レストランに行く甲斐性なんて無かったくせに」



 家に帰ると、ノブナガがいつものように出迎えた。ただいま、と声をかける。

 リビングの明かりだけ点けて、野島をソファに座らせると、俺はコーヒーを淹れて、差し出した。

「もうすぐ30にもなろうってのにアルバイトで――」野島はコーヒーを受け取ると小さな声でポツリと話し始めた。視線を落したまま。それはひとり言のようにも聞こえた。

「大して収入もないのに無類の博打好きでね、休みと言えばパチンコか、競馬場によく連れて行かれたよ。それで決まって大負けすると『お金貸して』って言うの。自慢じゃないけど、あたしそれなりに稼いでるし」

 話の途中でノブナガが足にすり寄る。野島はノブナガを抱き上げて、膝に乗せ、頭を撫でながら続けた。

「誕生日も、記念日も何も祝ってくれなかったけど、人懐っこくて、甘えんぼで、そんで、たまに、ホントたま~にね。優しいの」

そう言って笑顔を作る。野島の目からは今にも涙があふれそうだった。

「夜、友達と遊んで帰りが遅いあいつを待ってるとね、必ず連絡があるの。『大丈夫か?』って『さみしい思いをさせてごめんね』って。たったそれだけだけど、あたしすごく嬉しかった。愛されてるって思った」

 俺は黙ってティッシュを差し出した。大きい瞳に極限まで溜まった涙が耐えきれず零れ落ちたからだ。野島はティッシュを2枚とると、くしゃくしゃに丸めて目にあてた。

「……あたし、好きだった。どんなに甲斐性なしで、どんなにお金に困ってても。どこで何やってるのかわからなくても、最後はあたしの元に帰って来てくれる、あいつが大好きだった。だから、あの日『別れてくれ』って言われた時も最初信じられなくて、何度も訊いたんだ。『どうして』って。でもあいつは何も言わないで、『出てってくれ』って。ホントは啖呵切って出てきたんじゃなくて、途方にくれたの。信じてたあいつに裏切られて、行くところもなくて、気がついたらこのマンションに向かってた」

 一旦吐き出した想いは、容赦なくあふれ出して、野島は嗚咽を漏らした。とめどなく流れる涙は止まることなく、静かな部屋に野島の泣き声だけが響いた。


 俺は黙って野島の隣に座り、優しく肩を抱いた。「こいつは友達だろ?」と頭の中の俺が訊ねる。ああ、こいつは大切な、大切な旧友だよ。だからなんだ。泣いてるこいつを今ほっとけるかよ。今は、俺がこうしたいんだ。

「ったく。泣き虫め……すきなだけ泣いちまえ。落ち着くまでこうしててやるから」

 肩に回した腕に少しだけ力を込める。

「あたし、ホントは解ってた。あいつが『別れよう』って言ったのは、他に好きな人が出来たからだって。でも信じたくなかった。あたしと同じくらい、あいつもあたしのこと好きだって信じたかった。あんなとこ行かなきゃ良かった。あいつのあんな姿見なきゃ良かった」

「もういい。黙って泣いてろ」

「どうしてあんな女なの? どうしてあたしじゃダメなの?」

「ったく――」

 俺は野島の顔をぐっと引きよせ、喋り続ける唇を自分の唇で塞いだ。野島は一瞬だけ体を強張らせたが、黙って俺に体を預けた。



 野島が泣きやむまで重ねた唇を離した頃には、俺の顔は、野島の涙と鼻水でぐしょぐしょだった。額を合わせてじっと目を見る。涙で濡れた瞳がゆらゆらと揺れている。

「……バカ岩崎」

「お前の方がバカだろ」

 俺は小さな肩を抱き寄せて、耳元で囁いた。野島の肩から力が抜け、笑顔になった気配を感じる。

「……そうだね。バカだね、あたし」

「セックスしちまうか?」

「女の弱みに付け込むのは、良くないよ」

「バーカ、冗談だよ」

 暑い。いや、熱い。心も体も、真夏の太陽がじりじりと身を焦がすように、野島の体温はじっくりと俺を焦がした。










「悪かったね。いきなり押しかけちゃって」

 野島はトラベルバッグを片手に晴れやかな顔で、あははと笑った。玄関のたたきを隔てて、俺と野島の距離は少し遠くに感じた。

「ホントだよ。もう勘弁しろよな」

 悪態をついて目をそらす。


 暑さがいつの間にか、段々と弱まっていた。

 野島はあの後、新しい部屋を探し、一からやり直す決意をした。

「あいつのことは、昨日の涙で全部流してやった」と言って軽快に笑った顔が目に浮かぶ。


「家具とか、どうすんだ?」

「ん~いきなり全部はそろえられないからねぇ。まぁ、何とかなるでしょ」

「考えなしかよ。まったく。俺の方からも友達当たってみるから、いらない家具とかあったら連絡するよ」と、手で電話の形を作って耳に当てるしぐさをした。

「ありがと、岩崎君にはお世話になりっぱなしだねぇ」

「バーカ、気にすんな」

「うん、気にしてない」

 野島は、あはは、といつものように笑って、じゃあ、と手を挙げると背を向けた。そして歩きかけた足を止めて、背を向けたまま「ありがとう……岩崎君の所に来て良かった」と呟いた。

 ふたたび歩き出した野島の背中に玄関から身を乗り出して「野島!」と声をかける。

「お前と過ごしたこの何週間か、すげぇ楽しかったよ」と振り返る野島に合鍵を投げ渡した。

 急に投げつけられた合鍵を野島があわてて受け取るのを見て

「いつでも来いよ。待ってるから」と手を上げる。


 野島に渡した鍵には、帽子をかぶったトナカイのストラップがつけられていた。





短編はここで終わりましたが、まだまだ続きます

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